アイリスの花、神様のため息
ちゃんと起きて待っていたのに、結局レミエは雪加のことを引っぱたいた。どんだけ心配させるのか、どんだけみんながあんたの心配したと思っているのと涙声で詰め寄られると、ごめんとしか言いようがなかった。
「えっと、それで、ここどこ。」
「ジョゼ様の領地。王都から大体2日の距離にあるマイスネル領。」
「え!なんで、そんなところにいる訳?いつの間に移動したの?」
「1月前。」
「え?」
「あんたはかれこれ3ヶ月ずっと眠ってたの。」
引っぱたかれた本当の意味を知って、雪加は、ごめんともう一度つぶやいた。
今度は本当にそう思った。
「まあまあ。そう、怒らずに。」
「これが怒らずにいられるわけ?」
怖いもの知らずのマーカスに対して、レミエは崩した口調を使った。雪加の知らない3ヶ月がここにあるのかもしれない。
マーカスに詳細を説明するように言われて、自分が居た場所と、どうして目覚めたのか話した。
「なら、やっぱり、ジョゼのしたことは正しかったわけだ。」
まあ、僕の指導のもとだけどね。と言って、レミエに引っぱたかれていた。
ジョゼ、そう聞いて、雪加は胸を引きちぎられそうな気持になった。雪加は思い出してしまった。どうして、自分がジョゼに対する『好き』という感情を封印したのか、その『記憶』も何もかも。苦しくてたまらなくなって、封印したくなったけど、もうそれをしようとは思えなかった。こんなに皆を苦しめたのに、自分だけ楽なところに流れるのは許されない気がした。
「聖女殿は泡の粒に触れて、いろんな感情を見たんでしょ?」
「うん。すごく不思議だった。」
「それはね、君とジョゼの思い出の中でジョゼが感じていたことだよ。」
「え?」
「それは、ジョゼの感情なんだ。あなたを想うジョゼの。」
眠ることを惜しんで、ジョゼは雪加に語り尽くした。いつか雪加が目覚められるように、標にするために。
どうして、そんなことをしたの。聖女を死なせるわけにはいかないから?でも、なら、どうしてあんなにやさしい感情も切ないものも狂おしいものも、私に見せたの?
どうして、目覚めたのに、ジョゼは抱きしめてくれないの?
「ジョゼは賭けをした。あなたを目覚めさせるために、とても危険な賭けだよ。」
失敗すれば、ジョゼはすべてを失った。このまま眠り続ければ、雪加は死んだ。だから、ジョゼは目覚めさせるために、雪加との記憶を封印することにした。
雪加との記憶を封じれば、下手をすれば雪加を忘れる。それだけじゃない、亡者に落ちる可能性だってあった。
「亡者?」
「狂人、人ならざる者のことよ。封印してはいけないと私が言ったのは、あなたが亡者に落ちる可能性があったから。輪郭を見失って、人の形を保っていられなくなる。」
「わたしも?」
「聖女殿は、亡者になる前に、自分自身を封印してしまったからね。ジョゼも、一つ目の賭けには勝ったよ。あんなにたくさん封印したのに、亡者にならないなんてさすがは英雄ということかな。」
「ただ、運がいいだけよ。」
「まあ、僕の予想が正しければ聖女のおかげだけどね。」
聖女のおかげ、その言葉を追いかける前に、ジョゼが居ないことに不安を覚えた。
なら、どうして、ジョゼはここに居ないのだろうか。ジョゼは雪加の眠っていた部屋から連れ出されてしまった。戻ってくる気配はない。愛想をつかされたんだろうか。こんなことをしでかして、妻として許されるはずがない。
「今、昏々と眠っているのは、たぶん後遺症だよ。聖女殿のようになるか、目覚めることができるかが、二つ目の賭け。」
二つ目の賭けが、茨のように雪加を締め付けた。心の中に種をまいて、気づけばつぼみを咲かせていた。
「まだ、あるわ。三つ目の賭けが、最大の賭けよ。ジョゼ様は雪加のために、自分の大切な記憶を封印した。あなたとの思い出の全てを。そうすることで、あなたが封印した記憶が何だったか探るために。」
「それは、つまり、」
長い間、声を使っていなかったせいで、のどが痛む。声は枯れて、ひどくつかえていた。
「目覚めたとき、雪加を思い出せるか分からない。」
心の中の茨は、ひどく雪加を痛めつけるために棘をはやした。つきりつきりと、棘が刺さり、二度と抜けないように返し刃が、生えている。
思い出したくなんてなかった。思い出さなければ、苦しまずに済んだ。でも、この思いからもう逃げ出すことはできないと思った。




