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Hydrangea  作者: 彩芭つづり
第2章 雨の月
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第7話 そっとしておいて

「……友だちは、いるの?」


 目を伏せたまま、かすれた声でぽつりと問いかける。

 雨月の視線がこちらへ向くのを感じた。


「いそうに見える?」

「……見えない」

「そうだね。それで正解だよ」


 まるで冗談を言ったときのように、ふっと笑う雨月。

 友だちがいない――それは、まぎれもない本音で、素直な言葉で、事実だった。


 だから、わたしは一緒になって笑うことなんてできなかった。


 顔を上げると、雨月の笑顔がほんの少しだけ歪んで見えた。

 無理に作っていることくらい、わたしにもわかる。

 ……わかってしまうから、なおさら苦しかった。


 胸の奥が、ぎゅうっと締めつけられる。

 明るく振る舞えば振る舞うほど、その裏にある本音が透けて見えてしまって――余計に、痛い。

 

「作らないの? ……友だち」

「どうして今さら」

「寂しくないの?」

「寂しい? まさか。高校に入ってから……いや、小学校の頃から、ずっとこんなふうに過ごしてきたんだ。全然、寂しくなんかない」


 雨月は、氷の溶けきったカフェオレの残りを一口で飲み干す。

 こくりと喉が鳴り、白い首筋が静かに上下した。


「友だちがいたって、うっとうしいだけだろ」


 その言葉のすべてが強がりとは思わなかった。

 どこかに本音も隠れている。

 ……けれど、それでも。

 寂しくないわけがない、と思った。


 だって、雨月はむかしから――一人が嫌いな子だったから。

 今も変わっていないというのなら、その奥に隠している気持ちを、わたしはちゃんとわかっている。


 そっと、長いまつげの揺れる雨月の横顔を見つめた。


「雨月は、その……」

「…………」

「いじめられてるわけじゃ、ないんだよね……?」


 わたしの声に、ゆっくりとこちらを見る雨月。

 くちびるにかすかな笑みを浮かべ、どこか儚げな表情で、首をゆるやかにかしげた。


「そう見える?」

「あ、いや、その……見えるわけじゃ――」


 と言いかけた言葉を、途中で飲み込む。

 再び視線を落とし、くちびるを結んで、それでも絞り出すように。


「……見えなくは、ない、かも」


 うそはつけなかった。

 だって、あんなふうに言われているところを見てしまったら――そう思っても、仕方がないから。


 ぼそりと漏らした声に、雨月は、ふは、と笑う。


「正直だね、晴花」


 飲み終えたグラスの縁を、指先でなぞるように撫でる。

 その細くしなやかな指は、まるで女の人みたいにきれいで――わたしは思わず、目を奪われた。

 

「大丈夫。晴花が心配するいじめみたいなことは、なにもないよ」

 

 よかった。

 その言葉に、少しだけ肩の力が抜ける。

 ほっと安堵しかけた、その直後だった。

 

「おれは、ただの、空気なだけ」

 

 空気、と確かめるようにつぶやく。

 くちびるの端から漏れた言葉に、雨月は「そうだよ」とうなずいた。

 

「あいつらにとって、いてもいなくても一緒なんだって。だから、おれは空気だ。見えない空気はいじめられない。触れられもしない。ずっとシカトだ、痛くも痒くもない」

 

 感情の起伏を見せないまま、淡々と語る雨月。

 まるで、それが当たり前のことのように。


 ――ちく。

 胸の奥が、またひとつ痛んだ。

 細くとがった針で、心臓のやわらかいところをそっと突かれたみたいな、そんな痛みだった。

 

 わたしの顔を覗き込んだ雨月が、ふっとくちびるを歪める。

 

「なに、その顔。そんなにおれのことが心配?」


 ――わたし、今、どんな顔をしてるんだろう。

 くすりと笑う雨月の顔が、まともに見られなかった。

 目を合わせることすらできない。

 

「……つらくは、ないの……?」

「全然」


 即答だった。

 

「うそ。だって雨月は……」

「うそじゃない」

 

 わたしの言葉に、強く重ねるように割り込んだ声。

 言い聞かせるみたいな、けれど逃げ場のない、強引な声色で。

 

「うそじゃないんだ、全然」

「……雨月」

「らくだよ」

 

 らく。

 空気のように扱われて、らく。

 

 ……うそ、だ。

 だって、わたしなら、そんなふうには思えない。

 きっと悲しくて、寂しくて、一人でいるのに耐えられなくなる。

 

 ……雨月だって、そうなんじゃないの?

 

 奥歯を、きり、と噛みしめた。

 だけど、それでも――わたしには、もうなにも言えなかった。


 気の利いたことでも言えればよかったのに。

 でも、今のわたしがなにを言ったって、きっと雨月には届かない。


 わたしが目を離しているあいだに、雨月は我慢することを覚えてしまったのだ。

 中途半端な弱音なんて、もう吐いたりしない。

 それが痛いほどわかってしまうから、結局わたしはどうすることもできなくて。

 ただ小さく、「……そうなんだ」と相づちを打つしかなかった。


 くちびるを引き結び、じっと黙り込んでいると、隣から「ねえ、晴花」と声をかけられる。

 重い頭を、のそりと持ち上げた。

 力ない瞳で雨月に目を向ければ、その視線とぴたりと交差する。

 

「晴花が今日見た学校でのおれを、どんなふうに思うかは晴花の勝手だけど」

「……だけど……?」

「まわりにどう思われようが、おれは高校を卒業するまでは、ずっと今のこの生活を続けたいと思ってる。おれが変わると、まわりに迷惑がかかるんだ。だから、晴花」

 

 ゆっくりとしたまばたきをひとつ。

 それから雨月は、わたしをまっすぐに見据えて、言った。

 

「おれをあいつらと打ち解けさせようだとか、そういう変な考えは起こさないでね。……絶対に」


 吐き出された言葉には、有無を言わせないような強い語気がはらんでいた。

 まるで「迷惑だ」と言わんばかりに、鋭い視線が突き刺さる。

 

 心の中を見透かされているみたいだった。

 わたしがどうやって手を差し伸べようとしているのか――雨月はすべてをわかっていて、それを、かたくなに拒絶する。


 なにも言えずに、ただじっと、雨月を見つめ返す。


「晴花になにを言われても、おれは変わらない。変わりたくないんだよ。……だから、わかって」


 余計なことはするなと、暗に釘を刺される。

 わたしは膝の上で、ぐっと拳を握りしめた。


 ――でも、だけど。

 このままでいいなんて、思えない。


 だって、雨月には楽しい学校生活を送ってほしい。

 高校最後の一年間を、誰よりも笑って、誰よりも幸せに過ごしてほしい。


 それは、教師として。

 そして――幼なじみとして。


 ……でも、そんなふうに願うことすら、雨月にとっては迷惑なのかな。

 

「でも、ほら、これからいろんなイベントもあるし……」

「いいよ」

「一人よりもみんなと一緒にいたほうが、絶対楽しいと思うんだけどな……」

「いいんだよ」

 

 雨月はきっぱりと首を振った。

 

「このままでいい。おれは、今のままがいい。自分の殻に閉じこもって、暗い場所で、ただじめじめしてるだけの、今の生活に満足してるんだ」

 

 空のグラスを手に取って、雨月が立ち上がる。

 しとしとと降る雨のような、湿った瞳で、わたしを見降ろした。

 

「だから、そっとしておいて」

 

 この一言を残し、キッチンへと消える雨月。

 もう、ため息しか出てこなかった。

 深く、重く、息を吐き出して、わたしはてのひらで顔を覆う。


 そっとしておいて、なんて。

 そんなことを言われても。

 

「……放っておけるわけ、ないよ……」

 

 かすれた声でつぶやいたひとりごとは、キッチンへ向かった雨月の耳には届かない。

 

 テーブルの上に置きっぱなしの甘いカフェオレは、もうすっかりぬるくなってしまった。

 そのグラスを伝う水滴が、つう、と細く、一筋の跡を残して流れ落ちた。

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