キリトリセン、キリトッタ
「誠実でありたい、そう言った記憶が私にはないのです。雪加に、私は誠実でありたいと言ったことはありません。でも、あなたは、私が言ったという。どこで、聞いたのですか。いつ、聞いたのでしょうか。目覚めて教えてください。もし、それが、あなたの嫌なことだったのなら謝ります。いくらでも、謝ります。だから、目を覚ましてください。」
雪加に何時間も話しかけて、ベッドの傍らに座り込み、手を握り続けてもう2日だ。何度も言葉選びに失敗してはレミエに睨みつけられる。最初にこの首を捧げると言ったら、そんな乱暴なこと雪加が聞いたら嫌がって起きないと至極、叱責された。
婚約していた時期も言葉選びを失敗していたのだろうか。散々、レミエに言われて、自分の言葉が信用できなくなった。
自信を失って、追いつめられていく。それなのに、雪加と同じように封印することができない。
四苦八苦してやっと『むなしい』を沈み込めたと思うのに、今は『苦しい』と格闘中だ。
もっとたくさん封印しなくては、雪加を分かってやれない。雪加の苦しみを分かってやれない。一生懸命に封印して、解放して、封印してを繰り返して、疲労がたまっているのが分かった。体が重くて、頭が痛い。少し、自分がぼんやりしている気がして、頭を振った。
こんなことでは雪加を目覚めさせてやれない。
安心して戻ってこられる場所だと認識してもらわなければならないのに。
毎日、様子を見にきては延命処置を施してくれるマーカスはどこか、違和感を覚えたような顔でジョゼを見た。
「お前、何してんの?」
「助言の通り、毎日、手を握り、戻ってこられるように話をしている。思い出せないから、記憶を語ってやることはできないが、それ以外の思い出や、他のこともたくさん話している。そうすると、とても……、いや何でもない。」
苦しいが飛び出そうになって、もう一度鍵をかけなおす作業から始めた。苦しいだなんて思ってはいけない。雪加の苦しみに比べたら、こんなもの何でもないはずだ。自分を封印してしまうほど苦しめていたのだ。雪加のために、もっと早くに妾を取って、子どもを産ませて解放してやらねばならなかったのに。
雪加との思い出を語らううちに、姿絵を見る気力はどんどんなくなっていった。
「お前、やりすぎると、失うよ。」
友人の言葉に、頭はぼんやりとしたまま頷きを返した。意味はよく分からなかった。
「雪加、覚えていますか。初めて言葉を交わしたとき、あなたは、私に自分の名前の由来を尋ねた。意味なんてないと答えると、とても不思議な顔をしましたね。後から知りました。雪加の国では、名前に意味を持たせているんだって。雪加という名前の由来を教えてくれたとき、舞い上がるほど嬉しかった。それなのに、あなたに渡せるものがなくて、とてもつらかったのを覚えています。」
蝋燭がゆらゆら揺れる中で、雪加に思い出を語った。少し肌寒いが、雪加の隣に眠るわけにもいかず少し厚手の上掛けを膝にかけて、夜通し手を握って声をかけ続けた。
雪加は一寸も動くことはなかった。
「雪加が好きな花はマーガレットなのですね。あの時は、柄にもなくロイスに嫉妬しました。クッキーをお礼に渡すと言われて、あなたにもらうことができないと分かって、悔しくて。あなたの言う『信頼』ではクッキーももらえないのかと思うと、恨めしかった。使用人たちに実は分けてもらったんです。同情してくれた使用人が、分けてくれて、あなたには内緒で口にした。あれほど美味しいものは食べたことがないと思いました。本当は口にしてはいけないとも思いました。あなたは私が食べないと思っている。信頼されているのに、裏切っているようで、ひどく罪悪感を覚えた。でも、嬉しかった。口にできて。それが、たとえ自分のためでなくても。もう一度、焼いてくださいませんか。私のために、なんて贅沢は言いません。失敗作でも構わない、少しだけ分けてもらえませんか。」
ちっとも動かない手を握り、なでて、話しかける。
「だめ、ですか。」
ジョゼは笑った。だめでもいい。目覚めてくれたら、クッキーを貰えなくたっていい。誰かほかの人を愛してくれたっていい。
「あなたに、壁紙の色も家具の配置も決めてほしかったのは、少しでもここを居心地のいい場所にしてほしかったからです。でも、それが負担だったのかもしれませんね。何もしなくていいと言っておきながら、こんなことを要求するなんて、馬鹿なことをしました。雪加が望まないなら何もしなくていいんですよ。離れで寝泊まりしたいなら、そうしましょう。あそこは手入れが必要だ。あそこをあなたの好きなものでいっぱいにしましょう。マーガレットをたくさん部屋に飾って、部屋で好きに過ごせるようにしましょう。あそこは、日の光もよく入る良い場所です。」
手を撫でていると、凪いだ気持ちは鎮まっていった。感情はない。ああ、封印できたんだ。ジョゼはまた満足した。眠っていないせいか頭がボーっとした。でも、これでいいと思った。




