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古代魚の瞼

作者: 秋助

・縦書き ニ段組 A5サイズ

・27文字×21行

・文字サイズ9ポイント

・余白 上下11mm 16mm


に、設定していただくと本来の形でお読みになれます

     0


 水槽都市。という計画が数年前にあった。

 医療技術の発達による死亡率の低下、寿命の増加。加速度的に人口が増えていった地球では、食糧不足、用水不足、雇用不足などが起き、環境破壊や資源枯渇といった問題、地球温暖化の解消を目的とした争いが幾度となく起きていた。

 そこで、水槽都市管理事業部なる組織が発足された。

 地球にも火星にも住める場所が減退している中、世界が導いた決断は、人類を海の底に移住させることであった。

 その計画の全てを一任されたのが私達の国である。

 水槽都市を建設できるほどの広大な領海、四季の移り変わりが顕著に見られ、様々な環境に対応できる土地、そのどれもが移住計画に最適だと名誉ある任命を受けた。

 しかし、要は生贄にされたのだ。

 水槽都市計画が発案され、私の住む国では大変な混乱が起きた。財源の支出、海の生態系の破壊、中でも難航を極めたのが、移住計画の第一段階を担う住人の選出であった。

 水槽都市管理事業部は水槽都市を十年計画として、最初の五年で人類が海の中での生活に順応できるのかを観察し、残りの五年で全人類の約四割を移住させる段取りであった。

 確実な命の保障はできない。行動や情報が著しく制限される。メリットは計画が成功したときの、名誉や賞賛といった形のないものばかりだ。むしろデメリットの方が多い。

 そんな中、計画参加に名乗りを挙げたのが来麻市である。廃れた街の再活性化を狙いとした市長の横暴だった。

 水槽都市計画は水槽都市管理事業部を中心に進められてきたけれど、あるとき、計画に重大な不備が見つかった。

 整備部が酸素調整機を調べると、酸素の生産、濃度、供給量のいずれもが基準値に満ちていないことが判明した。

 さらにその不備は整備部の内部告発によると、計画当初から設備の不具合が指摘されていたけれど、計画開始の間際になって中止することもできず、かといって計画を延長させるには資金や諸々の調整などが間に合わず、上層部の圧力で計画はなかば強制的に実行されることになったそうだ。

 計画は最初の段階で破綻していたのである。

 水槽都市管理事業部の部長は、水槽都市の住人が地上へと戻って人口が増えることを迷惑に感じ、全機械系統停止スイッチを強制的に押したのだ。ライフラインが途切れた水槽都市は怒りも絶望も水の牢獄に閉じ込められた。ゆるやかに静かな死を迎えるだけの、希望の残骸と成り果てた。

 それが、数年前の話である。

     1


「では、波留さん。現段階の状況を説明してください」

「はい」

 水槽都市保存委員会のリーダーである海未さんから私の名前を呼ばれ、手元の書類に目を落とす。

「新たな海流を生み出す計画ですが、依然、海域保護団体からの抗議を受けて、計画の目処が立っていません」

 周囲からため息が漏れる。それを受けて心が締めつけられた。私だってどうしようもない板挟みに苛まれているのに。

「汚染海域の清浄進行度は?」

 年配の男性から威嚇するような声で質問される。

 しかし私も負けていられないのだ。こんな私を保存委員会の副リーダーへと任命してくれた海未さんのためにも。

「そちらも停滞中です。未だ汚染は進むばかりです」

「進展なしか。慰霊祭までに間に合えばいいんだがな」

 男性が背もたれに体を預け、ぎしっと不快な音を立てる。

 海未さんに目配せをすると困惑した顔をしていた。

 交わされる議論に瞼を伏せ、過去に思いを馳せる。

 水槽都市保存委員会。

 解散した管理事業部の数名が新たに設立した事業である。

 設立された経緯は数年前、星見海岸でレコード型の精密機器が打ち上げられていたことに起因する。海未さんを始め水槽都市管理事業部の面々が集い、解析班の一人がレコードを解析したところ、一件のメッセージが保存されていた。


『私の声は届いていますか?

 私は水槽都市で機械整備をしています。この声が届くころにはきっと、この街は海の底に沈んでいることでしょう。

 もし声が届いているのならお願いがあります。この円盤はアクア・レコードと呼びます。地球の暮らしや文化の存在を地球外生命体に伝えるために、音や画像を収めたボイジャーのゴールデンディスクを模倣して、この水槽都市の歴史と記録を未来永劫に残そうと作られたものです。

 この円盤以外にも何十枚か用意しましたが、水没の影響でおそらく、アクア・レコードは海流に乗って各地に漂流してしまうでしょう。そこでお願いがあります。

 各地に漂流したアクア・レコードを拾い集めて、私達が生きた証をどうか、どうか世界に伝えてほしいのです』


 海の底からの声と共に、何千枚もの画像や音声、メールのやり取りや何十時間にも及ぶ動画などが保存されていた。

 分厚い透明な壁の外で回遊する魚達。その様子を眺める子どもが動く姿。商店街の写真は魚屋が多く見られたけれど八百屋はほとんど見受けられなかった。水槽都市で農作物を育てる環境がまだまだ不十分だったことが伺い知れる。

 管理事業部の面々は生活風景や水槽都市の様子を眺めながら、胸の内に一体どんな思いを秘めていたのだろう。

 ふと、一通の内容がモニター上に反映された。


『海未へ。

 この手紙を読んでるということは、無事に君の元へメッセージボトルが辿り着いたんだね。もしかしたら、全く関係のない人が読んでる可能性もあるけれど。

 そのときは、この手紙は見なかったことにしてください。

 さて、ここからは君が読んでいることを前提で書きます。

 海を見上げていたら、魚達が変な動きをしていてさ。

 なにかと思ってよく観察していたら、海流のせいだった。

 もしかしたら、入り江まで海流が繋がっているかも知れないと思ってさ。あの入り江って漂流物が結構な割合で辿り着くから。だからメッセージボトルを流すことにしたんだ。

 君にこれだけは伝えておこうと思います。

 みんなが水槽都市に移住できたら、結婚しよう』

 それは、海未さんの彼からのメッセージだった。

 そのときだそうだ。海未さんが水槽都市保存委員会を設立しようと思ったのは。海の底に沈んでいる多くのアクア・レコードを見つけ出して、水槽都市を、英雄達の残した真実と光、希望を伝える手段を見つけたのは。

 そのとき流した涙は、宝石のように綺麗だったという。

 私はその事業への参加を決意した。私の彼も水槽都市の住人だったからだ。記録の中だけでもまた、彼に会えるかもしれない。そういった淡い願いを持ちながら。


     ※            ※


「おつかれ。波留ちゃん」

 会議が終わり、自販機の横にあるソファに腰を下ろして一息ついていると、海未さんから飲み物を差し出される。

「ありがとうございます」

「さっきの会議。堂々としていてかっこよかったよ」

「やっぱり私には荷が重いですよ。副リーダーなんて」

「そんなことないよ。波留ちゃんしかできないと思った」

 言いながら海未さんが私の左隣に座る。

「海未さんはどうして私を過大評価するんですか?」

「過大評価なんてしてないよ。ただ、昔の私と似てるから」

「昔の海未さんと? 雰囲気。とか?」

「ううん。大切な人のために水槽都市に関わったところ」

 今まで詳しく聞いたことがなかったけれど、海未さんは高校一年生のころに、彼が水槽都市へ移住して離れ離れになってしまったそうだ。

 一般人は水槽都市の住人と会うことは許されていない。住人が地上への里心を思い出して離れてしまったり、整ってきた水槽都市の整備環境を狂わされないようにするためだ。

 しかし海未さんは高校三年生のとき、彼に会いたいという一心で勉強に時間を割いて、入社倍率も大手企業の比ではない水槽都市管理事業部に入社した。そこに配属されれば、水槽都市に移住してきた住民と関わることができる。

 そして、海未さんは大切な人と再会することができた。

「波留ちゃんだってそうでしょ?」

「私は……、海未さん達のような綺麗な関係ではないです」

 言って、もう二度と会えない彼のことを思う。

 ズクズクと胸の奥が痛んだ。

 向かいに立てかけられている壁時計を確認する。

「私、そろそろ時間なんで」

「うん。無理はしないでね」

 立ち上がり、海未さんにお辞儀をして背を向ける。

 浸透水圧テストの時間だ。


     2


 数年前、浸透水圧テストなる実験が行われていた。

 いずれ人類が、水槽都市の特殊環境下以外でも過ごせるように。海の中で息が出来るように。深海の水圧に耐えられるように。特殊な液体の中で、体を徐々に適応させていく実験のことだ。そのモルモットとして、海未さんが選ばれた。

 事業部があった施設の地下、扉の奥に実験装置がある。

 さながらその構造は、ニュートリノの存在を確かめるカミオカンデと酷似していた。三千トンの超純水を蓄えたタンクと、その壁面に設置した千本の光電子増倍管からなる姿は、意図的にカミオカンデと姿を似せたとしか思えなかった。

 ただ一つ違うのは、規模が断然に違うということだ。聞いた話によると、その範囲は百三キロ近くにもなる。

「さて、と」

 十メートルの飛び込み台に立ち、軽くストレッチする。

 遥か下の水面を眺める。

 喧嘩別れをした彼の哀しげな表情が揺れている気がした。

 息を吸って、淀みを吐く。

 そして、

 勢いをつけ、彼の哀しい表情を打ち消すように飛び込む。

 ドブン。と、水飛沫が人魚の尾にも似た形に広がる。

 装置の中には超大型の液晶ディスプレイが床や壁中に張り巡らされていて、彼の住む街の光景が映し出されていた。

 この幻影の街のどこかに、彼はいるのかもしれない。

「……なんて」

 何度、この街を回遊しただろう。

 海未さんも大切な人のことを思い浮かべては、この擬似的な街を回遊魚のように泳ぎ回っていたのだろうか。

 水槽都市が海の底に沈んでから実験は中止された。あんな凄惨なことが起きて、人類が海の底に希望を見出さなくなったからだ。世界中の人口は極めて濃い密度になっている。

 ではなぜ今も浸透水圧テストが行われているのか。

 それはある問題が浮上したからだ。

 保存委員会が設立されてから数ヶ月、アクア・レコードを回収するために、専用潜水艦ノーチラス号が開発された。

 街が水槽都市に沈む日、世界中を巻き込んでの凱旋パレードが行われた。それとは反対に進水式は厳かに進行された。

 海の底で眠る人達への鎮魂の意味を込めて。だそうだ。

 しかし、ノーチラス号が水槽都市付近の海域に差しかかると問題が発生した。着水してから数分、ノーチラス号の一部が溶け始めたのだ。あまりにも予期せぬ出来事に、保存委員会の面々は戸惑い、すぐに原因究明に乗り出した。

 真相は驚くほど単純であった。

 水槽都市計画が頓挫してから数日、浸透水圧テストに使われた特殊な液体が海へと流された。その混ざり合った液体の成分がノーチラス号の一部を溶かしてしまうのである。

 結果、生身の人間が海を泳いでアクア・レコードを回収することになった。その代表に選ばれたのが私だ。

 そこで目を見開き、彼の生きた街をぼんやりと眺める。

 力を抜くと、体がふわりと浮かんでいくのが理解できた。

 水面に顔を出して深く息を吸う。

 ロッカールームに戻り、スーツに着替える。チェックシートに疲労度、体の異変の有無などを詳細に書き込んでいく。

 明日はいよいよ、アクア・レコードの大規模な回収日だ。


     3


 お互いに中学三年生の夏休みだった。

 今年の春、私達の住む街が海の底に沈むことが決定した。

 この日は彼に大事な話があるため、わざわざ図書館に来てもらった。どうしてもこの場所が良かったわけではないけれど、静かな場所でないと冷静に話ができないと思った。

 それに、彼は読書が好きだから。といった思いもある。

 彼が到着するのを待つ間、取り出した本の表紙を撫でる。

 海底二万マイルだ。

 元々は彼の本だけれど、読み飽きたという理由で私がもらうことにした。べつに興味があったわけでも読みたかったわけでもない。ただ、彼にまつわるなにかが欲しかったのだ。

 学校以外で彼と会うときだけ本を読み進める。勝手に決めた、私だけの特別なルールだ。

 しばらく本を読みながら、彼がいないかとたまに窓の外を覗く。行き交う人の波が激流のように思えた。寄せて、引いて。流れて、消えて。波は留まることを知らない。

 そうしてどれくらいの時間が経っただろうか。

「ごめん。遅くなっちゃった」

 声のする方に視線を向けると、彼と目が合う。

「ううん。私も今きたところ」

「その割にはだいぶ読み進んだね、それ」

 ページ数を確認すると確かに熟読していた方だ。

「私、読むの早いから」

 なんて、その嘘さえも彼にはお見通しなのだろう。

 心地の良い嘘があるとするのなら、まさにこの瞬間だ。

 彼が私の右隣に座る。

 いざ本人を目の前にするとなにも言えなくなってしまう。

「そういえばさ、もう一週間もないよね」

「なにが?」

「この街が水槽都市になるまで」

 あぁ。と、私の表情から生気がなくなるのを感じる。

 彼の幸せそうな表情が、私の心に翳りを灯す。

「僕達が人類の希望になるなんて、夢みたいだ」

 この街が水槽都市になることがそんなにも喜ばしいことなのか。それは、そんなにも名誉のあることなのか。

「どうして笑ってんの?」

「え?」

 自分でも怖いくらいに怒気のこもった声だった。

「私達が世界からなんて呼ばれてるか知ってる?」

「パイロットヒューマンでしょ。かっこいい名前だよね」

 熱帯魚などを水槽で飼育するときに、あらかじめ別の魚を飼育して、目的の魚に適した環境を作り上げるために利用するパイロットフィッシュからもじった言葉である。

 人類を正しい方向へと導く。そのような意味を込めて。

 けれど、パイロットヒューマンには侮辱の意味が込められていた。我先に助かりたいと懇願した、醜悪さの塊として。

 希望なんかではない。ましてや救世主なんかでもない。

「一緒に水槽都市を回ろうな。いくつか新しい施設ができるみたいだし、街から見る深海の景色も楽しみだなぁ」

「私、引っ越すから水槽都市には住まないんだ」

「街から離れることは禁止されてるのに?」

「前から引っ越すことが決まってた人はいいんだって」

「なんだそれ。曖昧じゃん」

 そうだ。水槽都市に移り住む者とそうでない者。その二つを分け隔てる境界はそういった霧のようなものである。永遠の別れになる事柄が、当事者を置き去りにして進んでいく。

「だから私、君とは……」

 次の言葉が喉元まで差しかかり、続きを言い淀む。

「引っ越しの話、聞いてなかったんだけど」

「……ごめん」

 沈黙が続いた。場が静まるほどに私の心は騒々しく響く。

「わかった。僕だけで水槽都市に行ってくるよ」

 彼がわざと音を立てて席を立つ。周囲の視線が痛いほどに突き刺さった。店の外に出ていく彼と、店の中に残された私と。扉の内外が、私と彼の一生を隔てる境界に感じられた。

 手元の本に目を落とす。

「勝手に、海の底でもなんでも行っちゃえばいいじゃん」


     4


 アクア・レコードを回収する日が訪れた。

 水槽都市の機能が失われてから今日で一年が経つ。

 亡くなった人達の一周忌の代わり。というわけではないけれど、この日は水槽都市保存委員会が主催で、遺族を交えての慰霊祭が執り行われる。着水式と同じく荘厳な趣だ。

 国を挙げての事業で大勢の人間が亡くなったというのに、国からは誰一人として参列しなかった。国としても過去に葬りたい記憶なのだろう。なんとも残酷な話だ。

「緊張してる?」

 突然、海未さんから声をかけられて体が跳ねる。

「当たり前じゃないですか。こんなにも大勢なんですから」

「それだけ多くの人が犠牲になったということなのね」

 何万人、何十万人の命が海の藻屑となったのだろう。犠牲となった代償に私達は、この国は、一体なにを得たのか。少なくとも、私の手元には鮮やかな幻想さえ残っていない。

「波留ちゃんは波留ちゃんらしくしてればいいのよ」

 私らしく。私らしいとはどういったものだろうか。彼が亡くなってから私は、自分というものを失ったのだろう。喜怒哀楽も海の底に沈んでしまったのかもしれない。

「じゃあ、私は色々と準備があるからまたあとでね」

「はい。お忙しい中ありがとうございます」

 海未さんの背中を眺める。

「街を勝手に沈めたように、また勝手に海を荒らすのね」

 刺々しい言葉を背中に受けて振り向く。

 海域保護団体の凪紗さんだ。私と同い年でありながらグループのリーダーを一任された敏腕である。だからこそ尊敬の念もあるし、同時に劣等感さえも抱いてしまう。

「凪紗さん。私達の行いは正しいのでしょうか?」

「正解か不正解かなんて私に委ねないで」

 確かに、そうだ。では、凪紗さんは海域保護団体の活動をどう思っているのか。聞けば凪紗さんの両親は水槽都市の犠牲になったそうだ。そこは私と変わらないはずなのに。

「私は大切な人を失ったから保存委員会に入りました。凪紗さんはどうして、海域保護団体に入ったんですか?」

「決まってるでしょ。あんた達が大切な人を奪ったからよ」

「じゃあ、どうして」

 慰霊祭に足を運んだんですか。なんて聞けなかった。

 この人も被害者だ。来て当然だ。凪紗さんにはどのような葛藤があって、逡巡があって、ここにいるのだろうか。

「私もあなたも、見たくないものから目をそらしてるのね」

「え?」

 私の疑問に答える間もなく、凪紗さんは去ってしまった。

 私も準備をしないといけない。浸透水圧テストを受けるために保存委員会事務局の地下へと向かう。そのときだった。

 心臓が鷲掴みにされる感触があった。

 ズク、ズク、と痛みが広がってその場でうずくまる。

 いくつもの不確定要素が私を不安にした。

 一つもアクア・レコードを回収できなかったらどうしようか。海の底でパニックにならないだろうか。この計画を良く思っていない人達が私達を蔑まないだろうか。

 私の行っていることは、未来に繋がる行動なのだろうか。

 今にも泣き出しそうな。

 その瞬間、

「あの。水槽都市保存委員会の波留さんですか?」

「……そう、ですけど」

 老婆から話しかけられる。隣は旦那さんだろうか。

 弱々しく立ち上がり、小さく鼻をすする。

「突然ごめんなさい。あなたとお話がしたくて」

 見知った顔かと思い数秒ほど考えてみる。けれど、私の広くない交友関係に老夫婦の姿はなかった。

「私の娘も生きていればあなたと同じくらいの歳でね」

 生きていれば。その言葉に少しだけ胸が痛む。

「そんな子がアクア・レコード。でしたっけ? とにかく、娘や孫の声を回収してくれるなんて、私、すごく嬉しいの」

「……はい」

 柔和な表情を向けられて戸惑う。

「あなた達の事業をとやかく言う人達はいると思うけれど、救いになる人達も必ずいると思うのね。私達のように」

「ありがとうございます。でも……」

 でも、それでも私のしていることに自信が持てなかった。

「おい。娘さんが困っているだろ。そろそろ行くぞ」

 隣で黙っていたおじいさんが老婆を急かす。

「もう、わかりましたよ」

 老婆のか細い両手が私の両手を強く握り締める。

「お願いします。娘や孫の無念をどうか晴らしてください」

「……わかりました。必ず、人類の希望を拾い上げます」

 ふと、手の甲に冷たさを感じた。

 老婆の目元には涙が雫となって頬を伝っていく。

 私も、涙を流していた。

 手の甲に落ちた冷たい熱量は、どちらのものだったか。

 胸に込み上げるなにかがあった。

 私は、古代魚達の声を必ず届けなければならない。


     ※            ※


 スピーチが済み、特別に設置された防波堤の上に立つ。

 振り返り、先ほどの老夫婦の影を探す。姿は見えないけれど、どこかにはいるのだろう。ふと、海未さんと目が合う。

「波留ちゃん。200Mのウミガメがいたら教えてね」

「なんですか。それ」

 海未さんでも冗談を言うのだなとおかしくなる。けれどその顔は、哀しそうにも切なくも見えた。まさに真剣そのものだ。海未さんの彼となにか約束でもしたのだろうか。

「わかりました。探してみます」

 一つ、咳払いをする。私も真剣に答えた。

 遺族達の希望を背負って。彼への思いを胸に秘めて。

 ざわめく海の彼方を見つめる。

 耳をすませると人々の声援が忙しなく響く。

 不運なことに波は荒立っていた。亡くなった人達の轟々とした怒りなのか。波を切る風が断末魔のようにも聞こえた。

「……よし」

 私にしか聞こえないように、呟く。

 吸って、吐いて。吸って、吐いて。深呼吸を繰り返す。

 勢いよく防波堤を蹴って空へと飛び出した。

 流線型を描くように海へと落下していく。

 水面へとぶつかる瞬間、彼の顔が浮かんだ気がした。

 ドブン、と大きな音を立てて魚達の世界へと進む。

 潜った直後だと、まだぼんやりと人々の歓声や陽の光を感じ取れる。水温も気のせいか暖かい気がした。

 名前も知らない魚達が優雅に泳ぎ、私の回りを人なつっこく回遊する。私も魚に間違われているのだろうか。くすっと頬をゆるめると、口から大きな泡が漏れ出しては浮上する。その行き先を仰向けになりながら見つめる。やがて泡は海中を漂う光に紛れて見えなくなっていった。

「……綺麗」

 仰向けになって海の中を沈んでいくと、不思議な浮遊感覚を覚える。落ちているのか、浮上しているのか。ともすればその場に留まっているような不思議な感覚だ。

 水温は次第に冷たくなっていき、訓練を受けているとはいえ、体を刺す痛みを伴った。体を戻して海底を見据える。

 そのとき、腰に携えたトランシーバーから音がした。

「はい。こちら、回収班の波留です」

『海未です。そちらの様子と潜水状況はどうですか?』

 命の保証がない海中で海未さんの声が聞けて安堵する。

「順調に海底へと進んでいます。特に変化はありません」

『了解です。引き続き調査をお願いします』

 周囲が徐々に暗くなっていく。ここから先はどんな危険が待ち受けているかわからない。先ほどまで自由に泳いでいた回遊魚をやめ、私は深海魚のように暗闇へ集中する。

 浸透水圧テストによって、私の瞳は暗闇に対する極端な耐性を得た。しばらくすれば風景が見えてくるだろう。

 海の揺らぎでなにかが蠢くのが肌で感じ取れる。小さな流れがそこかしこで生まれる。下手に泳いで魚達を刺激しないように、私は体を丸くして海流に身を任せる。

 その間に視界も少しずつ開いてきた。

 よく目をこらすと甲殻のような巨大な外壁が現れる。水槽都市を水圧や海水の進入から守る防御壁だ。

 今やその役割の意味を失い、錆びて、朽ちて、ただ崩壊のときを待つばかりの代物である。しかし、褪せていくのを守るかのように、外壁には珊瑚礁や藻が付着していた。

 それら付着物を多くの魚がついばむ。深海独特な環境に依る進化なのか、刺激を受けた珊瑚礁が青白く発光する。

 弓なりに輝き、まるで古代魚の瞼が開くようであった。

 光を頼りに水槽都市への上部入り口を探し出す。

 機能が停止したとはいえ、水槽都市は今も海の底で息をひそめている。その光景はまるで軍艦島のようであった。

「これより、水槽都市内部の探索を開始します」

『はい。くれぐれも身の安全を第一に行動してください』

「承知しました。お気遣い、ありがとうございます」

 一段と強く光る入り口を抜けて、水槽都市へと踏み込む。

 浸透水圧テストで何度この街を回遊しただろう。

 海水が建物を浸食して、随所に腐敗が見受けられる。森林も水を与えられ過ぎて変色していた。街を訪れるたびにそういった綻びが顕著に見えて哀しくなる。

 図書館。学校。マンション。観覧車。水族館。そのどれもが私が住んでいたころとは違う風景を覗かせる。

 しばらく街を回遊してみても、一向にアクア・レコードが見つかる気配がなかった。探しやすい場所はほとんど回収したにしろ、ここまで見つからないことなんて初めてだ。

 得体のしれない不安が心を浸食する。

 もし、慰霊祭でアクア・レコードが一つも見つからなかったら。もし、私達さえも人類の希望になれないとしたら。

『波留さん。動きがないようですがどうかしましたか?』

「……すみません。どこにもアクア・レコードがなくて」

『そう。あまり深追いはしないように。もし』

 ブツンと音を立ててトランシーバーからの声が途絶えた。

「……海未さん?」

 嫌な予感がした。

 単なる故障とも考えられるけれど水槽都市の前例がある。海の中では最悪の事態を常に想定しなければならない。

 では、最悪の事態とはなにか。

 様々な状況が頭をよぎり不安が襲う。恐怖を振り払うために頭を左右に揺らす。口から何度も何度も泡が漏れては弾ける。いくら呼吸ができるとはいえ、息苦しさを感じた。

 …………あれ?

 暗闇の濃度に違和感を覚えた。先ほどまで見えていた視界には、ただ暗黒が続くばかりだった。そもそも私は今、どこに向かって泳いでいるのだろう。浮上しているのか、潜っているのか。目指す指針がないと泳ぎ方を忘れてしまう。

 あ、

 危険だ。と、頭では理解できているのに。

『勝手に、海の底でもなんでも行っちゃえばいいじゃん』

 彼と喧嘩別れした最後の日をなぜか思い出す。

「……助けて」

 私達の選んだ道は、本当は、正しくないのかもしれない。

 不安だ。こわい。嫌だ。どうしよう。呼吸が荒くなる。心臓が早くなる。もがく。もがく。泡が溢れ出す。体の中に水が流れ込む。トランシーバーを何度も叩く。もがいた。

 私は、彼と同じ海の底で死んでしまうのだろうか。

 それもいいのかもしれない。と、体の力を抜いて海流に身を任せる。目を閉じて、暗闇をもっと色濃いものにする。

 このまま死んでも。あなたの元へと行けるのなら。

 そのときだ。

 珊瑚礁が順々に光を放ち始めた。その光の軌跡からなにかが横切っている感覚がする。金属のような高い音がして、次第に海流が蠢くのが理解できた。なにかが、この海に。

『波留ちゃん。200Mのウミガメがいたら教えてね』

 海未さんとの会話が頭をよぎる。

 もしかして。まさか。本当に。私の、目の前に。

 勢いよく体が海面へと引っ張られる。様々な魚達が私の周りを回遊する。なんだ。なんなんだこれは。海面の光が徐々に近づく。海の底を睨むと甲羅のようなものが見えた。

 瞬間、勢いよく海面から顔を出す。水飛沫が陽に反射して煌く。力を振り絞り、防波堤まで移動する。肺に混ざった海水が呼吸を息苦しくさせた。

 その息苦しさこそ、生きている証だ。

 暗闇に慣れた目が光の刺激を受けて細まる。必死に目を凝らすと、呆然としている人達が私を眺める。私というより、地面を。視線に釣られて私も地面を見つめる。すると、

 ……………………あ。

 そこには数十枚に及ぶアクア・レコードが散乱していた。

「まだこんなにあったんだ……」

 驚き、駆け寄ってきた海未さんと目が合う。心配そうな表情で前に立ち、おもむろに私を抱きしめた。

「……海未、さん?」

「ごめんね。こわい思いさせちゃった……」

「あ、あの、みんなが見てるので、その……」

「……うん。本当に、ごめんね」

 私の体から離れる一瞬、海未さんの目から涙が流れるのを見た。海未さんがしばらく目をつむったあと、いつもの毅然とした顔つきとなる。

「波留ちゃん。遺族の方々にメッセージをお願い」

「……わかりました」

 海未さんの言葉を受け、凛とした表情を帯びて前を向く。

 視線を一斉に受け、少したじろぐ。

「わた、私は……っ!」

 大量の海水を飲んでしまったせいか上手に言葉がでなかった。胸を数回ほど叩き「あ、あー」と発声練習をする。

「私は、私達は、水槽都市に関する事業を行っています」

 誰からも返事はない。それでも、声を紡ぐ。

「水槽都市の住人の声や、写真や動画が収められたアクア・レコードを回収しています。誇りはあります。覚悟もあります。けれど、たまに思うんです。私達のしていることは正しいのかって。間違ってないのかって」

 遺族達の反応をうかがう。怪訝な顔をしている人や疑問に思う人もいる。中には真剣に聞いてくれる人や泣きそうな表情の人もいた。様々な立場がある。様々な考え方もある。

「それでも、信じ続けるしかないんだと思います。それが、水槽都市の住人に対する償いだと願いたいんです。だから私達は、人類の希望を、真実を、これからも伝えていきます」

 今までよりもっと深く、濃い沈黙が包む。

 やがて、どこからが手を叩く音がする。音が連鎖するように至るところから聞こえる。拍手だ。まばらだった拍手が轟音のように響き始める。その中に歓声も聞こえた。

「……あ」

 先ほどの老夫婦の姿が目に入る。無粋な表情を浮かべていたおじいさんが、今や歯ぐきを見せるほどに笑っていた。

 それだけで、なぜか救われた気がした。

「あと! これだけは最後に、言わせてください」

 ざわめいていた人達が一斉に静まり返る。

「ウミガメが、……200メートルのウミガメがいました」

 さっきとは違う感じの静寂が場の雰囲気を包んだ。

 自分でもなにを言っているのだろうと苦笑するしかない。

 けれど、

 海未さんの方を見る。海未さんだけが、笑っていた。

 涙を溢れさせながら、幸せそうに笑っていた。


     5


 慰霊祭のあと、海未さんからある話を聞いた。

 私との通信が途絶えてから、事の異変に気付いた凪紗さんが事情を聞いてきたそうだ。すると、驚くことに凪紗さんは海未さんと話し合い、海流発生装置を稼働させたのである。

 海底で聞こえた高い金属音は、海流発生装置の音だった。けれど、もしかしたら本当に200メートルの海亀が泳いで生み出した海流なのかもしれない。私はそう思いたいのだ。

『べつに。あんな会話をしたあとに死なれても困るから』

 凪紗さんはそう言っていたけれど、私は嬉しかった。

 各方面へ謝罪行脚よ。と、迷惑がってもいたけれど。

『見たくないものでも、目をそらしちゃ駄目よ』

 それだけ言って、凪紗さんは私の元を去った。

「あぁ、そうだ。波留ちゃんに見せたいものがあるんだ」

「なんですか?」

「見てからのお楽しみ。あとで解析室に寄ってね」

「はい」

 海未さんの背中を静かに見送る。

 見せたいものとはなんだろうか。

 新たな海流が生まれ、これからはアクア・レコードの回収率が大きく跳ね上がるだろう。そしたら、それだけ多く水槽都市の歴史や真実が世界に知れ渡ることになる。

 古代魚達の残した光を、この暗闇の世界に。

 それは閉じた瞼が開くように、まばゆい光が視界に広がっていく感覚だ。目をそらしたくなるくらいの光だ。でも、けしてその光から逃げてはいけない。全てを網膜に取り込む。

 私達の活動は間違っているのかもしれない。

 でも、間違いの中に正しさを信じて。

ただひたすら、前に泳ぐしかない。それしかないのだ。

「……よし」

 解析室へと向かう。

 深呼吸をして、未来を見据えた。

 私は今日も、

 古代魚の残した光を探し続けるのだ。


     ※            ※


『波留。君にメッセージを送ります。

 知り合ったお兄さんが面白いことを教えてくれてね。水槽都市から浅瀬まで続いてる海流があるらしいんだ。その海流を使えば地上にメッセージを送れるかもしれないんだって。

 そのお兄さんは地上に彼女がいて、その人が水槽都市に移住できたら結婚する約束をしてるんだってさ。なんだかそういうのってすごく素敵だよね。今でも待ってるんだって。

 僕達はさ、そういう関係じゃないけど、一つだけ心残りがあるんだ。最後に波留と会ったときは喧嘩別れだったよね。

 あのときは本当にごめん。そんな言葉じゃ許されないと思うけど。波留と離れたくなかったと今さら気づきました。お兄さんの真似をするわけじゃないけど言わせてほしい。

 波留が水槽都市に移住したら、僕と付き合ってください』

最後までお読みいただきありがとうございます

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