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緑蛇  作者: つっちーfrom千葉
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第二話



 五時前に今日中にめどをつけなければならない仕事については、すべて片付いてしまったので、明日の仕事を少し追い込んでみようかと、机の上のファイルをぺらぺらとめくってみた。すると、明日の夕方が締め切りとなっている、『ほがらかに笑う車椅子の老人』というお題の仕事が見つかった。区報の法律改正のお知らせの記事の横に載るらしいが、この老人は車椅子姿にされるまで、人生が追い込まれてしまいながら、いったい何を笑うことがあるのだろうか?


 老いで車椅子生活になったとしたら、弱者に厳しい政府が創った法令と、冷たい家族の対応に挟まれ、苦笑いを浮かべるのさえ難しいことだろう。足を負傷した原因が交通事故であるなら、なおさらのことである。示談も見据えた加害者との交渉、弁護士への依頼や、民事裁判用の書類作成に振り回され、それこそ、笑っている場合ではない。私はちっとも良くならない、この国の現状に気分が重くなり、この依頼についても、なかなか筆が進まなかった。結局、その不幸な老人を描きあげることに、二時間も費やしてしまった。


 朝から絶え間なく急ぎの仕事に追われていたので、さすがに疲労が溜まってしまい、一息つこうと思った。しかし、計ったかのように、机の右手奥に置いてある黒電話がジリジリンと鳴り出した。受話器を持ち上げると、その、よく聞き覚えのある声色は、某出版社の編集者からだった。


「先生、先日お願いしてあった、アザラシのイラストの件なんですが……」

「ああ、とっくに出来上がっているよ。昨日の四時頃、あなたのメールアドレスに送っておいたよ。何も文句はあるまい」


 両者ともいくつかの締め切りに追われ、忙しい状況にある、この業界においては、『受け取った、受け取っていない』の行き違いはよくあることなので、私は落ち着いた口調で現状を説明してやった。しかし、相手はそれを聞いて、ついに激昂した。


「先生、違うんですよ! これではダメなんです! 先生が送ってくれたのは、明らかにオットセイです。私はアザラシを描いて欲しかったんです」

「アザラシとオットセイって違うのかい? 一緒だろ?」


「全然違う生き物ですよ! これからファックスで資料を送ります。明日の印刷予定なので、今夜中にもう一度送り直して下さい!」

それだけ言い放つと、大いなる憤慨を込めて、ガチャンと無慈悲に電話は切られた。


「この絵をアザラシに直せばいいんですね? 私がやっておきますよ」

 そう言って、向こう正面に座っていた派遣の社員の方が、私から書類を引ったくっていった。


「すまんね……。ほんの三日前に、囲碁の碁盤の上に将棋の駒を並べちゃって、先方に怒られたばかりなんだ……。自分が興味のない分野の仕事依頼は、ちゃんと調べて描かないとダメだね……」


「我々の仕事は常に時間との戦いですから、設定がある程度いい加減になるのは仕方ないですよ」

 彼はそう言って、居残りで仕事をやってくれた。二十分もかからずにその作業を終えると、いつも通り、礼儀正しく挨拶して帰宅していった。時計はいつしか午後八時を回っていた。


 私はこのとき、この日の作業はすべて片付いたと思い違いしていた。そろそろ帰る支度をしようかと、何の気なしに眼前に高々と積まれた、書類の山を整理していると、その一番下から、ペラッとコピー用紙が一枚飛び出してきた。その真っ白い紙に印刷された、枠線に囲まれた子供向きの見本画を見たとき、ハッと思った。先程の依頼者と同じ印刷会社から、四日後までに、医療関係の新聞に載せるための、四コマの漫画を二本描いてくれるように頼まれていたのだった。これはその見本紙だったのだ。あまり大きな声では言えないが、法律関係と医療関係の業界人は、仕事の出来不出来に非常にうるさく、気に入らなければ何度でも修正を求められることになる。本心としては、かなり厄介な部類に入る、客相手の仕事には、できれば関わりたくないのだ。


 私はしばし呼吸を止めて、精神を集中させ、思いを巡らせて善後策を検討した。この仕事については、二ヶ月前に入社したばかりの新人の平田君に回せないだろうか。彼はうちに来る前からイラスト関係の仕事に携わっていたし、そろそろ難しい顧客相手の仕事に挑んでみてもいい頃だろう。この業界に入りたてとは言え、社会人であるからには、常に重い責任が付きまとうわけだ。かなり都合のいい言い方になるかもしれないが、私の仕事人生の重荷を、彼にも少し肩代わりしてもらう時期に来ているのかもしれない。主任であるとはいえ、すべてのストレスを背負わされてしまったら、とても、長生きはできない。


「少し大変な仕事になるかもしれないが、この医療の四コマも平田君に頼んじゃって大丈夫かな?」

今度はしっかりと声に出して、隣に座る女性に尋ねてみた。


「彼はまだ若いですし、仕事を覚えるためには、仕方ないんじゃないですか?」


 隣の机から萩さんが少し笑いながらそう返事をくれた。平田君という人間が、どんな無茶を言われても、いつもニコニコと笑っていることと、その性格的に仕事を断れない人間であることを知っているのだ。萩さんは十二年前の創業当時からいる社員で、今や我が社の重鎮である。会社を立ち上げるときに、『それなら、この人を雇うといいよ』と、知人から紹介してもらった盟友でもあり、私より少し年配である。萩さんは女性なので、我々のように早朝から深夜まで、パソコン画面と向き合うような、無謀な仕事に従事することはそもそも出来ないが、従業員の勤務管理から事務・経理・接客まで無難にこなしてみせる、超敏腕社員である。その働きぶりから、彼女を専務と呼ぶ者もいるわけだ。もちろん、私としても、その見解に依存はない。この業界の仕事は、いつなんどき依頼の電話が入るかも分からないので、昼夜を問わず、数名の社員が常にここで待機しなければならないのだ。我が社にもローテーションがあり、遺憾ながら、彼女には今日に限っては、私と一緒に夜勤をしてもらっている。


 この職場も、昼間は印刷出版関係の細かい雑事に追われ、やたらと忙しいのだが、夜になるとだいたい仕事は片付き、することはなくなってくる。


 今、萩さんは自分の机でスナック菓子をほうばりながら、傍から見て、怖いくらい真剣な眼差しで、ファッション雑誌を読みふけっていた。彼女はもうすでに『若い』と呼ばれる年代は通り越してしまってはいる。ただ、女性である以上、そのような雑誌を読むこと自体は、別におかしなことではない。ただ、彼女は洋服や装飾品などの流行には割と無頓着な方で、しゃれた格好をしているところを見たことがない。それなのに、なぜそのような、流行に敏感な人向けの雑誌を好んで読むのか、ということに私はいたく疑問を持ち、以前何気なく彼女に尋ねてみたことがある。「こういう本は色彩豊かで賑やかだから、見ているだけでも楽しいじゃないですか」という素っ気ない言葉が返ってきた。


 私の方も、明日の作業予定表に必要事項をすべて書き込んでしまうと、今日あわててすることもなくなり、当てもないことを考えながら、しばし呆然としてみた。すると、窓の外から、サァーという雨粒の音が聞こえてきた。


「おお、やはり降ってきたか……」


 梅雨どきの雨の律儀さに感嘆し、私がそう呟くと、萩さんもその雨音に気がついたらしく、ファッション雑誌からぱっと目を離し、椅子からおもむろに立ち上がり、ゆっくりと歩みだした。彼女は私の後方にある大窓を半分ほど開けてくれた。長い付き合いの中で、私が雨音をことのほか好むことを知っているのだ。窓が開いたので、涼しい風が室内に流れ込み、サァーという雨音はザザーと変わった。退屈な夜だが、この雨のおかげで、少しは興味あるものになるかなと思い、イスにもたれて、しばらく眼を閉じてみた。

 ここまで読んでくださってありがとうございます。よろしくお願いします。

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