誠実な花、不実な蝶
「どういうことだ。」
「だから、聖女殿は、自分自身を封印したってことだよ。」
友人ともいえるこの男の難解な言葉に、ジョゼは苛立ちを覚えた。雪加の侍女は理解できているのか、ため息をつかれた。
「人間だれしも、嫌な記憶や感情を封印することがあるでしょ?」
「ああ、」
聖女はそれと同じことをした。普通の人間と聖女のそれでは強制力が違う。聖女の力だけではなく、雪加自身の精神力の強さが、災いした。雪加は嫌な記憶や感情を封印した。それも、完璧に。
そして、それが、心地いいことを知った。
「そうすれば、傷つかなくて済む。」
「してはいけないと言ったのに。」
悔しそうな顔をしたレミエは知っていたのだ。彼女が封印していることを。
「しすぎたら、自分の輪郭を忘れてしまうのに。」
「そう、しすぎたら、忘れて、自分というものを見失うことになってしまう。力が強すぎるから狂人にもなりやすいだろうね。」
でも、雪加は狂人にはならなかった。
「聖女殿の場合には、何かをきっかけに、自分を封印したんだよ。感情や記憶を封印できるなら、そこに自分を封印することもできると気づいたんじゃないかな。そうすれば、嫌なことも何もかもから逃げることができる。」
「どうすればいい?」
冷静でいられなくて、執務室の中を動き回る。せわしない動きを誰も咎めたりはしない。
「聖女殿が自分から目覚めることを望まないと無理だろうね。」
最悪は、このまま……ってこともありうる。無責任な言葉に胸倉をつかむと、マーカスはしれっと、まあ、落ち着けと言った。これが落ち着いていられるはずがない。
「あとは、忘れた記憶や感情を思い出させることも、目覚めのきっかけにはなる。」
そのあと、もう一度眠りにつくか、目覚めるかは聖女の気持ち次第だ。
「きっかけ?」
レミエはそう呟いて、首を傾げた。この侍女の知らないことを自分が知っているとは思えない。
「そう、きっかけ。そういうこと口にしてなかった?」
「記憶を封印した場には居合わせましたが、何を封印したか、本人も分からないようでした。感情については、少なくともジョゼ様に対する好意は完全に封印しているように見えます。」
「まあ、封印した感情を思い出させるのは難しいだろうね。何か、理由があって封印したんだろうし。」
ジョゼ自身、予想はしていたがショックは受けた。自分への好意が封印されている。何らかの理由があって、好きという感情は邪魔になったということだ。
「あとやたらに口にする言葉はない?たぶん、それが鍵なんだと思うんだ。」
「信頼、という言葉をとてもよく使っていました。ジョゼ様に対する信頼という言葉で、いろんな感情を説明しようとしていました。」
「あ、」
ジョゼはぴたりと動きを止めて、顔を上げた。その様子を二人が伺いみている。
「誠実という言葉を何度か言っていた。」
「誠実?」
「誠実でありたいと私が言ったと。だが、私は、雪加の前で誠実でありたいと口にしたことはない。ただ、幸せになろうとしか。」
それが、鍵だね。マーカスはふわふわの髪を少しかきむしった。
「正直、今の状態で僕ができるのは、せいぜい命を延ばすことぐらいで、目覚めさせることはできない。きっかけがお前なら、お前の声しか聞こえないだろうし、それすら拒絶されてたら、まず目覚めさせることは無理だ。」
その様子だと、拒絶されている可能性の方が高いんだな。確信を持ったように言われると、声が出せなくなる。
「お前が、彼女の記憶を探って、思い出させて、上書きできるような何かがあれば、聖女殿は目覚めるだろう。」
「命を延ばせ。」
「ジョゼ様!」
「違う!諦めるわけがない。この命に代えても、彼女を目覚めさせる。この命を捧げることになっても、構わない。彼女が目覚めて、私の死を望むのなら、喜んでこの首を捧げよう。だから、時間を稼いでくれ。」
すぐに目覚めさせてやれるほど、私は雪加を知らない。すぐに目覚めてくれるほど、雪加は私を想っちゃいない。
雪加に会うことができるようになっても、ひどく虚しいものだな。
ジョゼは、雪加の気持ちが知りたくて、雪加と同じことをすることにした。『むなしい』を箱に入れて鍵を閉めた。心の中で沈めて沈めて、無かったことにしたいのに、浮き上がっては勝手に飛び出てこようとする感情に辟易した。
自分は、どうして、こんなこともできないのだろうか。どうして、雪加を分かってやれないのだろうか。
ジョゼは自分にひどく失望した。




