第7話 そっとしておいて
「……友だちは、いるの?」
目を伏せたまま、かすれた声でぽつりと問いかける。
雨月の視線がこちらへ向くのを感じた。
「いそうに見える?」
「……見えない」
「そうだね。それで正解だよ」
まるで冗談を言ったときのように、ふっと笑う雨月。
友だちがいない――それは、まぎれもない本音で、素直な言葉で、事実だった。
だから、わたしは一緒になって笑うことなんてできなかった。
顔を上げると、雨月の笑顔がほんの少しだけ歪んで見えた。
無理に作っていることくらい、わたしにもわかる。
……わかってしまうから、なおさら苦しかった。
胸の奥が、ぎゅうっと締めつけられる。
明るく振る舞えば振る舞うほど、その裏にある本音が透けて見えてしまって――余計に、痛い。
「作らないの? ……友だち」
「どうして今さら」
「寂しくないの?」
「寂しい? まさか。高校に入ってから……いや、小学校の頃から、ずっとこんなふうに過ごしてきたんだ。全然、寂しくなんかない」
雨月は、氷の溶けきったカフェオレの残りを一口で飲み干す。
こくりと喉が鳴り、白い首筋が静かに上下した。
「友だちがいたって、うっとうしいだけだろ」
その言葉のすべてが強がりとは思わなかった。
どこかに本音も隠れている。
……けれど、それでも。
寂しくないわけがない、と思った。
だって、雨月はむかしから――一人が嫌いな子だったから。
今も変わっていないというのなら、その奥に隠している気持ちを、わたしはちゃんとわかっている。
そっと、長いまつげの揺れる雨月の横顔を見つめた。
「雨月は、その……」
「…………」
「いじめられてるわけじゃ、ないんだよね……?」
わたしの声に、ゆっくりとこちらを見る雨月。
くちびるにかすかな笑みを浮かべ、どこか儚げな表情で、首をゆるやかにかしげた。
「そう見える?」
「あ、いや、その……見えるわけじゃ――」
と言いかけた言葉を、途中で飲み込む。
再び視線を落とし、くちびるを結んで、それでも絞り出すように。
「……見えなくは、ない、かも」
うそはつけなかった。
だって、あんなふうに言われているところを見てしまったら――そう思っても、仕方がないから。
ぼそりと漏らした声に、雨月は、ふは、と笑う。
「正直だね、晴花」
飲み終えたグラスの縁を、指先でなぞるように撫でる。
その細くしなやかな指は、まるで女の人みたいにきれいで――わたしは思わず、目を奪われた。
「大丈夫。晴花が心配するいじめみたいなことは、なにもないよ」
よかった。
その言葉に、少しだけ肩の力が抜ける。
ほっと安堵しかけた、その直後だった。
「おれは、ただの、空気なだけ」
空気、と確かめるようにつぶやく。
くちびるの端から漏れた言葉に、雨月は「そうだよ」とうなずいた。
「あいつらにとって、いてもいなくても一緒なんだって。だから、おれは空気だ。見えない空気はいじめられない。触れられもしない。ずっとシカトだ、痛くも痒くもない」
感情の起伏を見せないまま、淡々と語る雨月。
まるで、それが当たり前のことのように。
――ちく。
胸の奥が、またひとつ痛んだ。
細くとがった針で、心臓のやわらかいところをそっと突かれたみたいな、そんな痛みだった。
わたしの顔を覗き込んだ雨月が、ふっとくちびるを歪める。
「なに、その顔。そんなにおれのことが心配?」
――わたし、今、どんな顔をしてるんだろう。
くすりと笑う雨月の顔が、まともに見られなかった。
目を合わせることすらできない。
「……つらくは、ないの……?」
「全然」
即答だった。
「うそ。だって雨月は……」
「うそじゃない」
わたしの言葉に、強く重ねるように割り込んだ声。
言い聞かせるみたいな、けれど逃げ場のない、強引な声色で。
「うそじゃないんだ、全然」
「……雨月」
「らくだよ」
らく。
空気のように扱われて、らく。
……うそ、だ。
だって、わたしなら、そんなふうには思えない。
きっと悲しくて、寂しくて、一人でいるのに耐えられなくなる。
……雨月だって、そうなんじゃないの?
奥歯を、きり、と噛みしめた。
だけど、それでも――わたしには、もうなにも言えなかった。
気の利いたことでも言えればよかったのに。
でも、今のわたしがなにを言ったって、きっと雨月には届かない。
わたしが目を離しているあいだに、雨月は我慢することを覚えてしまったのだ。
中途半端な弱音なんて、もう吐いたりしない。
それが痛いほどわかってしまうから、結局わたしはどうすることもできなくて。
ただ小さく、「……そうなんだ」と相づちを打つしかなかった。
くちびるを引き結び、じっと黙り込んでいると、隣から「ねえ、晴花」と声をかけられる。
重い頭を、のそりと持ち上げた。
力ない瞳で雨月に目を向ければ、その視線とぴたりと交差する。
「晴花が今日見た学校でのおれを、どんなふうに思うかは晴花の勝手だけど」
「……だけど……?」
「まわりにどう思われようが、おれは高校を卒業するまでは、ずっと今のこの生活を続けたいと思ってる。おれが変わると、まわりに迷惑がかかるんだ。だから、晴花」
ゆっくりとしたまばたきをひとつ。
それから雨月は、わたしをまっすぐに見据えて、言った。
「おれをあいつらと打ち解けさせようだとか、そういう変な考えは起こさないでね。……絶対に」
吐き出された言葉には、有無を言わせないような強い語気がはらんでいた。
まるで「迷惑だ」と言わんばかりに、鋭い視線が突き刺さる。
心の中を見透かされているみたいだった。
わたしがどうやって手を差し伸べようとしているのか――雨月はすべてをわかっていて、それを、かたくなに拒絶する。
なにも言えずに、ただじっと、雨月を見つめ返す。
「晴花になにを言われても、おれは変わらない。変わりたくないんだよ。……だから、わかって」
余計なことはするなと、暗に釘を刺される。
わたしは膝の上で、ぐっと拳を握りしめた。
――でも、だけど。
このままでいいなんて、思えない。
だって、雨月には楽しい学校生活を送ってほしい。
高校最後の一年間を、誰よりも笑って、誰よりも幸せに過ごしてほしい。
それは、教師として。
そして――幼なじみとして。
……でも、そんなふうに願うことすら、雨月にとっては迷惑なのかな。
「でも、ほら、これからいろんなイベントもあるし……」
「いいよ」
「一人よりもみんなと一緒にいたほうが、絶対楽しいと思うんだけどな……」
「いいんだよ」
雨月はきっぱりと首を振った。
「このままでいい。おれは、今のままがいい。自分の殻に閉じこもって、暗い場所で、ただじめじめしてるだけの、今の生活に満足してるんだ」
空のグラスを手に取って、雨月が立ち上がる。
しとしとと降る雨のような、湿った瞳で、わたしを見降ろした。
「だから、そっとしておいて」
この一言を残し、キッチンへと消える雨月。
もう、ため息しか出てこなかった。
深く、重く、息を吐き出して、わたしはてのひらで顔を覆う。
そっとしておいて、なんて。
そんなことを言われても。
「……放っておけるわけ、ないよ……」
かすれた声でつぶやいたひとりごとは、キッチンへ向かった雨月の耳には届かない。
テーブルの上に置きっぱなしの甘いカフェオレは、もうすっかりぬるくなってしまった。
そのグラスを伝う水滴が、つう、と細く、一筋の跡を残して流れ落ちた。