一幕 1
波一つ無い穏やかな『エーゲの海』
そこには大小様々な島々が浮かび、とても風光明媚な風景が広がっている。
そんなエーゲの海に浮かぶ島の中でもとりわけ小さく、人も住んでいないような小島の沖合に帆船が1隻浮かんでいる。帆船の全長は30mほど。キャラックと呼ばれる中型船に属する帆船だ。
その帆船は比較的綺麗な船体をしていた。最近作られた新造船だとわかる。船形も最近流行りの少し船体を長めにした積載量よりも速度を重視した設計のものだ。
その船上に多くの船員がいるのを確認できる。その殆どが粗野な海賊のようなナリの男たちばかりだった。
しかしそんな連中の中に2人だけ綺麗な服装をした男女がいた。
男の方は金糸の刺繍が施された豪華な服装に身を包み、身なりの整った中年の男性だ。船乗りというよりも何処かのお金持ちの豪商、もしくは貴族のような見た目をしている。
その男は甲板上に花の模様を彫った豪奢なイスを持ってきて座っている。その目の前には女も同じくイスに座っていた。
「このエーゲの海は大小無数の島々が点在し、しかも一定の広さを持つ穏やかな海なので古くから海賊らのアジトがたくさん作られた海なのですよ。別名『海賊の海』。まったく捻りがありませんね。ここの島も過去は我らボンジャノ海賊団が、この地方の拠点としていた場所です。ま、あなたならばそんな事は知っていますか。ああ、そう言えばエーゲの海の名の由来はご存じで?」
男が目の前に座る女に話を振る。
「……ユービ、あなたこんなにおしゃべりだったかしら?………確か、旧世界の頃にこの辺りの海の事を『エーゲ海』と呼んでいた名残だったはず」
「おー!さすがはリスティ=ボンジャノ。ビツレスの学院でもトップクラスの成績を収めているだけはありますな」
「これぐらいで褒められても嬉しくない」
リスティと呼ばれた女性の答えに男の方は満足げな様子だが、リスティの方は不機嫌な表情が顔全体に広がっていた。
リスティは歳の頃が十代後半。光るような藍色の珍しい色をした綺麗な髪をストレートに伸ばしており、身体はすらっとしたスレンダーな体型、そして今はふくれっ面をしているが、街の通りを歩けば男女問わず10人中8,9人は振り返るであろう、そんな人並み以上に整った美貌が見て取れる。
さらにもう1つ彼女には身体的な特徴が見られる。藍色の髪に半分隠れている両耳は人間のそれよりも遙かに長かった。
学のある者が見ればこれで彼女の髪の色やルックスにも納得がいくだろう。彼女は目の前の男たち人間種とは異なる種族だった。彼女は森の住人『エルフ』と呼ばれる長命で有名な種族の血を引いていた。
エルフという種族は容姿端麗・頭脳明晰として有名である。
そんなエルフの特徴を持つ彼女は男と同様の豪華なイスに座らされてはいるが、その両手はイスの後ろで複雑に縛られていた。しかもそれは手を縛るというよりも、指の一本一本を縛っているように見える。
「それで……私を誘拐なんかしてどうするつもり?」
可愛い顔に似合わず、鋭い眼で男の方を見る。面と向かう男も一瞬たじろいでしまう程だ。
それでもすぐに男の顔に微笑が戻る。
「ははは、少し捜し物をしてましてね。この半年近く、世界中を探して回ったのですけどなかなか見つからなくて困っていたのですよ」
「先に言っておくけど、私は宝物とか大金とか持ってないわよ………あの人からは学費以外何ももらわなかったのだから……」
リスティの言葉を無視して話を続ける男。
「しかしつい最近なのですが、さる筋からの情報でその私の欲しいモノを持っているのが、どうやらあなたのお兄さんだという事がわかったのですよ」
「え?それなら兄さんに直接言えば――」
「くっくっくっくっ、恐ろしいことを言わないでください。もし交渉決裂して竜王ドラゴ=ボンジャノと尋常勝負なんかになっては命がいくつあっても足りませんからね。ですからあなたを人質に使わせてもらおうというわけなのですよ。なんと言ってもあなたとドラゴは兄弟姉妹の中でも特に仲がよろしいですから。あなたの身柄を確保している限り、彼も乱暴な事はしてこないでしょう」
「はぁ?……やめてよ……」
リスティは『特に仲がよろしい』のフレーズに敏感に反応した。照れ隠しなどではなく、本気で嫌がっているように見える。
「だいたい、欲しいモノってなに?ボンジャノ一家の財宝はみんなにすべて分配したはずよ。それこそ末端の船員さんたちにも全員にね。あなたが欲しいモノを兄さんが持ってる可能性は小さいんじゃない?」
「ええ、分配のことはもちろん知っていますよ。私も結構な額を分けて頂きましたからね。そのおかげでこのストラバード号を買うことができて、今では『キャプテン・ユービ』などと名乗らせていただいてるわけですから」
(ああ、やっぱりこの船、新品なのねぇ……)
リスティはまだ若干木の匂いが漂う綺麗な甲板をチラチラ見ながら思う。
「ただし分配されなかったモノもありますよね。リスティ=ボンジャノ」
「(何でいちいちフルネームで呼ぶかな……)分配されなかったモノ?もしかしてあの人の私物の事?」
「その通ぉり!海賊王ボン=ボンジャノの私物だけは分配の対象外でした。兄弟姉妹で分け合ったと聞いていますよ」
「まあ……確かに私たちで分けたモノもいくつかあったけど、それでも万年筆とか愛用の長剣とかよ?それにその事はみんな納得していたはず。あなただって――」
「ええ、そうですその通りです。あの時は納得しました。いくら古くて値打ちのある物とは言え、葉巻入れやペーパーナイフまで分配しろとはとても言いませんから。しかし今はそれが必要なのですよ。それを長男であるドラゴ=ボンジャノが持っているのはほぼ間違いないのです」
「(葉巻入れやペーパーナイフほしさにこんなコトしてるわけ?………そんなわけ無いか)……それで私をエサに、兄さんは呼び出したわけ?」
「ええ、今日の正午にあの島の沖合で待っていることは伝えてあります。そろそろ現れてくれるのではないでしょうか」
「来てくれればいいけど、めんどくさがって来ないかもよ?」
「いいえ来ますよ。ドラゴ=ボンジャノはああ見えてとても情に厚い男です。妹を見捨てるような事ができる人ではありませんからね。それはあなたが一番よくわかっているでしょ?」
(何で身内でもないあなたが自信満々に言うのよ………わかってるわよ、来るでしょうね、兄さんは………罠とかだってわかっていても)
リスティが兄の事を思い出していると、その思考を妨げるように船員の大きながなり声が甲板に響いた。
「キャプテン!三時の方角に船影がありやす!!」
マスト上の見張りの声に甲板上が慌ただしくなる。
ユービは懐から望遠鏡を取り出すと三時の方向を見る。その望遠鏡も金細工による豪華な装飾が施された真新しいモノだった。
「ふむ……あの大きさ、あの異様に長いスピード重視の船体、にもかかわらずマストには旋回能力に優れた縦帆を優先的に張っている。あんなあべこべな設計をしている船は世界広しと言えど、『不沈船ヒルダ』に間違いない」
「ヒルダ……」
リスティが小さく呟く。
エルフ族は人間族よりも目がよく利く。望遠鏡が無くても遠くに浮かぶ帆船の姿がよく見えた。
彼女はここ4,5年、父から離れて陸の学校に通っていた。さらに海賊業も忌避して手伝ったことのない彼女だが、あの船だけは見間違えることはない。
ヒルダは彼女の生まれ故郷にして、幼少時代の大半をすごした船なのだ。
「総員配置につけぇ!!三時の方向にボンジャノ海賊団旗艦ヒルダだ!」
ユービの言葉に船乗りたちがざわめく。
あの海賊船ヒルダは20年以上前からボンジャノ海賊団が旗揚げしてから最近解散するまでの長きに渡って沈むことなく一貫して海賊団の旗艦を務め続けた船だった。各国海軍や同業者との幾多の海戦でことごとく生き残ってきた世界一有名な海賊船である。
海賊に問わず、船乗りの間では『キング・オブ・パイレーツシップ』もしくは『七つの海の最強船』『不沈船』などと恐れられている。海の人たちにとっては半分伝説のような船なのだ。
半年前に海賊王ボンが死去して以来、その行方が公にはわからなくなっていた。しかし今、その伝説の船が自分たちの目の前にいるのである。しかも敵対関係になるかもしれない。船員たちがざわめくのは無理もない。
「狼狽えるな!こちらには人質がいる。かのヒルダでも攻撃ができなければ恐れる必要はない!」
懸命に船員の不安を取り除こうと声をはりあげるユービ。そのかいあってか、混乱は収まってきたように見える。
(それなりにキャプテンをはれてるじゃない)
意外に冷静なユービを見て、素直に感心しているリスティ。
ただし人質として捕まっている身でそんな事を思い浮かべている彼女の方がよっぽど冷静と言えなくもない。
「それよりも空を警戒しろ」
「え?空っスか?」
「聞いたことがないのか!『ボンジャノの目』の話を。向こうには飛行のできる亜人種ハーピィやバードマンを使って空から侵入してくることがある。船と違って空を飛べる者はあっという間に接近してくるから気をつけろ」
「へ、へい!」
叱責された船員が慌てて持ち場についたその時―――
ボンッ。
遠くで何かがはじけるような音がした。
見るとヒルダの右舷、こちらに向いている船腹の中央あたりから煙がたなびいている。
長年海賊をしているユービにはわかる。あれは火事などではなく、火薬を爆発させたときの煙だ。
(ということはっ!?)
ユービは空を見る。
そこにはつい先程ヒルダから撃ち出されたと思われるモノが弧を描きながらストラバード号に落下するコースを取っていた。
「くっ!」
ユービは咄嗟に身を伏せる。
ドガァァァァァァァァン!!
雷が落ちたかのようなけたたましい音と共に、ユービがいる所より後方の甲板に、その空を飛んできたモノが突っ込んだ。そして船体を大きく揺らす。あまりに急のことで彼は退避の指示を出すことすらできなかった。
「ごほっ……ごほんごほん……くそっ!!」
飛んできたモノは船体中央部の甲板を大きく抉るように着弾した。船体に大きな傷を作ったが、幸いにもマストはいずれも無傷だった。航海や戦闘には支障はない―――が、ユービは起き上がりながら彼方のヒルダに向かって叫ぶ。
「なっ、なにを考えているんだドラゴは!?こっちには奴の妹がいるのを忘れているのかっ!当たったらどうするつもりだ!!?」
そう口に出してからユービは思い直す。
もしかしたら威嚇で外すつもりで撃ったのが、たまたま当たったのではないだろうか?通常の海戦では、双方動いている船同士で大砲の弾を初弾から命中させるのは至難の業である。狙ってもそうそう当たるものではない。しかも今回放たれたのは1発のみだ。複数弾を放って命中率を上げるような事もしていない。
(たまたまか?………しかし)
そう考えると幾分冷静になれたが、どちらにせよヒルダが攻撃してきたことは変わりはない。
ふと人質の事を思い出してリスティを見る。
リスティはイスに縛られたままだが横転することもなく、器用にも座ったままだった。ただし木片や埃を多少被ったようで小さく咳き込んでいた。
とりあえず彼女が怪我をしてない様子にホッとするユービだった。
変な話だが彼女は大事な人質という前に、彼女に怪我をさせてしまっては自分の命が保証できない。彼女にはお宝を奪ってから安全に逃げ切るまで無事でいてもらわなければいけないのだから。
ユービは人質の無事を確認すると、気を取り直して指示を出す。
「総員!砲撃戦用意!!相手は妹を見捨てて、妹ごとこちらを撃ってくるような心無しの男だ。油断するなよ!!」
「――おいおい誰が誰を見捨てるって?」
船員たちの答えよりも先に、よく通る若い男の声がユービに飛んでくる。
その男の声にユービの指示をだす口が止まった。さらにその額には先ほどまでは無かった汗が玉になって浮かんでいた。彼はその緊張した表情のまま、若い男の声がした方をゆっくりと振り返る。
そこには――大きく伸びをして身体を解している若い長身の男が立っていた。
「いたたた………ルンの奴、さすが百発百中の腕前だけど、少し火薬が多すぎるぜ………勢いありすぎて危なく船体を突き抜けて海に落下するところだったぞ」
肩をコキコキ鳴らしながら愚痴るその男のいる場所は、今ちょうど弾が着弾した甲板の縁だった。
男は明らかに船員とは違う服装をしていた。少しくたびれている感はあるが、ユービと同じように船長風の衣装に身を包み、長身だがスラリとした体型をしている。そして深い赤色の髪と赤褐色を帯びた目は、その左目が眼帯で隠されていた。リスティよりいくつか年上の、ほどよく焼けた褐色肌が健康的な青年だった。
その姿と声を確認してユービの顔が青ざめる。
「それで――誰が妹を見捨てるような心無しの男だって?ユービ」
自分の方に顔を向けたその若者の顔は、火薬の煤やら砕けた木片やら埃やらで汚れてはいたが見間違えるはずがない。
「お、お前は……りゅ竜王……ドラゴ……ボンジャノ」
遠巻きに青年の様子を見守っていた船乗りたちの間に再びざわめきが起こった。