第6話 今も、むかしも
ソファに座ったまま、ううんと背伸びをする。
小さく息を吐いて、ぼんやりと中空を見つめた。
こち、こち、と時計の針が、静かな部屋にやわらかく響く。
短い沈黙のあと、ふと思い出したように口を開く。
「……ねえ、雨月。帰る前にひとつだけ、聞きたいことがあるんだけど」
雨月は一度まばたきをして、ゆっくりとわたしを見つめた。
小さいころから変わらない、どこまでも澄んだ黒い瞳。
「……雨月は、さ。学校では、いつもあんな感じなの……?」
できるだけ、ささやかな声音で問いかける。
けれど、突然の質問にも、雨月はまったく動じる様子を見せなかった。
ゆるやかに首をかしげながら、まるでわたしの反応を楽しむように――その口もとには、皮肉げな笑みが浮かんでいた。
「あんな感じって?」
「え、と……だから、あんな……」
言葉を探して、視線を落とす。
自分の手もとばかりを見つめてしまう。
……なんて言えば、いいのだろう。
今日、初めて見た学校での雨月。
あの姿を、どう言葉にすればいいのか、わからない。
そうだ。
たしか、他の生徒たちが言っていた。
あのときの、雨月の印象は、まるで――。
「――暗くて、じめじめしてて、カタツムリみたいだって?」
胸の奥が、ずき、と痛む。
息が止まりそうになる。
あまりにもはっきりとした、雨月自身の言葉。
思わず顔を上げ、その瞳を見つめた。
「……違う」
「違わないよ。だって、あいつらがそう言ってただろ。晴花も一緒に聞いてた」
「違う。……わたしは、そんなふうには思ってない」
ふるふると首を振る。
そんなわたしを、雨月は鼻で笑った。
「じゃあ、どう思った?」
直球な質問だった。
わたしは雨月の瞳をまっすぐに見つめたあと、ゆっくりとテーブルの上へ視線を落とす。
溶けかけた氷が、グラスの中で小さく音を立てた。
「……本当のことを言うとね。もう少し、明るくふるまえばいいのにって……思ったんだ」
――それが、わたしの正直な気持ち。
今ここにいる雨月は、よく笑うし、よくしゃべる。
この姿を学校でも見せられたら、きっと、友だちだって自然とできるはずなのに。
雨月は、むかしから人見知りだった。
誰よりもおとなしくて、泣きむしで、引っ込み思案で、怖がりで――自分からなにかをすることなんて、ちっともなかった。
お世辞にも明るい性格とは言えなくて、友達と呼べる存在だってほとんどいなかった。
なにをするにも、いつもわたしの手が必要で。
わたしの隣にぴったりとくっついて、服の裾をきゅっと掴んでいた。
だからわたしは、心配で、心配で、たまらなかった。
雨月のことを、ずっと守り続けてきた。
守りながらも、目まぐるしく変わる外の世界が怖いのだと怯えて泣く雨月の小さな手を引いて――まだ知らない世界の楽しさを教えてあげたのは、わたしだった。
……でも、それはむかしの話。
年齢が上がり、成長していくなかで、雨月は少しずつ変わっていった。
前よりも明るくなったし、よく笑うようにもなった。
泣かなくなったし、堂々とするようにもなった。
雨月が中学に上がったころには、わたしはもう、あのころのように気にかけてあげなくても大丈夫だと思うようになった。
たとえクラスの中心にはなれなくても、輪の中に入っていくことは、きっとできるはず。
もう、手を貸さなくても一人で立てる。
だからわたしは、雨月の手を離した。
……だけど、それは全部、わたしの思い違いだった。
雨月は、変わってなんていなかった。
ずっと、むかしのままだった。
笑うようになったのも、しゃべるようになったのも、わたしの前だけで。
教師になって初めて目の当たりにした、彼の学校での姿。
空に曇りがかかっているように、どこか陰を引きずっていて。
湿っぽくて、重たくて、ほこりっぽくて――まるで、自分の殻に閉じこもって出てこようとしない、カタツムリみたいだと思った。
うつむいて黙り込むわたしに、雨月が「ほらね」と小さく笑った。
「やっぱり晴花も、あいつらと同じことを思ってる」
「ち、違う。そうじゃなくて、わたしはただ――」
「同じことだよ」
被せられた一言に、続けようとした言葉が喉の奥で止まる。
視線を上げると、学校では前髪に隠れていたその瞳が、まっすぐにわたしを射抜いていた。
「晴花は、違うって思いたいだけ。でも実際は、晴花の思ってることも、あいつらの言ってたことも、変わらない」
――そんなこと、ない。
そう言い返したいのに、言葉が出てこない。
首を振りたくても、動かせなかった。
黙り込む自分が、まるで雨月の言葉を肯定しているみたいで――悔しかった。
なにも言えず、くちびるを引き結ぶ。
そんなわたしをちらりと見やって、雨月はふっと笑った。
まるで「だから言っただろ」とでも言いたげな顔をして。
「晴花が、今のおれを見てどう思ったのかは知らないけど」
ひとつ、小さく息を吐いて。
「――おれは、変わってないよ。今も、むかしも。ずっとこのまま」
そうつぶやいた横顔が、わたしの知らないずっと遠くを見ているようで。
どこか諦めたようにさえ見えたのは――気のせい、だろうか。
雨月の言うように、小学生のときも、中学生のときも、彼はずっとこんな性格だった。
だからわたしは心配で、ずっと隣で見てきたのだ。
雨月がひとりぼっちにならないように。
雨月が悲しむことのないように。
……だけど唯一、この数年間だけは目を離してしまっていた。
わたしも大学の勉強に追われ、忙しい日々を送っていたせいで、なかなか気にかけてあげることができなかった。
ずっと心配はしていたけれど、でもきっと大丈夫だろうと思っていた。
雨月だってもう子どもじゃない。
小さなころは「一人じゃ嫌だ」と泣きじゃくっていた雨月だって、今はもう立派な高校生。
わたしがついていなくても平気なはず。
……そう思っていたのに、実際は、ちっとも平気じゃなかった。
今日のあの状態を見ているかぎり、雨月はむかしのあの性格のままだ。
わたしが知らなかっただけで、高校に入学してから今日までの二年間、雨月はずっと一人自分の殻に閉じこもっていた。
わたしが見てあげられなかった時間だけに、ぽっかりと穴が開いていた。
……わたしのせいだ。
あんなに――ひとりぼっちにはさせたくないと思っていたはずなのに。