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2度目の初恋

作者: アルセーヌ・エリシオン

 今でも時折、夢を見る。



不気味に蠢く冷たい暗闇……


引きずり込まれる底なしの淵……


交錯する恐怖と絶望……


ボクそのものを鷲掴みにする黒い影は、


振り解こうとすればするほど、


執拗に拘束を繰り返し、


纏わり付いてくる。


その重く不快な感触が


絶望に拍車を掛ける。


抗う体力も気力も奪われていく中、


されるがままになす術も無いまま、


意識はふつっと途切れる……



 決まってここで目が覚める。

ところが、最近になって

目覚める瞬間なのか、

意識が堕ちる瞬間なのか、

微かに音が聞こえるようになった。

しかし、

それが何の音かは聞き取れはしなかった。



この夢で目覚めた朝、

必ず脳裏に過る記憶がある。


それは、初恋の記憶……


ボクの記憶の奥深くに、

ボクがまだ小さい頃、

母さんと同じくらい好きだった

女性の記憶がある。

母さんとは違う優しさと温かさで

ボクは包まれ満たされていた。


その人が、ボクの初恋のヒト。


ボクが物心ついた頃には

既にボクの傍に居てくれたお姉さん。

温かい春風のようなヒトだった。

優しく包み込んでくれるような眼差しと

ボクの全てを受け止めてくれていた

あの白い手。


そんなお姉さんとの時間が

ボクの絶対領域だった。


しかし、そんなお姉さんとの記憶は

ある日、何の前触れも無く急に途切れた。

ボクの記憶の最後に刻まれているのは


重く圧し掛かる暗闇。


纏わりつく黒い影。


そして、


漆黒の恐怖に巣食う絶対的な絶望感……。


そう、たまに見るあの夢に酷似している。

というよりは、この記憶が夢の原因だろう。

そんな記憶を残し、

お姉さんはボクの前から姿を消した。

それがいつだったのか、

どうして逢えなくなったのか

未だに思い出せない。

母さんも教えてくれなかったし、

何より、ボク自身、聞く勇気が無かった。

ボクの初恋は、そんな夢幻のような

儚くも淡く、そして

あまりにも不可解な最期で幕を閉じた。


 あれから正確には何年経ったのだろうか。

ボクは20歳になった。

今では、立派かどうかは別にして

社会人2年生だ。

目的の無い大学生活を送るのはご免だと

自分に言い聞かせて

就職の道を選んだ2年前。

幸いなことに、

担任の先生も優しい両親も

反対するどころか

むしろ応援してくれたのが

逆に心苦しかった。

もっともらしい口実を並べたが、

実際はただ学生という箱庭から

逃げ出したいだけの

稚拙な選択をしたからだ。

しかし、時間と言う魔物は

大抵の事は都合よく塗り替えてくれる。

最初の頃の罪悪感にも似た感覚は

1年もしないうちに消え失せていた。

学生時代とは違う

社会人としての規律と責任感が

大学に通う同級生に優越感すら覚えた。


そんな社会人2年目が

終わろうとしていた春先、

ボクは運命的な出逢いをした。

初めての一目惚れだった。


 そのヒトは、近所で花屋をしていた。

黄色いエプロンの似合う

春の陽射しのようなヒトだ。

毎日のように通っていた道に半年ほど前、

花屋がオープンしたことは知っていたが、

彼女をちゃんと認識したのは、

オープンしてから

だいぶ経ってからのことだった。


 仕事も早めに片付き

寄り道もせずに帰る途中の出来事だった。

小学校低学年くらいの兄妹だろうか、

しゃがんで両手を広げるそのヒトの手の中に、

小さな財布からたくさんの小銭を滑らせた。

夕陽の逆光の中、花々に囲まれた彼女が

まるで天使のように輝いて見えた。

彼女は、その子らに優しい笑顔を向け、

必要であろう小銭を受け取り、

残りを財布へと戻し男の子に手渡した。

その光景に目が離せずにいると

ボクの視線に気付いた彼女が

すっとこちらに視線を流した。

あわてて頭を下げるボクに

彼女は子供達に向けていた笑顔のまま

軽く頭を下げてくれた。

そしてそのまま視線を子供達に戻すと、

嬉しそうな兄妹と楽しそうに花を選び始めた。

子供達が指差す花達を集め終わると

3人は店の奥へと入っていった。

奥のカウンターで、

子供達が興味深げに見守る中、

彼女は、小さくも賑やかでかわいい花束を

手際よくこしらえた。

大喜びの兄妹。

その花束を、お兄ちゃんは妹へ持たせた。

嬉しそうに大事に抱える妹。

そんな妹の肩に手を掛け

お兄さんオーラ全開のお兄ちゃん。

二人して、満面の笑みを浮かべ店を出てきた。

それを、温かい笑顔で見守りながら

彼女は歩道までついて出てきた。


「ありがとう。おねぇさん」

「ありがとぉ」


「気を付けてね。

 良い、お誕生日を」


「うんっ」

「うんっ」


何度も嬉しそうに手を振る兄妹に応えながら、

その子らが角を曲がり見えなくなるまで、

彼女は温かい眼差しで見送っていた。


「お母様の誕生日だそうです。

 お母様の喜ぶ顔が目に浮かびます。

 ちゃんと妹さんに花を持たせてあげて……。

 本当は、

自分もお母様に手渡ししたいでしょうに」


「……そうですね」


未だにそこから離れられない

不審者一歩手前のボクに、

彼女は気さくに話しかけてくれた。

かなりびっくりしたが、

その物腰の柔らかさと心地よい声に、

ボクもキョドることなく普通に返事が出来た。


「……だから、お兄ちゃんの方にも、

 何かを持たせたんですね?」


「えぇ。

 メッセージカードと

 四葉のクローバーの押し花を。

 きっと二人で色んなものを我慢して、

 貯めたのでしょうから……」


「優しいんですね」


「ただの自己満足ですよ」


「いえいえ、

 そんなことはありませんよ。

 あなたは素敵な方です」


この言葉に、二人してはっとした。


「ありがとうございます」


その落ち着き払った返事に、

はっとしたのはボクだけだったと

少し恥ずかしくなったが、

それよりも、何気なく言った先程の言葉が、

初対面の女性に対して、実は恐ろしく

勇気のいる言葉だったことに気付き、

そのまま暫く真っ赤な金縛り状態となった。


「あのぉ、

 大丈夫ですか?」


「はっ、

 あっ。

 すいませんっ。

 何言ってんだボクは」


「ふふっ」


自分で自分を戒めたが

彼女の笑顔が助け舟になった。


それが彼女との出逢いだった。


その落ち着き払った佇まいと、

礼儀正しく丁寧な言葉遣いと物腰が、

ルックスではない年上感を漂わせていた。

長い黒髪が似合う純和風な顔立ち、

涼しげで温かな笑顔を持つ、

色白のスレンダーなヒトだ。

そんな彼女に、

どこか懐かしさすら覚えたこともあり


ボクは一瞬で恋に堕ちた。

まるで初恋のような感覚だった。


ただ、

彼女の長い黒髪が風に軽く靡いた瞬間、

あの初恋の記憶が過ぎったが

彼女の横顔が

それを温かいものへと塗り替えてくれた。


 それから毎日、店の前を通る時には

店内に視線を投げるようになり

普通に挨拶をできる間柄になった。

たまにする、ほんの社交辞令のような会話も、

ボクには至福の時間だった。

彼女の店は、こじんまりとした店だが、

何とも温かく、花達が活き活きと輝いている、

そんな好感の持てる佇まいだ。

彼女との会話の中で、

全ての花に目が行き届くよう

愛情を注げるようにと、

その広さにしたとのことだった。

ボクは、容姿はもちろん、

彼女の全てに心を奪われた。


 3ヶ月程過ぎた頃、あることに気付いた。

店先の洒落たボードに


営業時間/7時~20時

定休日/火曜日


と書いてある。

しかし、毎月15日だけは、

ボクの通勤時間に彼女の店は閉まっている。

習い事でもしてるのか、

それとも別の特別な用事なのか

帰宅する頃には普通に店は開いていた。

3ヶ月見ている限り、彼氏がいるとか

ましてや結婚しているとかは無いようだ。

それとも、そういうタイミングに

ボクが出くわしてないだけだろうか。

色々、気になるが、

一人で考えても答えが出るはずもなく。

それにいつくるかわからない

『いつか』のタイミングを期待するより、

今この瞬間に、

自分で決めて行動することにした。

元々、全く社交的ではない上に、

人とのコミニュケーションが

苦手なボクにとって、

かなりハードルの高い行動だが、

ダメもとでデートに誘ってみることにした。

臆病に保身に走るよりは、

自分の感じているこの気持ちを

全て伝えた上で玉砕する方がいいと思った。

完全に自分の都合だが、

そうせずにはおれないほどの

『何か』がそこにはあった。


不思議と、彼女に対してだけは

『後悔をしたくない』と強く思えた。


今まで告白なんてしたことも、

勿論されたことも一度も無い。

かけひきの仕方などもってのほかだ。

いずれにせよ、彼女はボクにとって

特別な存在なのは間違いなかった。

色々と都合を把握した上で、

2日後の土曜日、

誠心誠意、想いを伝えることにした。

2日間の緊張がいよいよ本番を迎えた当日、

仕事を終え、

ゆっくりと彼女の店へと向かった。

途中の夕焼けが高鳴る鼓動を

少しだけなだめてくれた。

店の手前で気持ちを落ち着かせようと

立ち止まると。


「こんばんは。

 お帰りなさい」


完全に意表をつかれた。


「こんばんは。

 ただいま……です」


「今日も暑かったですね」


「はい……。

 あっ、あの……」


「はい?」


「今日は……、

 今日は花を買いに来ました」


「あら、そうでしたの?

 いらっしゃいませ。

 どうぞお入りください」


そう言って店内に導いてくれた。


「あの……」


「はい?」


「好きな人に花を贈りたいのですが、

 人に花を贈るなんて初めな上に、

 彼女の好みもわからなくて……」


次の言葉が出せずにいると

彼女は優しく微笑みながら

花のほうに視線を流した。


「花達は、贈る人の気持ちを

 代弁してくれるんですよ。

 だから、そういう時は

 あなたが贈る方を想って選べば

 それが答えなんです」


「気持ちを……」


「えぇ」


ボクは、目の前の彼女を想って

キラキラに輝く花達と向き合った。

すると、色とりどりの花の一輪と目が合った。

白いすずらんだった。


「あの、このすずらんで……」


「はい」


彼女は丁寧にそのすずらんを手にし

数あるラッピング用のフィルムから

迷うことなく2枚を抜き取り

ラッピングしてくれた。


「こちらでいかがですか」


「はい……それで……」


彼女は笑顔のまま仕上げのリボンを巻いた。


「メッセージカードはどうされますか?」


「それはいいです。

 自分の言葉で伝えたいので……」


「素敵ですね。

 あなたの想いが届きますように……。

すずらんは別名を、

君影草きみかげそうって言うんです。 葉の陰に隠れてひっそりと花をつける姿が、 男性の陰に隠れて奥ゆかしくたたずむ姿と

重なることからといわれています。

因みに、花言葉は

『幸せが再び訪れる』『純粋』『純潔』

などと言われてるんです。

あっ、もしかして、ご存知でしたか?」


「いえ、知りませんでした」


「ごめんなさい。

 なんだか余計なことを……」


「そんなことないです」


「ありがとうございます」


そう笑顔のまま、持っていた花束を

大事そうに手渡してくれた。

支払いを済ませて

改めて彼女に向き合った次の瞬間、


「すいません、

 誕生日用に花束が欲しいんですけどっ」


と似たようなお客さんが入ってきた。


「いらっしゃいませ。

 少々、お待ちいただけますか」


「いいですよ」

「あの、ボクの事はいいですよ。

 こちらのお客さんのお相手を」


「あ~、私もちょっと花を見ときますから

 お気になさらずに」


「もうしわけございません。

 すぐに、参りますので」


「はい」


スーツ姿でうちの部長位の年齢だろうか。

感じの良い応対後、中腰になり目を細め

店の花を一生懸命見ている姿が可愛かった。

奥さんか娘さんにでもあげるんだろうか。

ちょっと、心が温かくなった。


「ありがとうございました。

喜んでいただけるといいですね」

「うわっ」


完全にそのお客さんに意識が向いていたため

素で驚いた。


「あっ、ごめんなさい」


「いえいえ、

 こちらこそ、ぼ~っとしちゃって。

 ありがとうございました。

 頑張ってみます」


「頑張らなくても大丈夫ですよ。

 きっと伝わります。

お気をつけて」


「えぇ。

 ありがとうございます」


ちゃんと、あの子ら同様、

丁寧に店の外まで見送ってくれた。

お陰で、完全にタイミングを逃した。

しかし、このまま持ち帰っては

この今の勢いと勇気は萎えてしまう。

そんな気がしたため、

そのお客さんが帰るのを外で待っていた。

10分後、そのお客さんが出てきた。


「ありがとうございました。

 お気をつけてっ。

あらっ?」


「ありがとう……

 んっ?」


「あっ、どもっ」


この時たぶん、二人とも『何で?』と

思ったに違いない。

ボクも、何で、こんなに露骨に

道端に突っ立ってたのか

自分でも分からなかった。

ただ、そのお客さんは、

ボクとのすれ違いざまに軽く微笑んで、


「頑張ってくださいっ」


と小声で囁いてウインクをした。

恐ろしく勘の鋭い人だと感心したが、

ボクの意識はすでに彼女に向いていた。


「あっ、あのっ」


「どうかなさいましたか?

 あっ、何か不手際でもございましたか?」


「いえいえっ」


周りを見ると、

ちょうど、人通りが全くなかった。

『今しかない』

緊張で手が震えているのがわかったが、

このタイミングで言わなければ

二度と言えないような気がした。

どんなリアクションがあろうが

後悔しないために言葉を絞り出した。


「初めて見た時から……

 あなたのことが好きでした。

受け取って……もらえませんか」


声も、そして差し出した花も震えていた。

でも、ちゃんと目を見て言うことは出来た。

初めて見る彼女の少しだけ驚いた表情に

今までの関係が変わるのを感じた。

しかし、不思議と後悔はなかった。

先ほどの震えは治まっており、

言う前までの緊張感から解放され

清々しささえ感じたくらいだった。


「私の為に選んでくださっていたんですか」


「え、えぇ」


「こんな素敵なお花。

 ありがとうございます」


彼女はそう言って

その花束を受け取ってくれた。

そして、そのまま大事そうに

すずらんの花束を胸に抱き寄せた。


「こんなこと……、

 いきなりごめんなさい。

 でも、どうしても伝えたくて……」


「凄く……、

 凄く嬉しいです。

 初めてです。

 お花を頂いたのは……」


「ボクも初めてです。

 誰かに何かを贈ったのは……」


「あんなに一生懸命選んで頂いて……。

 この子も私も、幸せです」


「だと……嬉しいです」


「ふふっ」


「あのっ

 付き合ってる人とか

 好きな人いますか?」


聞いてすぐ、そんなにがっつかずに、

日を改めればよかったと少し後悔した。


「……いいえ、おりません」


彼女は表情を変えずに答えてくれた。


「なら、もし良かったら、

 今度、デートしてもらえませんか」


自分でも、調子に乗り過ぎだと思ったが、

彼女の笑顔に、歯止めが利かなかった。


「はい……。喜んで……」


彼女も、考える様子もなく、

すんなりとOKの返事をしてくれた。


「……えっ?

 いいんですか……本当に?」


「お断りしたほうが……よかったですか?」


「とんでもありませんっ。

 夢みたいです」


「私もです……」


「お休みは平日ですよね?」


「えぇ」


「じゃぁ~近々、有給を取ります」


「そんな、そこまでしていただかなくても、

 私が合わせます。

明日とか所用はございませんか?」


「ボクは無いですけど」


「では、明日お休みにします」


「いいんですか?」


「えぇ、明日は予約もございませんし、

 こういうとこは、個人経営の特権です」


「やったぁ」


意外とあっさりとOKしてくれた上に、

翌日の日曜日、

急遽、店を臨時休業としてくれた。

 ダメもとで誘ったこともあり

ノープランだったため、帰ってから、

彼女が好きそうな場所をネットで検索し、

いくつか目星をつけた。


 翌日、天気も良かったため少し遠出をして

人気のフラワーパークに行くことにした。

約束が10時だったため

念のため15分程余裕を見て家を出た。

待ち合わせ場所にした彼女の店の前に

10分前には着いた。

彼女もその後すぐ姿を現した。

 真っ白いワンピースに淡いブルーのベルト、

黄色いリボンの付いた白い帽子をかぶって

涼やかに歩いて来た。

見慣れたエプロン姿ではない彼女に

特別な何かを感じ、ただただ見惚れた。


「おはようございます。

 お待たせしてすいません」


「おはようございます。

 ボクも今着いたとこです。

 どうぞ、お乗りください」


「ありがとうございます」


そう言って、帽子を取り、助手席へと座り、

帽子を膝の上に乗せた。


「今日は行きたいとことかありますか?

 リクエストがあれば遠慮なくどうぞっ」


「いいえ、特にはありませんので、

 おまかせ致します」


「では、最近開園した

 フラワーパークとかどうですか?」


「私はかなり嬉しいですが、

 あなたはそれでよろしいの?」


「勿論。

 あなたと一緒なら

 どこでも行きたい場所になります」


「まぁ。

 お上手ですね」


「いえいえ、本音です」


「ふふっ。

 ありがとうございます」


「こちらこそ」


そんな歯の浮くような台詞も、

彼女には何のためらいも無く言えた。

彼女だから言えた……そう思えた。

国道から高速に乗り、

小1時間ほどで高速を降りた。

県道を南下していくと

綺麗な山並みが見えてきた。

他愛も無い

楽しい日常的な会話を楽しんでいるうちに

目的地のフラワーパークに到着した。


「流石に多いですね」


「そうですね」


駐車場に入るのに15分程並んだ。

車を停め、今度は入場するのに10分程並んで

やっと入園できた。

園内のパンフレットを片手に

子供のようにはしゃいでいたのは

ボクの方だった。

彼女とのデートも勿論そうだが

人間より植物や動物、

昆虫が好きだったボクは

名も知らない花々に

テンションが上がってしまった。

そんなボクの行動に

彼女も楽しそうに付き合ってくれた。

驚いたのは、今のところ園内には

彼女の知らない植物が無いということだ。

名前は勿論、特徴やうんちくまで

完璧なまでの解説にただただ脱帽だった。

その後も、温室やら展望台を巡り、

二人してソフトクリームを片手に

木漏れ日が続く遊歩道の途中にある

ベンチに腰掛けた。


「ソフトクリームなんて何年ぶりかしら」


「ボクも高校生以来ですかね~」


「そう言えば、まだお名前を……」


「あっ……そうですね。

 ごめんなさいっ。

 ヨコヤマユウキです」


「ユウキ……さん……」


「はいっ。

 ん?

 どうかされましたか?」


「あっ、いえっ。

 ごめんなさい。

 私、シノヤマカナエと申します」


この時、ほんの僅かではあったが

微かに聞き覚えがあるような気がした。


「カナエ……さん……。

 てっきりサナエさんかと……」


「あぁ、お店の名前ですか?」


「えぇ。

 フラワーショップさなえだったから……」


「ですね……ふふっ。

 さなえは妹の名前です」


「妹さんの?

 あっクリームが手に付きますよっ」


「あっ」


そう言って長い髪を耳にかき上げ

ソフトクリームを口にする仕草が

いつもの大人な彼女ではない

無邪気な女の子に一瞬だけ見えた。

それに見とれていたボクの手は

ソフトクリームまみれになっていた。


「あっ……」


「うわっ。

 人どころじゃなかったな、こりゃ……」


「ふふっ」


「もったいないなぁ」


「早く食べないと

 ソフトクリームまみれに

 なっちゃいますよ」


「確かにっ」


「ふふっ」


「いやぁ。

 こんなに急いで食べると

 食べた心地がしないなぁ」


「ですね。

 ふふっ」


「すいません。

 ちょっと手を」


「えぇ、どうぞ」


クリームまみれの右手は諦めて

そのままソフトクリームにかぶりついて

食べ終えると

近くにあったお手洗いに行って洗い流した。


「すいません。

 お待たせしました」


「いいえ」


「そろそろ行きますか」


「えぇ」


暫く歩くと大きな湖が姿を現した。

何組かのカップルが

楽しげに白鳥ボートで

遊覧しているのが見えた。

楽しそうではあるが

ボクは乗る気がしなかった。

ボクの視線に気付いたのか


「楽しそうですね」


と、どこかしら物寂しげな目で

彼女はその光景を眺めていた。


「ですね……」


普通なら、自然に誘えたのだろうが

ボクは自分を優先してしまった。


「乗りたかったりします?」


「いいえ。

 水上の乗り物は

酔いそうで苦手なんです……」


「ボクもですっ。

 カナエさんが……

 あっ、カナエさんて呼んでもいいですか?」


「勿論、結構ですよ。

 私もユウキさんでよろしいかしら」


「勿論っ。

 お好きに呼んでくださいっ」


「じゃ~、ユウキさんは

 さっき何を言いかけたんですか?」


「あっ、あれは……」


改めて聞かれると、言うのに勇気がいる。

そういう台詞を言おうとしてたことに

顔が赤くなるのを感じた。


「ん?」


そう覗き込む彼女に

耳まで赤くなってるのがわかって

恥ずかしかった。


「ふふっ。

 かわいいいっ」


手のひらで転がされてる気分だ。

勿論、全く悪い気はしなかった。


「からかわないでくださいよぉ」


「からかっていませんよ。

 本心ですっ」


「カナエさんだって美人でかわいいですっ」


「えっ」


「あっ」


勢いで本音を言ってしまった。

こういうことは、勢いじゃなく

雰囲気のある場面で言いたかったが

おもいきりフライングしてしまった。


「本当ですよ」


「ありがとぉございます」


二人の間に微妙な照れが漂った。

そんな初々しい雰囲気のまま

湖の畔を散歩した。

こんなに満たされた気分は初めてだったが

どこか懐かしくも温かい感覚に

後ろ髪を引かれた。

月並みだが、

楽しい時間ほど過ぎ去るのは早い。

閉園10分前を知らせる

場内に流れるメロディーと陽の傾き加減が

今日のデートに終わりが近づいていることを

思い起こさせた。

まばらな人影と共に車に乗り込み

想い出の詰まった公園を後にした。

夕焼けが朱色に辺りを染める中

家路へと車を走らせる車中で

深い意味は無いまま軽いノリで彼女に聞いた。


「そういえば、15日って

 毎月、開店が遅いですよね?

 何かあるんですか?」


一瞬、躊躇いの様な表情の後

少し俯き加減に彼女は答えた。


「あっ……、ちょっと私用で」


私用という言葉に、

余計な詮索をしてしまったと少し後悔した。


「すっ……、すいませんっ。

 立ち入ったことを……」


「いえっ。

 気になさらなくて

 結構ですよ」


完全に会話しづらくなったが、

車内の雰囲気に居心地の悪さは無かった。


「あのっ、良かったら、

 またデートしてもらえませんか?」


「喜んで……」


「やったっ」


「ふふっ」


素で子供のようなリアクションになったが

彼女も普通に笑ってくれたお陰で

再びリラックスできた。

彼女を送ろうと場所を聞きながら着いたのは

花屋から歩いて5分ほどの距離にある

名の知れた高級マンションだった。

ボクのアパートは彼女の花屋を挟んで

丁度、反対方向に歩いて

5分ほどの距離にある。

何か不思議な縁を感じた。

別れ際に、普通に連絡先の交換をした。

携帯番号とメールアドレス、

今は、何よりも嬉しいプレゼントだ。


「今日は、ありがとうございました。

 楽しかったです」


「ありがとうございます。

 ボクも最高の一日でしたっ。

 また、明日っ」


「えぇ、お気をつけて」


「はいっ、ではまた」


いつもの見慣れた風景も、

住み慣れた街並みも、

自分の心の変化で

こんなにも違って見えるのかと

冷静に、それでいて浮かれながら感心した。

帰り着き、風呂に浸かっているとき

ふと初恋の記憶が過ぎった。

そう言えば、

初恋のお姉さんとカナエさん……

雰囲気が似ている気がする。

顔を思い出せないことと

カナエさんのボクに対する反応を見る限り

やはり他人の空似だろうと思ったが、

少し気になって、風呂上りに

おふくろに電話で聞いてみることにした。


「おふくろっ。

 久しぶりっ。

 そっちは変わりない?」


「あらっどうしたの?

 珍しいこともあるのね?

 何にも変わりないわよ」


「オレが小さい頃さ、

 良く遊んでくれてたお姉さんがいたよね?

 覚えてる?」


「どうしたの急に」


「いや、ちょっとね。

 急に思い出して気になっちゃってさ」


「そう……。

 勿論、覚えてるわよ。

 あなたのこと

 たくさん面倒見てもらったからね。

 あなたも良く懐いていたし」


「あのお姉さんのことさ、

 途中から思い出せないんだよね。

 思い出そうとすると

 なんだか怖いイメージが浮かんでさ」


「そう……」


そう言って、おふくろは黙った。


「もしかして、昔、何かあった?」


「思い出さない方が良い事もあるのよ」


「何それ?」


「悪いことは言わないから忘れなさい」


「どうしたんだよ急に?

 余計、気になるじゃん」


「あなたにとっても、その方がいいからよ」


「何で? 教えてよ。

 オレももう子供じゃないんだから」


「……ゆうき、まだ水が怖い?」


「まぁ、普通の人よりは怖いかも」


暫くの沈黙の後

おふくろのため息が聞こえ

仕方なさそうに話し始めた。


「あなた、小さい頃一度溺れたのよ」


「溺れた? オレが?」


「えぇ、そうよ」


「全く覚えてないよ」


「あなたが5歳の時。

 梅雨が明けて

 少し暑くなって来た頃だったわ。

 カナエちゃんに公園に誘われて

 大喜びしながら出掛けて行ったんだけど。

そこで、事故が起きたのよ。

 そこにある池のボートに

貴方たちが乗っていた時にね、

 他のカップルが乗っていたボートが

 ぶつかって来て双方転覆したのよ。

 5人全員が池に放り出されて

 池の水が少し濁ってたことと

 あなたが小さかったこともあって

 あなただけ溺れちゃったのよ。

 泳ぎが得意なカナエちゃんが

 岸まであなたを連れて

 上がってくれたんだけど、

 暴れるあなたを抱えて泳いだもんだから

 岸についてすぐ

 力尽きちゃったらしくてね。

 周りで見ていた人が

 二人を助け上げてくれたの。

 そして

 先に岸に着いていたサナエちゃんが

 あなたに蘇生術を施してくれたの。

 その時は、

 まだ微かに意識があったそうよ」


「ちょっ……。

 サナエちゃん?」


「あらっ?

 それも覚えてないの?

 カナエちゃんとサナエちゃんは

 双子の姉妹よ。

 二人で良く交代で

 あなたの面倒を見てくれていたのよ」


「双子?」


「えぇ、そうよ」


「知らなかった……。

 というか覚えてないだけなのか……」


「共働きだった私達に良くしてくれた

 お隣さんの娘さん達よ。

 あなたが一人っ子だったこともあって

 面倒を良く見てくれてたのよ」


「全く憶えてないや……」


「見た目は双子と言うだけあって瓜二つで

 並ばないと分からないくらいだったわ。

 でも、性格は正反対だった。

 お姉さんのカナエちゃんは

 大人しくて読書と水泳が好きで

 県でも有名な競泳の選手だったの。

 妹のサナエちゃんは

 明朗活発を絵に描いたような子で

 彼女はバスケをしていたわ。

 ご近所では美人女子高校生姉妹で

 有名だったのよ」


「そうだったんだ……」


「えぇ、あなたはそんな美人姉妹を

 独り占めしてたのよ」


「ははっ。

 そんなこと言われても

 当時はそんな優越感なんてなかったよ。

 ただ、おふくろが2人いるようだった」


「正確には3人かしらね」


「そだね……。

 で、溺れた後どうなったの?」


「あぁ、

 周りで見ていた人が通報してくれたようで

 程なくして救急車が来て、あなた達3人が

 一応、救急車で運ばれたの。

 二人とも大した事なかったんだけど

 あなただけ、意識が戻った後も

 その時の記憶だけが戻らなかった。

 勧められた心療内科で、

 恐らく過度のストレスによる

 一時的な記憶障害だと言われてたんだけど

 結局、あなたも分かってる通り、

 今もその記憶は戻ってない。

 あの頃のあなたにはそれほどの、

 衝撃的な出来事だったのね。

 無理も無いわよね、溺れる恐怖なんて

 経験した事あるヒトにしか

 分からないでしょうから」


「記憶……障害……」


「カナエちゃんもサナエちゃんも、

 毎日お見舞いに来てくれたのよ。

 相当、責任を感じてしまっていて

 二人とも自分らを責めていたわ。

 あれは事故だからと言っても

 彼女達は納得することはなかった。

 自分を責め続けたの。

こちらが、見ていられない程にね。

 あなたがどれほど怖い想いをしたのか、

 その体験を思い出さないように

 あの子達は

 あなたにの記憶が戻らないうちは

 会わない事を決意して

 退院後、あなたを避けていたの。

 相当つらかったでしょうに。

 その後、まもなくして

 あなたの記憶が戻らないまま

 お父様の転勤が決まって

 後ろ髪を引かれながら引っ越して行ったわ。

 あなたを気遣って便りも控えるって……。

 あなたが水を怖がるのは

 溺れた事の潜在的な記憶が

 そうさせているんだと思う。

 そして偶然……。

 もしかしたら、必然だったのかしら。

 あなたの住む街で見かけたの。

 でもね、

 辛い記憶を思い出させたくなかったから

 声は掛けなかったけど

 綺麗なお嬢さんになっていたわ。

 あれはどっちだったのかしらね。

 カナエちゃんなのか

 サナエちゃんの方だったのか」


「そんなことが……」


「えぇ。

 いつかは聞かれると思っていたけど、

 こういうことって、

 本当に突然くるものなのね」


「実はさ、

 今日カナエさんって女性と

 デートしたんだ。

 オレより年上でさ、

 落ち着いた感じの優しいヒトなんだけど

 帰ってきて風呂入ってたら

 急にあの頃のお姉さんのことが

 気になってさ……。

 いてもたってもいられなくなって

 電話したってわけ」


「そうだったの……」


「あのお姉さんが

 カナエさんだったんだ……」


「何で、言い切れるの?」


「そのカナエさん、花屋をしててさ、

 その店の名前が妹さんからとって

フラワーショップサナエって言うんだ。

それに、おふくろも、見かけたでしょ。

デートの時、水上の乗り物は

酔うから苦手だって言ってたけど、

本当は、事故のトラウマなのかも……。

それに、懐かしい感じがするし、

たぶんと言うより、確信に近いかな」


「不思議なこともあるものね……」


「でも向こうもオレのこと

 覚えて無かったよ……たぶん。

 そう言えば、自己紹介した時に一瞬

 間があったな……。

 オレと一緒で何かがひっかかったのかな?」


「どうかしらね。

 でも良かったじゃないの。

 初恋のヒトにまた逢えて

 デートまでしたんでしょ。

 ごちそうさまっ」


「いやいや、そういうことじゃなくて……。

 でも初恋のあのお姉さんの記憶の最後は

 ほぼ悪夢なんだよなぁ~」


「それもきっとあなたの恐怖体験が

 誇張されたんじゃないのかしら……」


「なのかなぁ」


「この話を聞いても

 溺れたときの感覚は思い出さない?」


「うん、全然……」


「なら、もう大丈夫なのかしらね」


「良くわかんないけど。

 でも、あの頃のお姉さん達の顔が

 まだ、思い出せないんだよなぁ」


「そう……。

 まぁ、焦る必要もないでしょ。

もし、彼女らなら、いつかきっと

はっきりするわよ」


「そうかもね……。

 サンキュな。

 少しすっきりしたよ」


「なら良かった。

 じゃ~、おやすみ」


「おやすみ」


電話を切って、思い出を辿ったが

やはり記憶は不鮮明だった。

今度、タイミングを見て

カナエさんに聞いてみることにして

眠りについた。


 朝、会社に向かう途中、

何も考えずに店の前を通りかかった時、

15日だということに気付いた。

いつものかと思ったが、

少しだけ胸騒ぎがした。

その日の夕方、胸騒ぎが的中した。

店は閉まっていた。

色んなことが走馬灯の様に

頭の中を駆け巡り、

少しだけ怖かったが彼女の携帯を鳴らした。

思いの外、直ぐに通話状態になった。


「もしもし、カナエさん?」


「もしもし、ユウキさん?」


「あの……、

 店が開いてなかったから」


「あぁ、ごめんなさい。

 ちょっと体調を崩してしまって。

 お休みにしたの」


「そうだったんですか……。

 大丈夫ですか?」


「えぇ、もう平気です」


「もしかして、

 昨日も体調が悪かったんじゃ?」


「いいえ。

 今日のお昼くらいからだったんで、

大事をとってお休みにしました」


「そうですか……。

 ゆっくり休んでくださいね。

お大事に」


「ありがとうございます」


本当は今すぐにでも飛んで行きたかったが

別にまだ付き合ってるわけでもないのに

そこまでおこがましいことはできないと

なんとか自制した。


 翌日、普通に店は開いていた。


「おはようございます」


「おはようございます

 今日はお早いんですね」


「あっ、はい……」


「もしかして心配して……」


「えぇ……まぁ」


「ありがとうございます。

 もう大丈夫ですよ」


「良かった。

 近いうち、お食事でもどうですか?」


「それなら、今夜うちに来ませんか?」


「えっ? いいんですか、お邪魔しても」


「えぇ、心配させてしまったみたいですし」


「行きますっ」


「ふふっ。それなら、

 今夜7時にここで待ち合わせるというのは?」


「わかりましたっ、7時にっ」


「えぇ」


「それと、敬語やめませんか?

 何だか、余所余所しいというか、

他人行儀というか……」


「分かりました……あっ」


「ははっ。

 いきなりは中々ですよね……あっ」


「ふふっ。

 お互い、時間がかかりそうですね」


「確かにっ。

 まぁ、気長にいきましょう。

 じゃ~、行って来ますっ」


「気をつけてっ」


手を振って見送ってくれている彼女が

たまらなく愛おしく想えた。

夜ごはんがこんなに楽しみなのは

いつぶりくらいだろうか。

雲の上に居るような気分で会社へと向かった。


 こんな特別な日に限って

お約束のように残業になった。

ウキウキが一転ソワソワに変わった。

時間が経つにつれ

ソワソワがイライラに変わり

約束の時間に間に合わないと

分かった時点で電話を掛けた。

すると彼女は、想定内と言わんばかりに

あっさりと快諾してくれた。

先に家に帰って支度をしておくとのことで、

マンションの下に着いたら

電話するよう言われた。

彼女の声を聞いた安心感からか

イライラがワクワクに変わって

その後の残業も効率よくこなせた。


 彼女のマンションの下に着いたのは

結局、8時半を過ぎた頃だった。

言われた通り電話を掛け、

オートロックを解除してもらい、

エレベーターで部屋のある最上階まで昇った。

部屋の前に着きチャイムを鳴らすと、

中から小気味良い返事が聞こえ、

ものの2秒程度でドアが開いた。


「おかえりっ」


「たっ……ただいまっ」


まるで、夫婦か同棲カップルのようで、

凄くうれしい反面、

むずがゆい恥ずかしさがこみ上げた。


「遅くまで、ごくろうさま。

 さぁ、どうぞ上がって」


「ありがとうっ。

 おじゃましますっ」


「そこのソファーに腰掛けて寛いでて。

 もうすぐ出来るからっ」


「何か手伝うよ。

 カナエさんだって働いてるんだから。

 ボクも自炊なんで、少しはできますよっ」


「ありがとっ。

 でも、今日はゆっくりしてて」


「じゃ~、何かあったら

 呼んでくださいねっ」


「えぇ、そうさせてもらうわ」


そんな夫婦みたいな会話に、

思い切り妄想が膨らんで一人にやついていた。

料理をしている彼女の横顔が見えた瞬間、

例のあの夢が一瞬、脳裏を過ぎった。

次の瞬間、考える間もなく口を突いて出た。


「カナエさんとサナエさんて、

もしかして双子ですか?」


「えっ……。

 そうよ、何で?」


その瞬間、キッチンから聞こえていた

小気味良い音がぱたりと消えた。


「ボクは覚えてないんだけど、

 カナエさん、もしかして

 ボクのこと……」


「…………。

 えぇ、知っているわ」


この時、核心に触れたことに気付いた。

暫くの沈黙の後、

キッチンから彼女が話し始めた。


「思い……出したの?」


「ううん。

 思い出したんじゃなくて、

 気になったことがあって。

 おふくろに聞いたんだ。

 ボクが小さい頃、面倒を見てもらっていた

 双子のお姉さんがいたこと。

 そのお姉さんのことは

 ボクも覚えていたけど

 顔だけが思い出せなくて、

 双子だということも覚えて無くて……。

 カナエさんの名前と

 妹さんの名前もサナエさんってのが

 一緒だから、もしかしたらと思って……」


「そう……。

 じゃあ、ゆうくん、溺れたことも?」


「うん、聞いた……。

 全く実感ないけど」


「ごめんね。

 あの日、私が誘いさえしなければ、

 あなたにあんな心の傷を

 負わせることも無かったのに」


「そんな……。

 カナエさんのせいじゃないよ。

 あれは事故だったんでしょ。

 しょうがないよ」


「でも、

 あなたに恐怖を植え付けてしまった。

 記憶を閉ざすほどの恐怖を……」


「それは、今のボクにはわからないけど。

 でも、今こうしてボクはここにいる。

 元気でやっているよ。

 それに

 ボクはカナエさんのお陰で助かったんだよ。

 カナエさんに命をもらったんだ」


「そんなことないわ。

 ワタシが誘わなければ

 あんな事故が起きる事もなかった」


「カナエさんは

 あの日からずっと苦しんでいるんだね。

 今も……自分を責めてるんだね……。

 ボクはあの日、あの瞬間に現実逃避した。

 本能で逃げたんだ……たぶん。

 それに比べたら

 カナエさんは強いよ……。

 向き合って、もがいて、

 それでもこうしてここにいる。

 少なくとも自分に負けてはいないよ。

 それに……」


といいかけた時

玄関の鍵が空く音がした。


「ただいま~っ」


「……おかえり」


「!!!っ」


「!!!っ」


「ゆう……き……?」


「サナエ……さん……?」


「えっ、何でなんでっ?

 ん?

 まさか、カナエのデートの相手って」


「えぇ、そうよ」


「……」


「きゃ~、運命じゃ~んっ。

 何で黙ってたのよぉ~」


「運命?」


「そうよ。

 ある占い師が言ってたの。

 カナエが自分と向き合えるような

 運命的なヒトに出逢えるって。

 しかも近いうちにって」


「大袈裟だよ。

 それに、占いなんてワタシは……」


「今は信用してるくせに~」


「……」


「ゆうきっ元気だった?」


「うん」


「近くに住んでるんでしょ?」


「?」


「カナエが全部教えてくれるんだよ。

 しかも、今までに無い位

 嬉しそうに話すから

 どんなヒトなのかと思って。

 今夜逢えるのを楽しみにしてたのよ~」


「はは……」


「もうっサナエったら

 やめてよ~」


「で……。

 何で二人とも目が赤いの?

 もしかして思い出話に涙してたとか~。

 きゃははっ、かわい~」


「そうじゃないわよ。

 ゆうくんは覚えてないの」


「ボクは、

 あの事故の記憶がまだ思い出せなくて」


「それで、私のせいだ、僕のせいだって

 話してたんだ?」


「ま……まぁ」


「もういいじゃないっ、そんな昔のこと。

 今、こうして再会できたんだし。

 元気そうだし。

 そんな染みったれた話はやめて

 お祝いしましょ。

 買ってきたよ。

 お~さ~けっ」


「もうっ」


さっきまでのネガティブな空気が

一瞬にして変わった。

ボクはかなり救われた気がした。

サナエさんは、

買い物袋の中身を片付けながら続けた。


「カナエはね、

 高校の時、競泳をしてたんだよ。

 因みに、私はバレー。

 カナエは泳ぐのが凄く好きでさ~

 県下じゃちょっと有名だったんだよ。

 私も、カナエが泳ぐ姿が好きだった。

 私と一緒で胸が大きかったから

 男子の応援が凄かったんだから」


その言葉に二人の胸に目がいった。


「こらっ、ゆうきっ。

 おっぱい拝むのは10年早いっ」


「あっ、えっ」


「ゆうくんのえっちっ」


「えっちって……ははっ」


「そうか~。

 あんなかわいかったゆうきも

 女の裸に興味を持つ年頃になったか~」


そんな年頃、当の昔に迎えましたなんて

言える雰囲気じゃなかった。

因みに、おふくろのサナエさん情報は

『バ』しか合ってなかった。

記憶とはそんなもんだ。


「でもカナエ、

 あの日以来、泳げなくなってしまって

 あの頃は見るほうも辛いくらい

 塞ぎこんでた」


「……」


「違うのっ

 誰のせいでもないの。

 あの頃のワタシが

 ワタシ自身を超えられなかったの。

 両親やサナエにも

 沢山心配かけて支えられてきたのに

 乗り越えられなかった自分が

 許せなかったの……」


「カナエ……」


さきほどの雰囲気がまた戻りつつあった中

サナエさんが自分の部屋へと消えた。

直ぐに戻ったサナエさんの手に

アルバムが握られていた。


「ほいっ、ゆうき。

 あんたの小さい頃の写真だよ」


そう言って手渡してきた小さなアルバム。

テーブルの上で開くと

いきなり見覚えのある風景が

ボクの中に広がった。

消されていた記憶の中のお姉さんの顔が

鮮明に蘇った瞬間だった。


完全に……思い出した……

今まで見ていた夢は

ただの夢ではなく

現実にボクの身に起きた記憶の片鱗だ。

あの日、カナエさんに公園に誘われ

サナエさんと3人で遊びに出かけた。

あれが、確か15日。

公園の売店で

イチゴの日のカキ氷を食べたいと

せがんだのを覚えている。

公園で一通り遊んだボクらは

そこにある大きな池で

ボート遊びをすることにした。

確か泳ぎが苦手だと言っていたサナエさんは

乗り気じゃなかったが、

ボクがせがんだせいで乗ることになった。

池の真ん中らへんに着き

3人で岸を眺めていた。

いつもと違う視線と光景に

ボクは目を奪われていたのを憶えている。

そんな瞬間だった

いきなりボートに衝撃が襲い掛かった。

すぐに

ボートがぶつかってきたことがわかったが

その時には、みんな池に放り出されていた。

水面でもがいていたボクは、

襲い掛かる水と底なしのような水中に

恐怖のあまりパニックになっていた。

空気の変わりに水を吸い込み

水の中でどこが水面なのかもわからず

真っ暗な闇に飲み込まれるかのように

意識が遠のいた。

そうだ、ボクはあの時、溺れたんだ。

虚ろな意識の中

水を滴らせた黒髪がボクに近づき

覆いかぶさった。

何回も近づき遠ざかるその黒髪から

必死な目が見え隠れし

ボクを呼ぶ激しい声が聞こえた。

そうか、この記憶があの夢……。

ただの意味不明な恐怖ではなく

恐怖から引きずり出された

記憶だったんだ……。

皆が心配していた通り、ボクは溺れた恐怖で

記憶を封印していたんだ。

その際、お姉さんの記憶も一緒に……。

あの頃のいいようもない恐怖が

心のどこかに根付いた。

お姉さん達との記憶とともに……。

でも、不思議と心地よかった。

心の隙間が埋まった気がした。


「思い出せたよ……やっと

 やっとカナエさんとサナエさんに逢えた。

 記憶の中の

 大切な思い出のお姉さん達と……」


「大丈夫っ?」


カナエさんが慌ててボクを覗き込んだ。


「カナエさん……、大丈夫だよ。

 全部思い出したけど、

 たぶん……、いや、きっと、

 乗り越えられると思う」


「そう……良かった……」


「カナエっ。

 あんたもきっと大丈夫っ。

 また泳ぎたくなるよ。

 あの泣き虫ゆうきが、

 こんな男前になったんだ。

 カナエだって変われるよきっと」


「えぇ~、泣き虫だったのボク?」


「アルバム見りゃ~わかるだろっ。

 泣いてるとこか、泣き止んだ後か、

 どっちかの写真ばかりだっ。

 これ以外はなっ」


そう言って最後のページを開くと

笑顔で3人でスイカをほおばる写真だった。


「これ、覚えてる……。

 この後、3人で種飛ばしして遊んだとき、

 サナエが種を飲んだって、

 おしりから芽が出るって大騒ぎしたよね」


「覚えてる覚えてるっ

 でっ生えて来た?

 スイカの芽?」


「生えるかっ

 アホかっ」


「ふふっ」


「ははっ」


「笑うな二人ともっ。

 そんな付き合ってる二人に

 残念なお知らせだっ。

 二人ともお忘れだろうが

 ゆうきのファーストキッスは

 ワタシがもらっちゃったという事実をっ」


「えっ……」


「あれは人工呼吸ですっ」


「あ~、今思い出すだけでも

 唇の感触が……」


「もうっやめてよサナエ。

 ゆうくんも困ってるじゃない」


「ははっ」


「冗談よっ、冗談っ」


サナエさんの付き合ってるという言葉を

カナエさんが否定しなかっのが嬉しかったが

ちゃんと改めて申し込もうと思った。


「でも不思議だね……。

 ゆうきがカナエにくれた

 あの花の花言葉。

 ぴったりじゃん」


「サナエ知ってたの?」


「あったぼ~よ~。

 こう見えても女子だからね~」


「ははっ、

 ボクもカナエさんに教えてもらうまで

知らなかった……」


「はあっ?」


「いやっ、花言葉をだよっ」


「そっちかっ。なら許すっ」


「ふふっ。確かに、

 偶然にしては出来すぎてるわね……。

 私も、泳ぎたくなる日が

 くるような気がする。

 いつの日か……きっと……」


その晩は、3人で食べて呑んで

昔話に花を咲かせた。

泣き上戸なサナエさんに、

笑い上戸なカナエさん。

すぐ眠くなるボクは何度もたたき起こされ

強制的に楽しい夜を過ごした。

酔った勢いもあり

15日にカナエさんが何をしてるのか聞いた。

カナエさん本人から

墓参りに行ってる事を教えられた。

しかも、あの日から15年間ずっと欠かさず。

大好きだった祖父母の眠る墓に

花を供えに行っていたということだった。

ただ、その15日というのは

やはりボクを思ってのことだった。

ボクを見守ってくれるように

祖父母にお願いしていたと……。

15日という日はそれほど

カナエさんの中で大きな転機だったと

思い知らされた。

そんなカナエさんを

心の底から支えていきたいと思った。


後日、ボクはカナエさんに

正式に交際を申し込んだ。

こうしてボクの2度目の初恋は

15年という時を経て

本当の初恋のまま実った。

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