幸せを欠いた生に意味は無いと思いました。
いつも何のためにお金稼いで、ご飯食べて、寝て、また仕事して、生活しているんですか?
―「生活のため。」
なるほど。
ではその生活は何のためにあるんですか?
―「幸せのため。」
なるほど。共感です。
では、いま「幸せじゃない」人や、これから「幸せになる展望がない」人って。
いったい何のために生きているのでしょうか。
いえ、決して馬鹿にしているわけではありません。
私自身がそうなのです。
人に賞賛されたい。何かすごいことをしたい。
でも、世の中には自分よりすごい人がたくさんいます。
私これでもけっこう頭良いんですよ。志望大学には落ちたんですけどね。
一応後期試験で拾ってもらった2流の国立大学に生息していて、そこに私と張り合える人間なんていないと思っていたんですよね。
ところがどっこい、自分よりもすごい人がたくさんいました。
私は何でも器用にこなせるけれど、器用貧乏止まりです。
周りの人は苦手なことこそ多いかもしれないけれど、専門性が非常に高いことがわかりました。
何でも出来て専門性も備えている人だってもちろんいました。
さてここでお久しぶりに質問です。
私の価値は、私が生きている意味はあるのでしょうか。
―「……。」
すみません、愚問でした。
今知り合ったばかりの人に判断してもらうことではありませんでしたね。
私は、ないなと感じました。
私が出来ることに関しては、他の誰かが既に成し遂げている、あるいは実行するポテンシャルを持っています。
それに、私はその他人間性に関しても割とクズです。
自分に嫌気が差すことだってままあります。
そして、これまで述べたこと、恥ずかしすぎて述べられなかったことをそれぞれ含んで、私は今幸せであると胸を張って言うことは出来ない。これから幸せに暮らしていけるとは思えない。そもそも健康で文化的な最低限度の生活を自分の力で維持する自信もスキルも無い。
この先、生きていく意味、あります?
―「生きること自体に意味がある。生命は尊いものだ。」
はいはいそうですか。
一般論的にはそうかもしれないですね。
子孫を残して種を存続させる必要がある、という意味では生物学的にも生きること自体には意味がありそうです。
でも、それは、生きている主体の感情を余りにもないがしろにしすぎですよ。
私は生きていていっぱい苦しい思いをしています。
誰が何の権限でそんな苦行を私に強いているんでしょうか。
身体の自由って自分の身体を他者に理由なしに拘束されないって意味じゃないんですか。
幸福追求権って他の人の人権を買いしない範囲で自分の幸福を求めても良いよっていう権利じゃないんですか?
思想良心は自由なのに「生は尊い」というバイアスは強要されてしまうんですか?
つまらんな。
ああそうそう。
仮にすごいことを成し遂げたって、人からたくさん賞賛されたって、自分が死んだら自分の中には感情も思いも考えも財産も残らない。
結局のところ、生まれて0から始まって、0に終わるのが生き物です
誰かに何かを残したって、死んだ後それがちゃんと誰かの元に残ったかな、って確認することも出来ないんですよ。
ならいつ死んでも一緒じゃないでしょうか。
生きるのってキツいですね。
みんな毎日何のために何を思って生きているんですか。
もしかして思考停止の歯車ですか。
すごいですね。幸せな人生を送っている証拠だと思います
うらやましいですよ。まったく。
鬱かなあ