第四話(完結)
「彼は……、松岡さんは大変珍しい物が好きな人でして、自分が強く心を動かされたものしか絵の題材にはなさらなかったようです。ですから、画家として認められてからの十数年の間に、一般に知られているような静物・動植物にはいっさいこだわらず、誰も目にしたことのないような、世界の奇品珍品を大金を投じて、人に命じて集めさせて、それを夢中になって描いていたそうです。
つまり、美術界の異端児と申してもよろしいと思います。歳が進むほどに興は高じていき、世の中に自分を驚かせる物、興味を引く物がもっとありはしないかと、裏社会の画商や業者にも依頼して、方々を探させていたぐらいです……。歴史上のあまり知られていない、奇妙な偉人や犯罪者を題材にした彫刻や絵画などはもちろんですが、変わった動物や植物などにも興味を持っていたようです。松岡さんは足が不自由でしたから、あまり家の外へは出歩くことは出来なかったようです……。ですから、あの屋敷の中に奇妙な人物画や動物の剥製を集めて飾り、それを自分の仲間の一つとして眺めているのが、彼のもっぱらの趣味だったのです」
この界隈にそんな陰湿な芸術家が住んでいたという話を、これまで聞いたこともなかった。よほど近所づきあいが狭かったのだろう。なにしろ、萩さんでさえ、その松岡という人物の詳しい経歴や現況については、ほとんど分からないのだから。彼女はしばらく私の後ろに立っていたが、やがて、何かを悟ったかのように自分の机へと戻っていった。彼女は顔をずっとこちらに向けたままだった。突然、尋ねてきて、不自然なことを言い出した、この老人に対して不信感を持って凝視しているようだ。
「そして……、まあ、その松岡さんにも、わずかながら友人・知人があったのですが、そのうちの一人に旅行好きな若い冒険家がいまして、その男が松岡宅を訪れたときのことなんですが……」
老人はそこで一度話を区切った。たった今、気づいたのだが、この老人、話している間、ずっと両手をだらりと下げたままだ。いや、それよりも、私はこの老人に出会ってから、腕を動かす場面を見ただろうか。両手を下げたまま、首をつきだし、眼球を見開いていっさい動かさず、口だけをパクパクと開くこの姿は、異様であるが、どこかで見たことがある。ずいぶん昔だと思うが、たしかに見たことがある。どこで?
不可解な夢の中に閉じ込められたような感覚に襲われ、何か嫌な予感がして、萩さんの方を振り返った。萩さんは相変わらずこの老人のことを厳しい眼差しにおいて見つめているのだが、その視線はずいぶん冷たいものだった。退屈な夜半に訪れた、せっかくの来客に対して、従業員が向けるようなものではない。彼女はこの老人について、何か気がついたのだろうか。しかし、そこで再び老人が話し始めたので、私の思考は中断された。
「ええと……、その冒険家の若い男と松岡さんはおそらくは旅先において知り合ったと思われるのですが……、それがどこなのかは存じません。しかし、アフリカや南米などの未開の地であると考えます。松岡さんは若い時分に一般の人間が喜んで出かけるような場所へは、とうに行き尽くしてしまっていて、五十を過ぎた頃になりますと、親族を数人だけ連れて、車椅子のまま、行き先を一般人が踏み込めないような特定の地に限定して、お出かけになっていました。そのようなところで出会ったのですから、まあ、その若い男も企業雇われの冒険家ではないことは間違いないと思います。そして……、その晩、松岡邸を訪ねたその若い冒険家は会食の席で、自分がこれまで見てきた奇妙な生き物について、松岡さんに話して聞かせたのだと思います。私はその場にいたわけではありませんので、話の内容について詳しいことまでは分かりかねますが……、ことの経緯からそのように推測します」
経緯とは何の経緯なのだろうか。まあ、ここで私が横から口を挟んでもどうにもなるまい。もう少し後できちんと説明してもらえることを期待しつつ、そのまま静かに老人の話に耳を傾けることにした。
「そして……、珍しい生き物の話をする中で、その若者は、自分がこれまで見た中で、一番驚いたのは密林の奥深くで見た、人間や猛獣をも巻き殺す、緑色の巨大な蛇なんだと、そう松岡さんに話して聞かせたのでしょう。巨木の枝に頭部を中心に据えてとぐろを巻くその姿は、あなたがたには見慣れないものだと思いますし、油断しているところを、危うく襲われかかった、その若者にとっても、平和なこの国では体験したことのない冒険であったでしょうし、その緑色の物体が、さぞ巨大で獰猛で気味の悪いものに思えたのでしょう」
今、この老人は少しおかしな言い回しをした。私は自分の理解の中に何度も疑念を差し挟んだ。しかし、私がその事について尋ねる前に、老人が話の続きをしゃべりだしてしまったので、またしても、その思考を中断せざるを得なくなった。
「松岡さんはその蛇の話を聞いて、大変興奮なさって、すぐにでも、その凶獣とも戦えるという、緑色の蛇を見たいと、そして晩年の作品の一つとして、それをキャンバスに描きたいと、そう仰ったのだと思います。この辺りも私の憶測ですが、経緯から考えましても、そこまで的は外していないものと考えます。その後、松岡さんの親族の方から直接に連絡が入りまして、それは、まあ……、私どもに対して、すぐにでも尋ねて来て欲しいという事でしたが……、残念ながら、その頃の私には肉体的な障害から、海を越えた長旅は少し難しく思われました。東洋の日本という、まだ見ぬ遠い国へのあこがれは確かにありましたが、断念せざるを得なかったのです……。しかし、私は時が経てば、必ず松岡さんの依頼に応えられるだろうと、そう考えておりました。困難な障害は時間が解決してくれるものです……。そして、近頃になって、すべての障壁は乗り越えられたと感じられるようになり、私は松岡さんの依頼を遂行したいと考えました。肉体的な障害も現在ではなくなり、自分の生涯の最後をそのような形で締めるのも、悪くないと思いました。今日ここに参りましたのは、そのような理由からなのです……」
なるほど、この老人の話には、幾つか不可解な点があったが、それでも、その概要はほとんど理解できたように思う。つまるところ、彼は南米やアフリカの奥地の珍しい動物や植物などを都会人らに販売する業者なのだろう。そして、二十数年前、松岡という日本人画家から緑色の巨大な蛇を売って欲しいという依頼を受け、その希望に応じる形で、その蛇を彼に届けようとしたが、肉体的な理由、つまり、この老人自身の精神状態、あるいは体調が思わしくなかったため、それを実行できなかった。そして、彼はそのことをずっと気に病んでいたのだ。しかし、最近になって、ようやく体調が回復して蛇を運搬できる目処がつき、ここまで運んで来ることができたと、そういうわけなのだろう。依頼人から様々な注文を受け、それを探し出して届けるといった辺りは、我々の職業とよく似ている。しかしまあ、長い年月が経っても、過去の依頼を忘れず、仕事完遂への情熱を持ち続けた、この老人の態度には、見習うべきところが多くある。今日はいい体験談を聞く事が出来た。
私は勝手にそう結論を付け、満足してしまっていた。これですべてを理解したつもりでいたのだ。老人が話し終わると、私には自分の思考を進める余裕が生まれ、彼の腕のことがまた気にかかってきた。
「お話の方は大変よく分かりました……。いやあ、しかし、貴重な体験談をありがとうございました。それで……、先程、肉体的な障害というお話がありましたが、大変失礼だとは思いますが、それは両腕のことなんですか? なにか、少し不自由なように思えましたので…」
私は彼の腕を指さし、そう尋ねてみたのだが、老人の冷たい表情は変わらず、その反応はまったくなかった。彼は突如顔を上げ、私の目をじっと見据えた。その視線は思いの外厳しかった。私の方に何か落ち度があったのだろうか。『まだ、理解してくれないのか』と呆れ返っているようにも見えた。その厳しい目を見ていると、いつしか、狼狽してしまった。
「ええと……、先ほど、二十年前に肉体的な理由で、ここまで来られなかった、という話がありましたよね? そのことで……」
私は老人からの理解しやすい反応が欲しくて、そのような言い訳を口走ったのだが、後ろから、冷たい声が飛んできた。
「彼は子供だったんですよ」
私は振り返った。もちろん、そこには萩さんがいた。彼女は先程まで老人に向けていた冷めた視線を私の方へと切り替えていた。彼女の突然の指摘は、私にはまったく理解できなかった。
「子供? 誰がですか?」
とっさに敬語を使ってしまう辺りに、この時の私の動揺した様子がよく表れていた。
「彼はそのとき子供で、身体の寸法が小さかったから、ここへ来れなかったんです。松岡さんの依頼が大きな蛇だったので、来る意味もなかったんです」
萩さんは先の言葉と同じ質の声でそう言った。法律家のような冷たい指摘だった。私はしかし余計に意味が分からなくなり、言葉を失った。その次の瞬間、老人が立ち上がった。彼はあいかわらず、両腕をだらりと下げたままだ。そして、用事はすべて終わったという風に話し始めた。
「どうもお騒がせして……、ご迷惑をおかけしました……。私たちが住む世界と、あなた方の社会との間には、非常に大きな差異があることは分かっていましたが、それでも、誰かに伝えておきたかったんです、私がここまで来たということを。意味がないこととは分かっています。依頼者が死んでしまったということは、今更何をしても意味がないということは、よく分かっています。ただ、誰かにこれを伝えることにより、自分自身はある程度満足できるものなんです……」
老人はそう告げると、ドアに向かって歩き出した。彼は足を引きずっていた。よく見ると靴を履いていなかった。なぜ、今になってこんなことに気づいたのだろうか。そんなことを考える前に、老人はすでにドアのところまでたどり着いていた。なぜか、彼には、もう少しだけここにいてもらいたい気がして、無駄だと知りながらも最後の呼びかけをした。
「ちょっと、待って……、今、レインコートを……」
もちろん、聞く耳など持たずに老人はドアを開いた。
「萩君、早く、レインコートを持ってきて、早く!」
後ろを振り返り、彼女の方へ向いて、そう叫んだ。萩さんは立ち上がってはいたが、動き出す気配はなかった。彼女は冷たい視線を私に向けたまま、黙って、ドアの方を指さした。私はその動きにつられ、再びドアの方向を見たが、もう老人の姿はなかった。代わりに別のものがいた。
この夜はいろんな事で驚いていたから、あるいはもう免疫が出来ていたのかもしれない。私はそれを見てもさほど驚かなかった。ドアの外には巨大な蛇がいたのだ。
追いかけようとしたのだろうか、私はドアへと走り寄った。しかし、緑蛇はこちらから視線を逸らすと、間髪入れずに、非常階段の手すりをつたって地面へと滑り降り、今だ降り止まぬ、暗い雨の中に姿を消してしまった。
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