夜の香り
その日、相原礼二郎は息子夫婦に誘われて銀座のデパートに来ていた。催事場の物産展をのぞいたあと、嫁の多恵子の見立てで夏向きの麻のジャケットを試着した。
『父さん、なかなか似合うよ』
脇で見ていた息子の洋一が言った。七十を越えてから出不精になった礼二郎を心配して、外に連れ出したのは洋一だった。多恵子も喜んでそれに賛同した。
確かに来て良かったと礼二郎は思う。
デパートの売り場の商品の色彩が、うきうきするような高揚感をいだかせる。
『お父様、じゃあ、これに決めましょうか』
多恵子がそう言って、ジャケットを持って支払いを済ませ、自分用のブラウスを選んでいた。洋一に仕事先からの携帯の着信があり、長電話になるようなので、礼二郎は階段の脇のベンチに座って体を休めた。
少女に気づいたのは、そのときだった。フリルのついた白いスカート姿で、髪にリボンをつけていた。手にボールを持っている。それを階段の踊り場で弾ませていた。礼二郎の方を見て、にこりと笑う。
階段を上がって礼二郎に近づいてくると、手にしたボールを差し出した。見るとボールと思えたものは、ガラスのような透明な球体で、礼二郎が見ていると、なかに風景が見えた。白い花の咲く丘陵に人影が見え、こちらに向いた顔が礼二郎に微笑む。
『光子!』
長年連れ添った妻の顔だった。
そこで球体は白くにごり、少女の手に戻った。少女は礼二郎の手を握り、階段の踊り場に進んだ。このとき、礼二郎は妻の光子がすでに二年前に亡くなっていることを思い出した。少女は礼二郎の手を引く。そちらの世界に立ち入れば、光子との再会が予定されている気がした。だが、このとき、礼二郎のなかには、かたちにならない嫌悪感がこみあげてきた。足を踏み入れてはならない世界だと、おぼろげながら思った。
礼二郎は少女の手を振り払った。少女は、嫌々、という顔を見せたかと思うと、球体を床に落とし、階段を駆け降りていった。
そのとき落下する球体の運動が、ひどく遅い動きとなって礼二郎の目に見えた。球体は床の上で消えた。あたりに湿った植物の匂いのようなものが漂った。
『父さん』
振り返ると、洋一が怪訝な顔をして立っていた。
デパートを出ると、西日が街の建物の外壁の陰影を強めていた。四丁目の服部時計店のウィンドウの前まできたとき、
『あら』
と、多恵子が声をあげた。ウィンドウの中の展示に気がついたのである。
髪にリボンをつけたフリルの白いスカートの少女の人形が、透明の球体をはずませていた。球体は、電動で、おそらくLEDだろう、内部から青く発光していた。少女の背後にはいくつもの星が輝いていた。
『銀座らしいウィンドウ・ディスプレィだね』
洋一が言った。
少女の人形は、飽きることなく、球体を弾ませていた。
相原礼二郎は、階段の踊り場に漂っていたのは、夜の香りだったことを知った。
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