目覚めた聖女、眠る魔女
ジョゼの瞳の色は何色だっただろうか。閉じたままの瞼を見つめて、その色を思い出そうとしたけれど、思い出せそうになかった。
そんな風にずっと眠っていたら、目が溶けてしまうわ。
雪加はそう思ったけれど決して口にはしない。雪加の声はきっと届きはしない。雪加はたくさんの思い出を語ってあげられるほど、思い出に心を満たされていない。
レミエには、ジョゼが雪加を覚えていなかった時のことを考えておけと言われた。もちろん、ジョゼは、ちゃんと書面にまで残して雪加の今後を守ろうとしていた。でも、それでいいのか、わからない。
自分を思い出さない夫と、自分を結ぶ紙切れ一枚に、なんの効力があろうか。
ジョゼが眠って2日だ。3か月という長い時間を、彼はどんな思いで過ごしたのだろう。
一言も話さず、座っていた雪加は、夫の気持ちを想像した。雪加の中にあふれたあの光の粒が本当なら、自分が思い出したあの記憶は何なのだろうか。夫と王太子殿下の会話は、雪加の心を閉ざすのに十分だったはずなのに。
「ねえ、ジョゼ、教えてよ。」
ちゃんと、教えて。あなたの気持ちを。ちゃんと、教えて。私はどうすればいいのか。
ちゃんと、教えて。私はここにいていいの。ちゃんと、教えて。さよならの仕方を。
「……っ、」
瞼がわずかに震える。雪加は、おびえたように立ち上がり、すぐに呼び鈴を鳴らした。助けてほしくて、何度も鳴らす。
「どうしたの、そんなに……っ、」
「聖女殿!お、え、お目覚め?」
ゆっくりと瞼が上がりそうになるのが見える。まだ、心の準備ができない。逃げ出すために、扉に走り寄ろうと一歩下がると雪加をレミエが後ろから逃げられないように抑えた。
「レミエっ!」
「逃げたって同じでしょ。」
逃げ回って、あんたは心を閉ざした。逃げ回って、あんたは殻に閉じこもった。
それは、楽なことだったけど、でも正しいことじゃなかった。今のあんたなら、分かる。今の雪加なら、逃げないで受け入れられる。
「そんなに、心配しなくても大丈夫だよ。」
「あんたは、黙ってて!」
ゆっくりと瞼が上がっていく。すくみ上るほど、怖かった。
何度か繰り返される瞬き。そこだけ時間が切り取られるみたいにゆっくりと流れていて、雪加の時間は止まってしまったみたいだった。
時間の流れはゆるやかで、こちらを向くために動き出した瞳も、体も、遠く離れているようだった。まるで、心の距離のように。
目と目があった。そうだ、ジョゼの瞳の色は青色だった。それも、宝石のようにキラキラしていて、いつも雪加を見守ってくれて、悲しみからも孤独からも守ろうとしてくれた。
いつの間にか、その瞳を見つめることを雪加は拒否した。あの青い瞳を見ることが、雪加には苦痛になった。同じ方向を見つめようとした。でも、雪加はそれを拒否した。同じ方向なんて見るものか、その瞳を見つめることなどあってたまるものかと。
でも、その瞳は雪加が拒絶したところで、いつもいつでも、雪加を守ろうとしてくれた。
「じょぜ、」
もし、雪加があの時、それでも未来を信じたら、今は変わっていたのだろうか。
後ろにまた、一歩逃れようとした瞬間、唇が動いた。
「雪加」
かすかに空気を震わせて、その声は確かに雪加を読んだ。
「っ、」
トンと背中を押されて、雪加は起き上がったジョゼに、加減せずに飛びついた。
「わっ、」
「ジョゼ様!」
体の大きさ、温かさが懐かしいくらいに遠い記憶になっていた。雪加の遠かった心は、光の泡で満たされた。でも、ジョゼの心はどうだろうか。
「雪加、雪加、よかった。目覚めて、よかった。」
眠っていたのはあなたよ。三月も眠っていたくせに、たった二日が耐えられなかったなんて、口にはできない。でも、耐えがたいほど、恐ろしかった。
もし、ジョゼが雪加を思い出さなかったら。雪加は再び、あの暗い海の底に閉じ込められたような感覚に襲われただろう。
雪加は青い瞳を見つめた。もう二度と、見るものかと思った青い瞳。深くて暗い水の底とは違う。記憶よりもやつれた頬、やせてしまった体が、雪加の知らない3ヶ月の証明のようだった。
「ね、だから言ったでしょ?」
空気を読まないマーカスの言葉に、雪加は振り向いた。
「ジョゼは、絶対、忘れないよ。だって、聖女殿が、ジョゼを呼んだもんね。」
「どういうこと。」
「聖女殿が、目覚めたときに一番最初に、ジョゼって呼んだでしょう。ぎりぎり、ジョゼに聞こえてたから、目覚める標になったわけ。聖女の力は凄まじいよね。もしくは、ジョゼの聖女殿への執着って言えるぐらいの愛情のなせる業かもしれないけど。」
雪加は、ジョゼに抱き着いていた手を緩めて、ゆっくりと離れた。自分が、ジョゼにしたこと、自分がジョゼに望んだことを思い出していた。
離れた雪加の手をジョゼはじっと見つめている。
でも、その手を追いかけてはこない。胸がツキリと痛んだ。呼吸が浅くなって、封印したくなって、雪加は首を振った。だめだ、封印したら。
こんな風に胸が痛むのは、罰なんだ。
安堵したように、二人を置いてマーカスとレミエは出て行ってしまった。でも、二人の間に流れる空気は、呼吸がし辛いほど酸素が薄い。
雪加はゆっくりと、ひっこめた手を握った。ジョゼは選定に入って、もう、女性を決めていたと聞いた。もし、その人との未来を考えていたら、どうしよう。
もし、その人との未来を望まれたら、雪加はどうすればいいだろうか。
『信頼』という言葉を振りかざした雪加に、それを反対することはできない。ジョゼが望むなら、叶えてあげるべきだ。
ジョゼの望みを、すべて叶えてあげたい。
それが、『贖罪』ではなく『好き』という感情に裏打ちされていることを雪加はわかっていた。
言葉を交わさずに、雪加はゆっくりとベッドを降りた。
ジョゼはじっと雪加を見つめていたけれど、何も言わなかった。
ゆっくり休むように、何とか言葉を絞り出して、部屋を出た。笑顔でなんとか話せた。雪加は、抱き着いてしまったことをひどく反省して廊下を足早に歩いた。




