異形種々雑話1「狐の嫁入り」
葉桜の間から、朝日が漏れている。
日の光に照らされた赤い髪の隙間から、切れ長の目が眩しそうに外を見る。
ゆっくりと起き上がり伸びをすると、やや頭を下げて開け放しの戸口をくぐり、外に出た。
精悍な体つきに、若葉色の着物と葡萄色の袴。それだけなら山の景色によく馴染む。
人里から離れてはいるが、全く人間が立ち入らないわけではない低山。
その、すでに誰が建てたかすらわからない小屋が、彼の住処だ。
「鬼、起きてるか」
ふいに声がして振り向くと、1羽の烏が小屋から10歩ほど離れた木に止まっているのが見えた。
「起きてるならうちの山に来いよ。将棋を指そう」
うちの山、というのは、彼がいるこの山の隣にそびえている、天狗山のことだ。
どこが山の境目かはわからないが、ふもとの村人たちが「天狗様の山」と崇め、定期的に供え物を持って参拝するので、彼も山道を越えて相伴にあずかりにいく。
烏の声の主は、天狗山の跡取り天狗だ。
物心ついた時にはすでに山に1人きりだった彼は、自分の名前を知らなかった。
普段は誰と話すでもないから、呼び名がなくとも不便はなかったが、たまに山奥まで迷いこんだ村人は、突然出くわした赤い髪をした子供のことを、決まって「鬼」と呼んだ。
それは不快な響きを伴っていたが、彼は、少なくとも自分を指している言葉だとはわかった。
だが、何か問いかけようとしても、人は彼を攻撃しながらさらに大声で言葉を投げ掛けてくる。
山奥に赤い髪をした子供の鬼が出るらしい、という噂は村に広まり、天狗山へ、鬼の退治を祈願するものが出てきた。
そしてあるとき、大天狗と子供の天狗が、山奥で一人佇む彼の前に降り立った。
大天狗は、彼の赤く長い髪の隙間から見える、骨のような突起に触れる。両こめかみの少し上から外側に伸びる2つのそれを、大天狗たちは角だと言った。
着物ともぼろきれともつかない物を纏ったいでたちの彼に、あらかじめ用意していたらしき、若葉色の着物を渡す。
「遊ぼう」
大天狗の腰に差してある団扇の陰から、小さい天狗が言った。
目線がほとんど同じ赤い髪の彼に、興味を持ったのだろう。
彼は何を言われているかわからなかった。
しかし、それは彼が今まで聞いた人間の怒号や罵声とは全く異なるものだった。
それから自然と、天狗たちとは互いの山を行き来するようになり、言葉も覚えた。
将棋を教えてくれたのももちろん天狗だが、なかなか勝てないんだよなあ、と、苦笑して前回の対局を思い出しながら、山道を悠々と歩いていく。
足元の金属音で、我に返った。
鬼が直前に足を踏み込んだ草むらに、小動物用の罠が仕掛けてあったのだ。
幸い、草が沈む反動により仕掛けは勝手に作動し、鬼の足先から半歩前で、すでにかっちり歯がかんだ状態で転がっている。
「ふもとの人間か?こんなところまで入りこむのか」
人間たちは、先人たちが踏んで固めた道を辿ってくる。道が途絶えたら、大抵はそこで折り返すのだ。
“鬼”が棲むから、奥には行くなよ。
もうかなり前に、狩りの途中で道を逸れて迷い混んだ村人が、景気付けのように口ずさんでいた言葉を復唱してみる。
村人は、山の斜面を踏み外して自ら命を絶った格好になったが、鬼に喰われたことになってるんだよねえ、と、やや遠慮気味に天狗が教えてくれた。
似たようなことは度々あった。
不意に思い出し、彼は無意識に苦虫を噛み潰したような顔になる。
考える前に、力任せに仕掛けを蹴っていた。
草履が勢いよく飛び、しまった、と思ったが、直後に、仕掛けと草履が消えた方向から甲高い音が聞こえた。
いや、声だ。人ではなく、動物の鳴き声。
慎重に草むらを進むと、小さな茶色い毛の塊が見えた。
そして、尖った耳。
「こぎつねか?珍しいな」
屈んで問いかけると、狐は慌てて後退りをしようとし、次の瞬間、体を硬直させて悲鳴をあげた。
仕掛けが、狐の足にはまっていた。
鬼の視線が厳しくなったのを感じ、反射的に身を翻そうとした狐の体は、気づけば仕掛けごと、鬼の大きな手の中に収まっていた。
不安そうな狐の顔は見ず、鬼は険しい表情のまま、近くの大岩に狐を乗せる。
そして、狐の足にはまっている仕掛けの両刃をそれぞれ握ると、力任せに開いた。
「よし」
からん、と、仕掛けが地面に落ちた。少しだけ赤く濡れているのは、鬼の手のひらの血のせいだ。
だが、袴で無造作に血を拭うと、すぐ狐に向き直った。
細い獣の足を見ると、仕掛けの金具と擦れたあとはあるが、刺さった様子はなかった。
「お前、小さいから仕掛けの隙間に上手くはまってたんだな。これぐらいならすぐ治るだろ。良かったな」
鬼は、鋭い犬歯がむき出しになるくらい、満面の笑みを浮かべている。
そして、おもむろに袂を裂き、不思議そうに見上げる狐の足に、器用に結びつける。
「これでいいな。この辺りは人間はあまり来ないはずだけど」
軽く狐の頭を撫でた。
「お前みたいな小さいやつらも、あまり来ないけどな」
一瞬間を置いて、きょとんとしている狐に笑いかけた。
「安心しろ、喰ったりはしないよ」
鬼は続けた。
「俺は、無駄な殺生はしないからさ」
そこで言葉を切った鬼を、狐は、じっと見つめている。
目付きも鋭く口も大きい。
着物を簡単に引き裂けるような手と爪もあるが、狐に触れる手つきは拍子抜けするほど優しかった。
狐は、今しがた手当てをしてくれた鬼の腕に尻尾を巻き付ける。
鬼は少し驚いた。尾が三本あるのだ。
三重の温もりが腕に伝わる。
こんな風に、初対面の動物のほうから触れられるのは初めてかもしれない。
顔見知りになった物も多いが、それでも、山道で突然鬼に遭遇すると、動物たちは驚き即座に退散するのだ。
獣の肌触りは慣れないが、悪くはない。
狐はなおもじっと鬼を見つめている。怪我はたいしたことが無かったから、もう自力でどこへでも行けるはずだ。
鬼はおもむろに立ち上がり、狐を優しく抱き上げ小さな体に顔を埋めてみた。
くすぐったそうに身をよじるが、逃げる気配はない。
久しぶりの温もりを感じながら、鬼はその場に座り、大岩を背にして、しばしまどろんだ。
半刻ほど経って目を開けても、狐は変わらず腕の中で目をつぶっている。
ありがとな、と声をかけた。
狐が少し顔を上げて何か言ったようだが、頭上の烏の鳴き声にかきけされた。
「あ」
我に返った。天狗を待たせているのだ。
しかし、ここに狐を置いていくわけにはいかない。
複数の尾を持つ狐の一族なら、山を下っていき、出会った獣に聞けば何かわかるだろう。
鬼は、狐を抱いたまま立ち上がり、大股で木の間をすり抜けていく。軽く竜巻が起こり葉が舞い上がった。
枝葉を巻き込みながら勢いよく進む鬼の腕の中で、狐は安心したように丸くなっていた。
「で?結局、狐たちの森まで行ったわけか」
天狗は、切り株に設置された盤面から目を離さないまま、抑揚なく呟いた。
「珍しいな、お前が他のやつらに関わるなんて」
短髪は白いが、面持ちは青年だ。
修験者の装束を着こんだ体躯は、鬼と同じくらいか、やや肩幅が大きいくらいに見えるが、それは背中から悠然と伸びている白い羽のせいかもしれない。
気のせいか、やや面映ゆいように鬼が答える。
「だってなあ、狐のやつ、寝ちゃっててさ」
起こすのも可哀想だろ?と続けながら、鬼は次の一手を指す。こちらも視線は盤面から動かない。
「なんだ。遅れたことをそんなに怒ってるのか」
「いや、俺は別にいいんだけど」
天狗は顔を上げ、首をくるりと背後に向けた。
「あいつが時間にうるさいからな」
言ったとたんに、ひゅっ、と、小屋の格子窓から何かが飛んできた。木の幹に当たって落ちたのを見れば、杓子である。
天狗の家は、鬼の住まいに比べると格段に立派な造りで、屋敷に近い。中で誰かが動いているのが、障子にうつる影から見てとれる。
話の流れからすると、中にいるのは天狗の彼女、兼、お守りである烏天狗だろう。
「ごめんなさいね。手が滑ったみたい」
威圧感のある女性の声が聞こえた。
地面に落ちた杓子を意にも介さず、天狗は盤上に次の手を打ちながら話を続ける。
「まあ、お前が遅れた理由が狐のことだってわかって、俺たちも安心だ。俺たちは狐とは持ちつ持たれつだから」
天狗はそこまで言うと体をひねり、やっぱり末のお姫さんだったみたいだよ、と小屋の人物に話しかけた。
「えっ、じゃあ見つかったの、良かった」
安堵の声をあげながら慌ただしく出てきたのが、杓子の持ち主だ。
腰までの黒髪と、着物の上からでもわかる豊かな肉体を久しぶりに見て、鬼の食指が動いたが、一度友情にひびが入りかけた上に、本当に肋骨にひびが入ったので、以後は自重している。
今日も、飛んできたのが杖ではなくて良かった、と呟きながら、拾った杓子を烏天狗に手渡した。
「確かにあの狐を森に連れていった時は、周りの狐はすごい騒ぎようだったな」
道中、怯えて隠れようとする動物たちになんとか狐のすみかを聞き出し、やっとのことで目的地にたどり着いた時には、もう日は上りきっていた。
「そうなの。なんでも昨夜、狐の姿で休んでいたところを人の子供にさらわれたとかで、ほかの狐たちは夜通し捜索していたのよ。末姫は何度か会ったことがあるし、私も心配だったの。本当に良かったわ」
はいどうぞ、とお茶請けを渡された。今日は干菓子だ。
へえ、と一つ頬張る。
「末姫って誰だ」
「あんたが助けた狐よ。尾が三本の末っ子狐」
姫は可愛いのよー、小さくてね!とうっとりしながら烏天狗が言う。確かに腕にすっぽり収まるくらい、小さかった。
末っ子というし、まだ子供なのだろう。
「尾は、三本じゃないのもいるのか」
ふと聞いてみると、烏天狗がすらすらと答えてくれた。
「力を持つ狐の尾は、長が九本で、直系の子供たちは、九本ないしそれに近い本数に分かれているの。でも末姫は三本で、更に体も小さいから力があまり無いみたいね」
捕まったときも、疲れて変化が解けちゃったのかしら、なんにせよ見つかって良かったわと、狐を発見した鬼のことは無視して烏天狗は喋り続けている。
「そうだな。よほど末姫が見つかったのが嬉しかったんだろうな」
天狗は、もう勝負がつきそうな盤上の駒を、無造作に集めた。
「鬼、お前に礼が言いたくてわざわざここまで来たみたいだぞ」
客人だ、と天狗が指した方を鬼が見ると、白い面を付けた十数人の集団が、いつの間にか木立の向こうに立っていた。
白い面には狐の顔が描かれており、みな素顔は見えないが、体格から見ると大人ばかりのようだ。
「人間?」
鬼が目を細めながら言うと、いや、と天狗が軽く首を横に振った。
「ここいらの狐は、皆人間の姿に化けられるんだ。そうか、お前あまり山から出ないから見たことがないんだな」
天狗が、どうも、と、気安げに先頭の者に向かって手を挙げ、近くに来るよう促すと、集団は音もなく木立をすり抜けてきた。
赤い髪の鬼と目が合うと、深々とお辞儀をしたので、つられて鬼も頭を垂れた。
「この度は末姫さまを救っていただき、誠にありがとうございます。一族を代表してご挨拶に伺いました。何卒お納めください…」
集団の背後には、行李が三つほど積まれている。
「なんだこれ?」
訝しげな鬼に、先頭の狐面が得意げに答えた。
「お礼でございます。狐の宝、の一つにございます」
ささ、と行李は鬼に向かって押し出されたが、鬼はそれを一蹴した。
「いらねえよ。俺は宝に興味はない。酒なら好きだが、足りてる」
「しかし」
食い下がる狐面の鼻っ面に、鬼は大きな手のひらをかざし、言葉を遮る。
「困ってたから助けた。怪我していたから手当てしただけだ。帰っていいぞ。気をつけてな」
もとより、天狗たち以外の者と喋ることも滅多にないので、かしこまったやり取りに慣れていないのだ。
鬼は干菓子を口に放り込みながら、手で帰りを促すが、一行はその場から動かない。
仕方ないと一行に背を向け歩きだした鬼を、か細い声が呼び止めた。
「…あの…」
狐面のものものしさには似つかわしくない声に、虚を突かれたように鬼が振り向くと、先頭の狐面の隣に少女が立っていた。
面は付けておらず、背格好から、年の頃は十二、三か、いや、もう少し若いか。
鬼は、目を見張った。目尻がやや下がった大きな目を伏し、うつむき加減でたたずむ少女は、茶色の髪を二つに結っており、髪の間からは獣の耳が立っている。
その髪結い紐は、鬼が裂いた布であった。
「…受け取っていただきませんと…私が父上に叱られますので、どうか…」
お納めください、と続けたのだろうが、消え入りそうな声は、鬼の耳には入っていない。
「おい」
天狗が、黙ったままの鬼の顔を覗きこむが、普段の鋭い眼光は消え、目の前の少女をただ見つめているのだ。
呆けているというのは、こういうことなのだろう。
魂が抜けたような鬼の顔と、鬼の視線の先にいる少女を交互に見て、ほーっと、得心したように天狗が呟いた。
「あの…何か、他にご所望のものはございますか?出来る限りの礼を尽くすよう、父上からも言われております…」
困ったように言葉を継ぐ少女に対し、含み笑いをしながら答えたのは、鬼の隣にいる天狗だった。
「お礼は、末姫さんが良いみたいだよ」
「え?」
「え?」
「あ?」
間抜けな声が続いた。
「こいつが」と、天狗は鬼を顎で指し、
「お姫さんと夫婦になりたい、ってさ」
その場が、再び静寂に包まれた。
口元をやや弛緩させたままの天狗とは対照的に、少女は頬を真っ赤に染めたまま鬼を見据え、硬直している。
反対に、真っ青になり硬直していた狐面が、我に返ったように叫んだ。
「何、なにを!末姫はあの…尾も三本でか弱いうえ、長は手元で大事に…」
「あら、だったらなおさらいいんじゃないの。よその狐たちとの縁組みは、しないつもりだったんでしょう?」
烏天狗が間髪入れずに口を挟むと、少女は鬼から目を逸らした。
「まあまあ、まずは本人の口からきちんと伝えてみようか、ねえ」
おい鬼、とにやにやしたまま天狗が小突くと、鬼は予想外の言葉を口走った。
「あ、いや…確かに可愛いし…可愛いけど、まだ十二、三の子供はさすがに…!」
鬼がそこで口ごもると、今度は、鬼以外の全員が硬直した。
「…鬼?お前なに言ってる?」
烏天狗が渋い顔で言った。
「あ、やっぱりもう少し小さかったのか?だいぶ前に見た里の子供がこのくらいだった気がしてさ」
手のひらで子供の頭ほどの高さを示し、鬼が大真面目に取り繕う様を、天狗は、苦笑とも憐れみともつかない顔で見ている。
「末姫は18でございます。小さくとも、もう大人ですので…」
狐面がおそるおそる言うと、皆の視線が一点に注がれた。
「え?18?…の割には…」
鬼が少女の胸元を見ながら、平らな何かを撫でる仕草をした次の瞬間、空が光った。
「あ、姫!小さいとはそういう意味ではなく…!」
「あー、確かに小さいからなあ。まあ、鬼の好みからは…うーん」
「はあ?なに世間知らずなこと言ってるの?小さいには小さいなりの、良さがあるのよ!」
「お前が言っても慰めにはならないぞ」
外野が好き勝手に議論をする間、耳を逆立てた少女が頬を紅潮させながら鬼に向かって言った。
「鬼殿は、私を気に入って下さったのですか」
先ほどとは違う、はっきりとした口調だ。
「あ…うん、はい…」
姫とは対照的に、鬼は間の抜けた返事をした。
その言葉を噛み締めるように一呼吸おいて、末姫は高らかに宣言した。
「私は、鬼殿の妻になります!父上にもお許しを頂きます!覚悟して下さい!」
空がまた光った。
勢いに押されて鬼は頷いたが、こそっと天狗に耳打ちをした。
「…なあ、覚悟ってなんだ…?」
鬼が少女の顔を見ると、今度は凝視された。
上目遣いで、口元をきつめに閉じている。頬は赤いままだ。
「…そりゃあ、平らな胸で一生我慢しろっていう覚悟だな」
天狗が、にやりとしながら言った。
::::
遠くで鈴の音がする。
鬼は、やや緊張してあたりを見回した。赤い鳥居の陰から見える満開の紫陽花が、この季節には珍しく雨に濡れていない。
「落ち着け…と言っても無理かな」
天狗はくくっと笑った。
「うるせえ」
鬼が、地面に落ちた自分の影を意味なく踏む。
普段と変わらぬ着物と袴姿だが、着崩さないよう烏天狗に念を押されているので、立っているだけで窮屈だ。
「降ってきたな」
天狗が言うと同時に、鬼も顔に水滴を感じて空を見上げた。
日の光が眩しい。
「狐の嫁入りだ」
また、鈴が鳴った。木々に反響する音の主は、規則的に、ゆっくりと、しかし確実に鬼たちに近づいてくる。
鬼が、息を呑む。
視界の先に、花嫁がいた。
白無垢に身を包んだ狐の末姫が、提灯を携えた狐面のお供たちとともに、こちらに歩いてくる。
傘を差すお供もいるが、雨避けではないようだ。そもそも彼らは全く濡れていない。
鬼たちの前で立ち止まった彼らは、無言で会釈をし、彼らに、鳥居をくぐるよう促した。
朱塗りの柱の間を抜けた烏天狗が、わあ、と声を上げ、天狗も、ほう、と感嘆した。
先ほどまで、鳥居の向こうにはうっそうとした林しか見えなかったはずが、いま鬼たちの眼前に、屋敷が堂々と建っている。
「鬼殿も、中へ」
提灯を持つ狐面たちが、棒立ちの鬼を追い越して行く。
一行に埋もれていた小柄な姿も、ゆっくりと鳥居をくぐってきた。
角隠しの間から、姫の小さな唇が見えた。
「…角隠しじゃなくて、耳隠しだな」
自らも緊張をほぐそうと、鬼がわざとくだけた調子で笑いかけると、やはり緊張で固く結ばれていた姫の口元がふと、ほころんだ。
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「ささ、一献!!」
陽気な声が、大広間のあちらこちらから聞こえる。
狐の面を被って踊っている者。
狐の面を外して浴びるように酒を飲む者。
そして、いびきをかいて大の字で横たわっている者、いや、狐だ。
「狐たちが化けてる人の姿って、決まってんのか?それとも、今日はこの姿でとか、気分次第なのか?」
周りを見回しながら、鬼は自分に酌をしている狐面に聞いてみた。
いま、隣に姫はいない。
一人残され、普段通りに手酌で飲もうかとしたとき、近くの狐面が慌ててお銚子を持ってきたのだ。
「はい、この」と、狐面は自分を指差し、
「人の姿は、生まれた狐の器量によります」
そうか、とちょっと嬉しそうに相づちをうつ鬼に向かって、狐面は饒舌に話を続ける。
「しかし、いわゆる化かすときは、技量次第でなんとでもなります。特に長や姉姫様などは、尾の数も多いので、それはそれは見事な変化をー」
「え?」
やや前のめりになった鬼の盃に、横からなみなみと酒が注がれた。
「まあ、細かいことは気にするな」
天狗がどっかりと座った。
酒宴の途中からは手酌で浴びるように酒を飲んでいるが、顔色は普段通りで、まったく酔ったそぶりがない。
酌をしていた狐面は、天狗の勢いに圧倒されて退散してしまった。
「なんか俺、聞いちゃいけないことを聞いたか?」
「姫さんが化け上手だったら、お前好みの体になってもらえばいいんじゃないか」
不毛な会話だが、酔い加減も手伝って鬼は真剣に考えこむ。
それを見て天狗は大笑いした。
「しかしまさか、お前が嫁取りとは」
「もとはといえばお前が仕組んだんだろう」
酒のせいか、やや赤い顔のまま言い返す。
それにしても、周りは賑やかだ。
天狗山との行き来はあるが、こんな大勢で酒宴を囲むなど初めてだった。しかも自分が主賓である。
鳥居をくぐり屋敷に入ったのち、いわゆる大広間に鬼たちは通された。
そこにはすでに狐面たちがずらりと並び、酒宴の始まりを待っていたのだ。
そして末姫と鬼は雛人形のように上座に並ばされ、狐面の1人が音頭をとると、あれよという間に婚儀の宴が進んだ。そして、あっという間に大量の酔いつぶれた狐がそこかしこで寝ているような事態になったのである。
鬼は正直、堅苦しい雰囲気には早々と飽きて気を抜いていたのだが、隣に座る姫は、終始緊張した様子だった。尾が頼りなく丸まっている。
「なあ」
今さらだとは思ったが、宴席の喧騒に紛れて小声で姫に問いかける。
「狐のお姫さんが、俺と夫婦で本当に構わないのか?」
天狗の言葉を借りるなら、鬼は末姫に一目惚れをした。
いや、狐の姿で一度会っているから、一目ではないかもしれない。それでもあんな心を奪われたような鬼を見たのは初めてだと天狗は言ったし、自分でも、隣にいる末姫をいとおしく思う。
しかし夫婦という発想は全く無かった。家族を知らないからだ。
鬼は、ずっと一人だ。親も知らないが、そもそもどうやって生を受けたかもわからない。かろうじて天狗と交流し、多様な種族があり、さらに群れを作ることを知った。
そして狐は、ひとかたまりの種族だ。
「私たちは、昔から人の姿で人里に紛れることも多く、人やほかの種族とも繋がりを持ってきましたので…」
小声だが、しっかりとした口調で姫が答えた。酒は飲んでいないようだが目は伏せている。
でもさすがに長の子供なら同じ狐の相手を探すはずだよな、と鬼が酔った頭でも冷静に考えていると、姫が遠慮がちに言った。
「私のことは、父上も皆も可愛がってくれますが、それは尾が少なく縁談も見込めないだろうという憐れみもあったゆえ」
だから、と姫が続ける。
「鬼殿のお申し出には最初驚きましたが、私も皆も、本当に嬉しく思っております…」
最後は、恥ずかしさなのか、消え入りそうな声がかろうじて聞こえた。
「あ…そうか…」
こちらも何と返答したら良いものか。
「鬼殿のことは、私は信じております。けれども…」
申し訳ありません、と、姫が言った。
何に対しての詫びなのか、脈絡のない会話に多少戸惑っていると、姫は、そのまますっと立ち上がり、音もなく広間から出ていってしまったのだ。
鬼は、先ほどまでの姫との会話を思い出しながら、賑やかな宴席を見回す。
「姫は、こういうところで育ってきたんだなあ」
若干ろれつが回らなくなってきたのか、いつもよりはるかにのんびりと鬼が呟いた。
「そうだな」
鬼がなにを言わんとしているか、天狗にはよくわかる。
「まあ、姫さんも大変だよね。良い子なのに」
小さいけどな。
小さいけどね。
と、末姫や烏天狗が聞いたら激怒しそうな軽口を叩いて、二人はしばし無言で酒を飲む。
「がんばれよ」
おもむろに鬼の肩を軽く叩きながら、天狗が言った。
なにが、と問う鬼を置いて、天狗は大広間から出て行ってしまった。
天狗の姿を目で追いかけ、体も自然とよじる格好になった。直後、鬼の視界がくるりと反転し、そのまま畳に後頭部を打ち付けた。
ゆらゆら回る天井を見上げ、そういえば姫はいつ戻ってくるのだろうと漠然と考える。
思いのほか酔いが回った頭はすでに思考することをやめ、鬼は眠りについていた。
::::
そして、どのくらい経ったのか。
誰かの気配を感じて、目を覚ました。
夢を見ているに違いない。
大広間とは違う、行灯のあかりしかない座敷の布団の上で、鬼は真剣にそう思った。
「夢じゃないわよ」
やや意地悪く、目の前の豊満な胸がそう言った。
厳密に言うと、着物の前をややはだけ、なまめかしく胸を強調した女が、だ。
「ええと」
胸を見ながら記憶を辿る。
「あんたが嫁取りなんてびっくりしたわ。それにしても、ずいぶん好みが変わったのね」
思い出した。
もうだいぶ前に、どこからともなく鬼の元に通って来ていた女だ。
気づけば小屋にも山にすら来なくなり、もう随分経つ。しかし、居着いた女は今までもいなかったので、いなくなった時も鬼は意に介さなかった。
それが、今なぜか目の前にいる。
お前も狐だったのか?という鬼の間抜けな問いに、今まで知らなかったの?と逆に呆れたように女は問い返した。
山奥に人は寄り付かないが、人ではない者はごくたまにやってきた。人からすれば畏怖の対象である鬼は、それ以外の者にとっては、興味をそそられる対象でもあるらしい。
特に、女の格好をしたものにとっては、である。
「それは?」
「胸は本物よ」
触れるぎりぎりで胸を指差した鬼を一瞥し、女はおそろしく強い口調で即答した。
「だからさ、あんな平らなお子さまじゃなく、私と夫婦にならない?最近会えなくて本当に寂しかったのに」
まだ酔いで頭は完全には回っていないが、それでも状況は飲み込めてきた。
「あ、会いにいかなかったんじゃなくて、忙しかったのよ。これからは」
鬼が言葉を挟む間もなく、女は言い訳がましく付け足して、鬼ににじり寄りながら言う。
「これからは、ここで一緒に暮らしましょうよ。あんたも見た通り、一歩こちら側に入れば不自由なく暮らせるわ。なにもあんな、何もない山にいなくても」
酔ってはいるが、女が言わんとしてることはわかった。
そして、女の言葉を最後まで聞かずに、鬼は立ち上がった。
引き留めようとする手をやんわりと払うが、弾みで自分もふらついて布団に尻餅をつく。
「よくわからないけどな」
足元が覚束ない自分に苦笑して、その場に座ったまま話を続けた。
「俺は、あの山しか知らないから、あそこから離れようとは思わないんだ。俺が山を出ないから、お前から山を出ていったんだろ」
女は図星を刺されたように押し黙る。
「けど」鬼の苦笑が微笑に変わる。
「姫さんなら、どこだろうと一緒にいてくれるようか気がしてさ」
鬼は、腕に巻き付いた尾の感触と、腕の中のぬくもりを思い出し、歯を見せて笑った。
「まあ、小さくても、抱き心地はいいんじゃねーかな、ふさふさして」
それは小動物に対する感想じゃないの、と女が眉間に皺を寄せて反論するが、相好を崩した鬼の様子を見て、諦めたように溜め息をついた。
「はいはい、わかりました。私の負けです」
急に女の言い方がぞんざいになり、え、と鬼は目を丸くした。
「長にも言っておくわ。まあどこかでもう見てるかも知れないけど」
すっと立ち上がった女を見上げ、え?なんだ?おさ?と、困惑顔で鬼は問うが、それに対する返事はない。
しあわせにね、と言う言葉が聞こえたかと思うと、一瞬ののち、女は座敷からいなくなっていた。
なんなんだ一体、と思考を巡らせたが、酔いのせいもありすぐにどうでも良くなった。
鬼はそのまま、また深い眠りについた。
翌朝、林の中にそびえる屋敷を眺めながら、鬼は溜め息をついた。
二日酔いである。
しかめ面をした鬼の隣に、にやついた天狗の顔がある。
あれから朝までの記憶はない。気がついたら夜が明けていたのだ。
もちろん布団に寝ていたのは鬼一人だけだった。
「楽しめたか?」
天狗が面白そうに言ったが、何を、と聞き返すまでもない。
「知ってたな」
「まあな。ほらほら、うちと狐たちは、持ちつ持たれつだからさ」
鬼はあきれて、鳥居の真下にずらりと並ぶ狐面たちを見た。
日に照らされ一層鮮やかに見える朱色の鳥居を、来たときとは反対方向にくぐると、途端に狐の屋敷は姿を消した。
いや、消えたように細工をしてあるのだろう。
そうやって、人の目をかいくぐって暮らしている者たちは、他にも大勢いるのかもしれない。
林の中で、鬼たちと狐面たちは向かい合わせに並んでいる。
「試すような真似をしたことは、お詫び申し上げます。しかし、長にとっては一番可愛い末姫様。もちろん私どもも、末姫様をいい加減な奴のもとに嫁がせるわけにはいかないと」
「だからって、なんであいつなんだよ」
捲し立てる狐面の言葉に被せるようにして、苦い顔をした鬼が呟いた途端、末姫の耳がぴんと立った。
「お知り合いだったんですか?皆の話だと、万が一が無いよう適当な者に頼んだから大丈夫、と」
意外と早口だ。実はこんなによく喋るやつなのか、と感心しながらも、鬼は何も答えられない。
「確かに適当だったな。ふさわしいほうの意味で」
天狗が、鬼に変わって話を引き取ると、鬼は激しく狼狽した。
「まあ、それでも何事もなかったんだから、晴れて夫婦ってことで良いですかね?長!」
話をやや強引に収束させるかのように、空に向かって天狗が大声で呼び掛けると、一陣の風が起こった。
「おやじさん、泣いてないか」
「泣いてるわよねえ」
しみじみ言う天狗たちの横で、狐面たちもすすり泣いている。
無理もない。可愛がっていた末姫が突然よそに、しかも鬼のもとへ嫁ぐというのだ。
そこで、婚儀は形式的に執り行ったが、鬼が本当に末姫を大事にしてくれるかどうか、他の女をけしかけて試そうとしたのである。
これは、鬼以外の全員が知っていた。天狗も、末姫もだ。
末姫はもちろん反対したが、長に泣かれては了承せざるを得なかった。
あの、大広間での末姫の詫びはこのことだったのである。
腑に落ちたような、納得いかないような、とにかく女に手を出さないで良かったと鬼は深く息を吐いた。
「やっぱりお嫌ですか?」
遠慮がちに末姫が問うが、その視線は鬼ではなく自分の胸元に向けられている。
鬼は、なんとも複雑な気持ちになった。
「俺は、そんなに胸のことしか頭にないように見えるのか?」
「見えるから試されたんでしょ」
烏天狗が、豊満な胸元で腕組みしながら、にべもなく言った。
ざざっと、もう一度風が吹く。
「早く行かないと長が連れ戻しにくるぞ」
天狗が大真面目に言ったが、本当に洒落にならない。
大仰な婚儀とは打って変わって、では、と双方軽く頭を下げ、その場はお開きとなった。
末姫の荷物が入った行李を軽々と担ぎ、鬼は天狗たちにも手を振って、自身の住みかがある低山に足を向ける。
「歩けるか」
はい、と答え、末姫は鬼の半歩後ろを健気に歩いている。
一度だけ振り向いたが、すでに狐面たちの姿はなかった。
「いいのか」
鬼が前を見たまま言う。
何がですか、と末姫が聞き返す。
「俺はずっと一人だから、夫婦がどんなものかわからない。誰かと暮らしたことすらない」
末姫の歩幅に合わせて、ややゆっくり山道を歩く鬼の横顔は、困惑しているようだった。
「はい」
同じく前を向いたまま、よく通る声で末姫が言った。
「寝床も食事も無頓着だし、あの屋敷とは雲泥の差だぞ」
「はい」
ちょっと可笑しそうな、明るい声音が真横からきこえた。末姫が一歩を大きく踏み出して、鬼の隣にならんだのだ。
「一緒なら、どこでも」
目が合った。
そして、二人で破顔した。
後日談
「ところで…昔、何があったんですか?」
「…なんのことだ?」
「とぼけないでください。あの、豊満な方が…その…」
「…まあ、もう昔の話だからさ」
小屋の中に、文字通り雷が落ちた。