さよならは、ダンスで
ジョゼが踊ったのはデビュタントのうちの一人だったと、レミエが教えてくれた。カリーナじゃなかったことに安心したと同時に、気を使われてしまったのかと不安に思った。
自分は、どこまでもジョゼの負担になっている。
最初にジョゼの告白を受け入れたとき、雪加はジョゼと一緒に歩む未来を想像できていた。それは違ったのだと勝手に思って、ジョゼを拒否した日々は、雪加からジョゼと共に歩む未来を消し去っていった。
ジョゼの未来はどんなものだろう。その隣に立つ人に、どんな風に笑いかけるのだろう。雪加に向かって困ったように、窺うように笑顔を向けるのとは違う種類の笑顔を想像した。
ジョゼの隣に立つ人は、いつか子どもをその腕に抱く。時間がたてばその子は、歩いて、走って、庭を駆け回る。雪加は、きっとそれを窓越しに眺めているだろう。
誰かの笑顔、誰かの笑い声にむしばまれていく自分を想像して、自分を抱きしめた。
その時、雪加は逃げ出さずにいられるだろうか。
涙がまた落ちてくる。こんな泣き虫になるつもりなかったのに。封印していた時は、涙をこらえる必要なんてなかった。泣き虫と自分を罵る必要もなかった。悲しい気持ちも、嫌な想像もすべて封印すれば、それで済んだからだ。
レミエにお願いして、雪加は一人になっていた。満月を一人で見上げて、感傷に浸りたかったわけではない。
ろうそくを灯した部屋で、一人で泣いていたのは、そうすれば少しだけでも強くなれる気がしたからだ。一人で生きていたころのように、強くなりたい。泣き虫でもいいから、一人でも立ち上がれるようになりたい。
レミエはずっと雪加のそばにいてくれるわけじゃない。雪加が、誰かの笑顔、誰かの笑い声にむしばまれていく時にずっとそばにいてくれるわけじゃない。レミエにはレミエの人生がある。
だから、雪加は強くならなくちゃいけないのだ。
「コンコン、」
タイミングを見計らってレミエが戻ってきた。一人で強くなりたいと言いながら、雪加は一人ではまだ立ち上がることができないことを自覚していた。それは、レミエにもわかっていた。だから、戻ってきてくれたのだ。
雪加は涙を乱暴に手の甲で拭った。泣いていたことを誤魔化すためではなく、前をむくために。後ろからハンカチが差し出されて、雪加は息を吐きだしながら笑った。
「レミエ、ありがと、」
振り返りながら受け取って、その手がレミエのものよりも大きくて厚いことに気付いた。
「っ!」
「雪加、」
低くて包み込むような声。雪加は慌てた。昨日、ダンスパーティーがあって、それで今日はその後処理に追われていて忙しいようだと聞いた。彼は、それでなくとも、ここには寄り付かないのに。雪加は、いつもジョゼの後ろに控えていたカリーナの姿を探した。
ろうそくの灯りのもとでも、さすがに雪加が泣いていたことは分かるはずだ。特に、同性には。カリーナには知られたくない。小さなプライドが、ずたずたになりそうだった。幸い、姿は見えなかった。
「っと、どうか、されたのですか。何か、ご用が?」
「雪加、泣いていたのですか?」
渡されたハンカチで慌てて、目元をぬぐう。泣いていたことは知られたくない。ジョゼは、雪加が面白可笑しく暮らしていると思っているのだ。なら、そういう風にふるまって、困らせないようにしたい。これ以上、煩わせたくない。
「泣いてなんて、いません。これは、その、目にゴミが入って。レミエに、目を洗う水を頼んでいたところで、」
自分で言ってて、なんて古典的な言い訳だろうと思った。騙されてくれればいいと思いながら、まるで騙されないでと望んでいるような言い訳に自分で自分が嫌になる。同情されて、一緒にいてもらえれば、いいなんて、そんな自分が本当に嫌いになりそう。そのくせして、本当は同情以上のものをほしがっているくせに。
「どうして、泣いていたのですか。私に教えてください。あなたの憂いは全て取り払いたい。」
「本当に、泣いてなんて無いです。ここはとても快適です。困っていることなんて何もありません。」
何もない。困っていることも、悲しいことも。それと同じように、嬉しいことも、楽しいことも。ここには何もない。
だから、ここに来なくていい。ジョゼを楽しませたり、笑顔にできるものはここにはない。来てもらっても、何もない。二人で使えないことを悟ったとき、雪加はそう自分に言い訳をすることに決めた。
ここは快適だし、雪加にとっては良い場所だけど、ジョゼにとっては面白みのない場所だ。雪加のための場所であって、ジョゼのための場所ではない。だから、ジョゼが来ないのは仕方がないことだと思うことにした。
「ジョゼ様、何か、ご用があったのでしょうか。レミエも今は席をはずしております。私では対応できないかもしれません。できたら、レミエも居る時に、もう一度、来ていただけますか。お時間がなければ、私がそちらに伺います。」
そう言ってから、母屋に行くのは迷惑かもしれないと、雪加は慌ててレミエを遣いに出しますと、訂正した。そこでやっとジョゼが立っていることに気付いた。夫が立っている時に、妻は座っていていいものなのだろうか。今すぐ『善き妻のすすめ』を読み返して、調べたい。席を薦めるべきなのだろうか。そうしたら、まるで、もう少し一緒に居てくれと言っているようなものだろうか。
困り果てて、雪加は立ち上がろうとした。そうすれば、失礼には当たらないだろうから。でも、その気配を察知したジョゼが片手で制し、座っていいか尋ねてきた。やっぱり、薦めるべきだったんだ。
先ほどまで泣いていたせいで赤くなっていた顔は、たぶん今、すごく血の気を失っていることだろう。
「あの、すみません。お席も薦めず、失礼いたしました。」
こんな時、レミエならもっと上手に言えるだろうに。雪加は、小さくなって、このまま無くなってしまいたいと思いながら、体を小さく丸めるようにした。
「そんなこと、雪加は気にしなくていい。雪加、私はただ、本当にあなたがあなたらしく過ごせることを望んでいるんです。こんな風に、泣かせたい訳じゃない。あなたの望みがあるなら、叶えて差し上げたい。だから、教えていただきたいのです。」
雪加は、背中を丸めてはいけなかったのだと、背筋をぴんと伸ばした。気を使ってもらっている。あんなふうに眠りについたりしたから、ジョゼは雪加を気遣っている。それでなくても、優しい人なのに、負担をかけているようだった。
「望みなんて。十分よくしていただいているのに、これ以上は。むしろ、ジョゼ様の望みがあるのなら、それに沿えるように頑張りたいと思います。」
「雪加。」
頑張るという言葉は良くなかったかもしれない。雪加と呼ぶ声が少しだけ、困っていたから。あ、とか、う、とか口ごもる言葉を吐いてしまってから、雪加はいけないと唇をかんだ。
「もし、雪加が一人でここで過ごすのが嫌だと思っているのなら、母屋に戻っていただいても構いません。夕食も、負担でなければともに摂りましょう。」
母屋に戻ってもいい。それを聞いて、雪加は少しの間だけ心が躍った。それから、また、沈み込んでいった。さすがに、ずっとカリーナとの関係を見せつけられるのは辛いものがある。
「で、も、それは色々と、都合がお悪いのでは。移ったばかりなのに、戻りたいだなんて我が儘を言ってはいけないかと。」
「そんな、我が儘だなんて。私は自分の我が儘で妾を取らないことを選んでしまった。あなたの小さな望みなど、それに比べたら、」
「えっ?」
でも、カリーナは。そこまでつぶやいて慌てて唇を手で覆った。聞いちゃいけないことだ。妻たるもの夫の愛人に口出ししてはいけないと、『善き妻のすすめ』にだって書いてあった。
「カリーナ?あれは、私の仕事を手伝っているだけで。私は、妾など取っていません。もしかして、気を使って?」
「あの、いえ、違います。」
なんとなく、首を横に振って、否定してしまった。
「あなたが泣いていたのは、そのせいですか?ここに移ったのも、私が妾を取ると思ったから?」
雪加はうつむいたまま、なるべくジョゼを見ないようにしていた。こんな会話を思い出の一つに数えるようなみじめな思いをしたくなかったからだ。
「ここには移りたくなかった?」
その問いかけに、雪加は思い切って首をたてに振った。
「すみませんでした。私が、勝手に、判断して、あなたを苦しめていたようだ。」
その言葉に今度は慌てて首を横に振る。違う、謝ってほしいわけじゃない。悲しませたいわけじゃない。やっぱり、雪加は笑って過ごしていることにしなきゃいけなかったのに。
後悔でいっぱいになって、頭がふわふわするくらい首を何度も振った。
「ダンスの練習もしていたと聞きました。」
今度は顔から火が出るかと思うぐらい恥ずかしくなって、顔を伏せた。こんな妻、ダンスパーティーなんかに呼ばれるはずないのに、思い上がって練習なんてしていたことを知られてしまった。話したであろうレミエを後で、とっちめてやると思いながら、雪加は首を横にわずかに振った。
本当に恥ずかしい。何もできないくせに、ダンスパーティーの用意も、何もかもできないくせに、ダンスだけ踊ろうとしてたなんて、笑われてしまう。雪加は、もう一度小さく首を振る。
「あなたの負担になりたくなくて、お呼びしなかった。でも、本当は、」
「違うんです!」
雪加はジョゼの言葉を聞きたくなくてさえぎった。本当は呼びたかった、なんて嘘でも言われたら舞い上がって、そしてみじめになる。
「お呼ばれしないことは薄々、分かっていました。何もできませんもの。呼ばれてもマナーもなっていない私が、公爵家の恥になることもわかっています。デビュタントよりも、何も知りませんから。だから、その、ダンスは別に、出ようと思って練習していたわけではなくて、いつか、踊る機会があったら楽しいと思っただけで。」
興味のあることしかやっていない。そう振る舞わなければ、ジョゼの望む雪加になれない。雪加は、慌てて言い訳を並べ、連ねた。話せば話すほど、自分の拙さをさらけ出しているようで、嫌になる。もっと上手に話して、もっと夫を立てなければならないのに、自分には何一つできない。
出て行ってと言えば、ジョゼの望む自由な雪加のように振る舞えるだろうか。一緒にいてと願ったら、無理していると思われてしまう。雪加の望みは後者だけれど、雪加が何かを正直に口にすれば、ジョゼは謝ってしまう。謝らせたい訳じゃないのに。
どうしよう。どうすれば、上手にふるまえるだろうか。どうすれば、ジョゼの望む雪加に沿えるだろうか。
「それなら、踊りませんか。」
「え、」
「踊る機会を、今から作りませんか。」
「でも、その、私、ワルツしか、」
「ワルツが出来れば十分ですよ。ほら、」
そう手を伸ばされて、雪加は、迷った。困らせていないか、窺うように見つめると、ジョゼは微笑みを浮かべた。
自由な雪加は、踊りたいと口にするかもしれない。昨日は、踊れなかったけれど、ジョゼと踊れるならいつだっていい。音楽だって、なくたっていい。
雪加は伸ばされた手に手を重ねた。大きくて厚い手。いつも雪加を守ってくれた手、雪加のために血に濡れた手を隠して、笑って、守って、囲い込んで、決して傷つけないように。
体の大きさも、声の低さも遠い過去にならないように、今だけでも手の届くところに。
雪加は踊りだした。手を取り、習ったように。でも、それだけじゃなくて、くるりと雪加を回す大きな手がいつでも思い出せるように、笑った。
笑えば、笑い返してくれる。それが、どんな感情なのか、雪加にはもう分からなくなって久しいけれど、自由な雪加はそれを気にしないようにした。
鼻歌を歌いながら、ワルツを踊る。練習よりも胸が高鳴って、もう一度、もう一度とねだって、最後は、密着するように体を寄せた。
ぎくりと震えたことに気付かぬふりをして、笑って鼻歌交じりにもう一度くるりと回った。
ふわりと広がるスカートは、雪加の世界が小さいとあざ笑うかのようだったけど、雪加はそれで満足できた。小さな世界で十分だった。その世界の中だけは、雪加の自由にできる。
その小さな世界の中だけでは、雪加の隣に一瞬、ジョゼがいてくれる。
「雪加は歌が上手ですね。」
鼻歌しか歌っていないのに、分かるの?そう笑って、今度は歌を聞かせてあげるとつぶやいてから、その時が本当に来るかは分からないけれどと付け足した。
三度、踊れば、小さな世界は終わりを告げる。
雪加は重ねた手に、さよならを告げるように、跳ね上げて、習いたての淑女の礼をした。
「また、踊ってね。」
またの機会が来るかはわからないけれど。そう付け足すことは忘れなかった。
傷つくのは嫌だった。傷つけるのは嫌だった。
二人の間にあるものが、なんだかわからなかった。だから、そう言うしかなかった。
二人の間にあるものは、なんだか分からなかった。でも、雪加のそれは、なんだかわかる。
それは紛うことなく『好き』だった。




