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緑蛇  作者: つっちーfrom千葉
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第三話


「社長、誰か来たみたいですよ」


 十数分も経った頃、萩さんのその声で目が覚めた。耳を澄ませてみると、雨音に紛れ、カツカツという、かすかな靴音が非常階段の方から響いてきた。誰かが上がってくるらしい。昼間なら、このビルの受け付けには案内の人がいるから、外部の人でも、事情を話せば、エレベーターを使用することで、この階まで上がってくることができる。しかし、深夜にこのビルを訪れる人は、建物の側面に設置されている非常階段を使うしかないのである。一週間に一度くらいの割合で、深夜に編集者などが緊急の依頼を持って、駆け上がって来ることがあるのだが、今夜の来訪者の静かな足音からは、それほど慌てているような印象は受けなかった。その靴音は一定のリズムで淡々と鳴り響き、来訪者の心の平静を示していた。


「こんな時間になって、お客さんかねえ」


 私のそのセリフに期待のニュアンスを感じたのかもしれない。萩さんは即座に「でも、大家さんが賃料を取りに来たのかもしれませんよ」と、微笑みながら皮肉混じりの言葉を返した。いずれにせよ、このビルの他の業者はすべて営業を終了している。この靴音の主の目的はうちの会社なのだ。我々は会話を止め、耳を澄ましてみた。足音は次第にはっきりと聞こえるようになり、やがて、コンコンとドアをノックする乾いた音が聞こえた。私は『それきた』とばかりに、飛び跳ねるようにイスから立ち上がった。萩さんも反射的に雑誌を閉じて、身構えた。ドアに走り寄り、「どちら様ですか」と内側から声をかけた。耳をそばだてても聞こえてくるのは雨音ばかりで、外からの返事はなかった。この事務所のドアには覗き穴がついていないので、誰が尋ねてきたのかを確認することが出来ないまま、私は覚悟を決め、静かにドアを開いた。


 すると、黒い背広を着込んだ白髪の老紳士がドアの外に立っているのが見えた。黒いシルクハットをかぶっているので、顔全体は把握しにくいが、白い顎髭が見えているので、なんとか老人であるということは分かった。


「どうかしましたか?」

 私が慎重に声をかけると、老人は顔を少し上に向けてくれた。


「ああ、すいません……、少々お聞きしたいことがあって来ました……」

 老人は一度深々と頭を下げてから、そう返事をした。よく見ると、老人の背広は上から下までぐっしょりと濡れていた。つまり、彼は傘を持っていなかったのだ。もう一時間以上、雨が降り続いているはずだ。いったいどのくらいの距離を歩いてきたのだろうか。


「傘をお持ちでないんですか? 大変だったでしょう。ささ、とりあえず中へ入って下さいよ」


 私はあわてて老人の手を取り、事務所の中へ引き込んだ。こんな真夜中に仕事依頼以外の目的で人が尋ねてきたということよりも、こんな老人が傘も持たずに深夜出歩いていたという、事実に驚かされた。その老人は事務所に入っても、そもそもの目的を忘れてしまったかのように、きょとんとした表情のままで、洗面所からあわててタオルを持ってきた、萩さんの様子をぼんやりとした目つきで眺めていた。まったく、こちらの狼狽ぶりには意を介さないようだった。私はその事にまた驚かされた。そう言えば、先程の「傘を持っていないのか」という質問に、この老人はまったく反応しなかった。あの様子からすると、反応できなかったというより、反応する気がなかったと表現すべきなのか。思えば、私はその時すでに、かなりの違和感を感じていたのだった。


 老人の衣服をその立派な帽子も含めて、一通り拭き終わると、次に萩さんはお茶を炒れてきてくれた。私は彼を部屋の中央まで誘導し、イスに腰掛けさせた。老人の顔つきは未だ呆然としたままだが、彼はもしかすると、初対面のはずの我々が、なんでここまで親切にしてくれるのだろうかと、戸惑っているのかもしれない。私としても、来訪の目的が判明しないままでは、正直なところ対応しづらいが、会話のきっかけになるような言葉も、今のところ見当たらなかった。しかし、その直後、その老紳士は突如口を開いた。


「松岡さんの家をご存じですか?」


 私の方から雑談であろうが何だろうが、とにかく話しかけようと思っていた矢先だったので、不意をつかれ、とっさには解答できなかった。


「ああ……、松岡さんという方の住居を探していらっしゃるんですね? ええと……、この辺にそういう苗字の人はいたかなあ……」


 私はここから二つ離れた駅の側にマンションを借りて住んでいるのだが、職業柄、家に帰れないことも多く、その場合はこのビルの近くの安ホテルで泊まっていくことになる。定時で終わろうが、深残業になろうが、基本的に食事は外食中心のため、旨い飯屋を求めて、この界隈をふらふらと出歩くことも多い。この周辺にはかなりの土地勘があると自負している。由緒ある名家であれば、かなりの数記憶しているはずだが、松岡という名はついぞ知らない。


「何しろ、昔のことでして……、たしか、高名な日本画家の方でしたから……、そのお屋敷も、かなり知られていると思うのですが……」


 老人はそのような情報を付け加えてくれた。しかし、高名な芸術家となると、よけい難しい。この辺にそんな目立つ家はあっただろうか?


「松岡画伯なら、相当前に亡くなられましたよ」


 後ろの壁にもたれて立っていた萩さんが、静かな声で誰にともなくそう呟いた。その途端、老人はガバッと立ち上がった。私はその動作に驚いて、後方にひっくり返りそうになってしまった。老人は無言のまま目を見開き、萩さんの顔をじっと見つめた。そして、直立不動のまま、身動き一つしなくなった。この場の異様な雰囲気に呑まれ、私も何も言えなくなってしまった。


「裏の公園の隣の敷地に、たしかお屋敷がありましたよね。そこに住んでいた松岡のおじいちゃんのことでしょう? たしかもう、三年ぐらい前に病気でお亡くなりになってしまい、近親者や遺産の相続人がいなかったことから、それから一月も経たずに、あのお屋敷は取り壊されちゃったんですよ」


 沈黙に耐えられなくなったのか、萩さんはそう付け加えた。残酷な結末ともいえる、その言葉を聞いても、その不審な老人は、これからどのような行動を起こせばいいのか、わからぬようで、しばらくの間、そのままの姿で立ちつくしていたが、やがて、力をなくしたように、静かにイスに座り込んだ。


「松岡さんの家に用事があって来られたんですか?」

相手の気持ちをうかがい、少し間を空け、頃合いを見計らって、私は声をかけた。


「届け物をするように頼まれていたのです」

「失礼ですが……、何を……?」

私の興味は尽きなかった。間髪入れずにそう尋ねた。


「蛇です」

老人はうつむいたまま、私の顔の方をまったく見ることなくそう答えた。

「なんですって、蛇と仰いましたか? 今夜、蛇をお届けにいらしたんですか?」


 私はその事実に驚愕し、何度もそう尋ねてみたが、老人はもう何も答えなかった。蛇といわれても、老人は檻も籠のような物も持っておらず、その意味が理解しにくかった。再び沈黙の時が訪れ、窓の外で降りしきる雨音が、ザアザアとはっきり聞こえてくるようになった。


「松岡さんの家は……、ほら、あの、裏手にある竹林の中にあったんですよ。おそらくは戦前から……。晩年はあまり絵を描かなかったようで、画商が訪れることも稀になって、他人との交流が少なくなって、そこに高名な芸術家が住んでいることを知っている人も少なかったようですけど……。家族も使用人もいなかったから、庭も雑草が伸びきって荒れ放題でしたしね」


 ご老人は何かに失望してしまったのか、押し黙ってしまったので、萩さんが代わりとばかりに、私に向けて、そう説明してくれた。私がその知識に感心して「君はよく知っているねえ」と誉め言葉を投げかけると、「私も小さい頃から、この辺りに住んでいたんですよ」と彼女は言い足した。


「へえ、あんなところに一人暮らしで? かなり偏屈な人だったのかねえ……」

私が感心してそう呟くと、その次の瞬間、老人が容易には聞き取れぬほど、小さな声で再び話しだした。


「松岡さんは変わったお方でしたから……」

その声に反応して、私は再び彼の顔に視線を戻した。

「おそらく……、もう、二十年ほども前のことになると思います。私が松岡さんからの依頼を受けたのは……」


 重要な情報を呟いたあと、老人は再び深い考えに落ち込んでしまい、沈黙の時を迎えてしまったので、私の方としても焦りを吹き飛ばそうと、せかすように「それで……、松岡さんはなぜ蛇を所望したのですか?」と尋ねてみた。その言葉は果たして届いたのだろうか? 老人はぼんやりとした、暗い目線を沈黙のままで床に向けるばかりで、私との会話にはそれほどの興味はなさそうだった。その蛇は何に使われるはずだったのか、そして、今はどこにあるのか。その根本的な疑問も、この老人が語ってくれない限り、すぐには解決するとは思えなかったが、しばらく間を取ってから、何かを思い出したように、彼は再び口を開いた。


 ここまで読んでくださってありがとうございます。よろしくお願いします。

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