もう一人の僕
背中が、痛い。
ゴツゴツと固い感触に顔をしかめつつ目をさますと、そこは森だった。生い茂る数々の葉の隙間からは、真っ青な空がのぞいている。空気はひんやりと湿っており、風はない。穏やかな日和だった。
ゆっくり身体を起こすと、辺りを見渡す。あれは、湖だ。その瞬間、自分の身に起こったことを理解した。そして呆然とした。
なにが最高傑作だ、勝手に動くなんて聞いていないぞ。
しかし、動かないとも言ってはいなかった。これは思わぬ事故だ。誰にも非はない。とりあえず立ち上がって、白い点を探してみる。首をあちこちに向けても、手を振り回して感触でもって探してみても、ない。どこにもない。
これでは、諦めるのが早いだろう。
ひとまず湖を眺め、人がいる方角を考えた。獣道のようなうねうねと曲がりくねった細道を、歩き始める。身体にまとわりつくようなしっとりとした空気が、僕の好みだった。
しばらく歩いていると、ガサガサッと近くの森が揺れた。次いで、声が聞こえた。
「あっ……やっぱり、人だよ」
そうして、茂みの中からぴょんと跳んで現れたのは……僕だった。
「困ったな。いったい、なぜこの森に迷い込んだかな、君は?」
目の前に突如姿を現した僕にそっくりの人は、少しばかり高い声で言った。腰に手を当て、怒っている様子を表している。
「なぜと言われたって、説明したら少し長いのさ。それより、君はまるで、僕とおんなじ出で立ちじゃ
ないか、名前を聞いても、いいかい?」
「僕か? 僕はリュオさ。名前なんてどうだっていい、君のことだよ。出会ったことのない人だ。どこから来たんだ?」
「どうだってよくはない、顔がまるで同じなんだから。リュオだね。僕はリュウ。名前も似ているなんて、なんて紛らわしいことだろうか」
「君と話してちゃ、埒があかない。来たまえ、服が汚れている、お茶くらい出すよ」
そう言うが早いか、リュオは僕の手を引いて駆けだした! それはもう、速くって、引きずられるようにしてただついて行くだけだった。
やがて、こげ茶の木でできた小屋が現れた。ぽっかりと木の生えていない広場のような場所の真ん中。普通の家の半分くらいの大きさだ。
「さあ遠慮はいらない、上がってくれたまえ。いま、お茶をいれよう。座って、座って」
リュオはそうやって僕を急かした。こっちの世界の僕は、随分なせっかちだった。
小屋の中は、やわらかな光にあふれ、とてもあたたかかった。なんだか落ち着く木の匂いに、初めて来た世界だということも忘れて、すっかりくつろいでしまった。
やがて、コトリとテーブルの上に置かれたカップには、黄金色が輝いていた。一見紅茶に見えるが、香りはもっとフルーティだ。
「簡単なハーブティーだけれどね、口に合うといいな。おばあが作ったクッキーもあるからね」
小屋の中いっぱいに、ふんわりと甘い香りが漂う。思いがけず空腹を自覚してしまう匂いだ。リュオはこの中でいつもを暮らしているのだろうか。
「それで、君は僕にそっくりだが、いったいどこから来たんだろう。分かるかい、君を初めて見たときの僕の驚きようったら」
おしゃべり好きらしいリュオに話を何転もされながら、ようやく事の経緯を説明すると、目を大きく丸くして、うむうむと頷いた。僕はこんなことをしない。きっと、世界が違えば人は、どんな風にでもなれるのかもしれない。
「それじゃ、戻れなくなったのかな、困ったね」
「いいや、まだ分からないのさ、それが。博士は、同じ原理を用いれば、と言っていたが、原理のことを説明しないうちにいなくなってしまったからね。機械からのお呼び出しさ」
「君は、どこから来たと言ったかな。同じ通り道というのが、近道じゃあないか?」
「そう、僕も思ったのだがね、見つからないのだ。白い、こんな小さなボールみたいなんだけれど。ないのだよ、ここいら辺には」
「しかし、世界中を探すわけにはいかないだろう。どうするんだい、戻るためには」
「それを考えているんだよ」
それから日が暮れるまで、森を簡単に案内してもらいながら、リュオと議論したが、どうしたら戻れるものかと、答えは見つからなかった。一向に、分からないままだった。
小屋の屋根にのぼって、夕焼けを眺めた。こちらでは、真っ赤な太陽が見えている方角が東の空にあたるらしい。美しい自然の為す芸術を見つめながら、僕は家族を思った。
リュオと彼のおばあさまと、夕食を食べた。美味しいシチューは、寂しさと不安に冷え切った身体を、優しく包み込んであたためてくれた。根拠もなく、大丈夫と思った。
星がよく見えるベッドを貸してくれて、滑らかな手触りの絹のシーツに包まれながら、僕はいろいろのことを考えた。星はちろちろと光を放つだけ。見守ってなんかいないのだ。僕は一人。きっと、二度と家族には会えない人生だ。
僕は泣かなかった。悲しくはなかった。まだ、希望がゼロと決まったわけではない。リュオと一緒に暮らすのだって、楽しそうじゃないか。家族や博士は恋しい。とてもとても、会いたい。しかし、新たな人生をここから始めるのも、悪くはない。そういった道も、ある意味では面白そうだ。
やがて眠りについた僕は、夢をみた。博士が何かを叫んでいる。どんなに耳をすませても、必死の博士の声が、うまく聞き取れなくて、もどかしくて、たまらない夢……目がさめると、びっしょりと汗をかいていた。
窓には、コバルト色の空があった。隅のほうが白んできている。もうすぐ朝だ。
ゆっくり身体を起こすと、リュオとおばあさまが身を寄せ合って眠っていた。幸せそうな二人の寝顔に、つい見とれる。時間は穏やかに流れる。
そのとき、窓から光が差して、二人に顔を照らし出した。
天然のスポットライトの中に浮かび上がる、幸せの二人。どこか懐かしさをおぼえた。僕はこの光を、きっと知っている。
光――。
博士の声が聞こえた。夢の中で叫んでいた、博士と重なる。博士は僕に、伝えようとしている。きっと、意味がある。
リュオが目をさますまで、僕は一人で悩んだ。いかにして帰れようか。光、光、光……




