第5話 ちゃんと先生らしかった
ソファを半分空けてくれた雨月にお礼を言い、その隣へ腰を下ろす。
彼はしおりを挟んだ本をテーブルに置き、氷が溶けて薄くなったカフェオレをくいと飲んだ。
「晴花、本当に先生になったんだ」
「そうだよ。そのためにずっとがんばってきたんだもん。雨月だって知ってるでしょ? わたしが一生懸命勉強してきたこと」
「まあ、知ってるけど」
じろじろと、こちらを見つめてくる雨月。
……なによ、その目。
「……なにか言いたいことでもある?」
「いや、べつに」
「べつにって顔じゃないでしょ」
なにもないなら、そんなに見ないし。
そう思った瞬間、雨月はまっすぐわたしを見てから……ふいと顔をそらした。
「なんか、もう、本当にスーツが似合わないね。晴花は背が小さいから、子どもが着てるみたい。変だよ、それ」
「はあ? う、うるさいな! 言いたいことってそれ? ホント腹立つ……」
どうせおこちゃま体型ですよ。
ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
……なによ。
学校にいるときは、あんなに素っ気ない態度ばかりで、ちっとも話してくれなかったくせに。
それが今は、まるで人が変わったみたいに――憎まれ口ばかりとはいえ、こうしてちゃんと会話をしてくれる。
目もちゃんと合わせてくれる。
学校にいるときも、こんなふうに話してくれたらよかったのに。
……そりゃあ、他の生徒の前で悪態をつかれるのは困るけど。
一応、幼なじみってことは隠してるわけだし。
でも――わたしは、雨月と、こういう他愛ない話を、学校でもしたかった。
みんながわたしに気さくに声をかけてくれるように、雨月にも、そんなふうに話しかけてほしかった。
どうして学校ではあんな態度だったんだろう。
……本当は、ちょっとだけ、寂しかった。
「ハルちゃん」
名前を呼ばれて、はっとする。
キッチンからおばさんの声が聞こえてきた。
「飲みもの、ハルちゃんもカフェオレでいい?」
「あ、うん。ありがとう。お砂糖たっぷりで、あまーくしてほしいな」
「ふふ、わかった。とびきり甘くしておくわね」
この年になっても、苦いものはどうしても苦手だ。
コーヒーもビールも、まだ一度もおいしいと思えたことがない。
わたしは、自他共に認める、かなりの甘党。
カフェオレにはお砂糖をたっぷり。
パンケーキにはシロップをこれでもかってくらいかける。
食べものも、飲みものも、言葉も、態度も――なんでも甘いほうが、絶対いいに決まってる。
甘いは正義だ。
異論は認めない。
……なのに、そんなわたしを、雨月は目を細めてじっと見てくる。
この目は、たぶん、あれだ。
呆れてるときの目だ。
「……なによ、そんなじっと見ちゃって」
「おれ、カフェオレは無糖派」
「ふうん、そう。わたしは甘いほうが断然好きだけど」
「大人なのに」
「大人でも甘いのが好きな人はいっぱいいるもん」
「晴花はいつまでたっても子どもだな。これが先生だなんて信じられない」
……その言い方、ちょっとひどくない?
そう思ったけど、言い返したってどうせまた言い返されるだけだ。
だから、む、とくちびるをとがらせるだけにしておく。
言い返せなくて、すねるしかできない。
そんなところも子どもなのだと、きっとまた雨月に笑われるのだと思う。
べつにいいもん、とつぶやいて、頬を膨らませながら顔をそらした。
「その頬を膨らますのも子どもっぽい」
「あー、もう知らない」
「そうやってすぐ怒るところも子どもっぽい」
「どうせ子どもですよーだ」
大人になりきれていないことなんて、自分でもとっくにわかっている。
だからこそ、こんなふうにしか反応できない。
うまい言い訳なんて、わたしにはできないから。
「晴花は、本当になにからなにまで全部子どもみたい」
雨月は、カフェラテを一口飲む。
「でも、さ」
水滴のついたカフェオレのグラスを、細い指先でひと撫でして――雨月が、ぽつりと言った。
「教壇に立ってるときは、ちゃんと先生らしかった。かっこよかったよ、晴花」
……一瞬、呼吸が止まった気がした。
薄い笑みをくちびるに浮かべ、わたしを見つめる瞳に鼓動が速くなる。
その視線が、さっきの彼とはまるで違って見えた。
今までずっと意地悪なことばかり言ってきたくせに。
こんなふうに、急にまっすぐな言葉を言われたら。
……ああ、もう。
そういうところ、本当にずるいよ。
「……ありがと」
素直に喜ぶことができなくて、ちょっとだけすねたみたいにお礼を言った。
ちょうどそのとき、おばさんがカフェオレを運んできてくれたから、わたしはそのタイミングに乗じて、ぐいと一口。
舌の上に、やわらかな甘みが広がっていく。
それからは、二人でたくさんくだらない話をした。
先生と生徒としてじゃなくて――気を使うこともなく、肩の力も抜ける、昔からの友だちとしての会話。
好きな歌手のこと。
はまっている漫画の話。
ふいに思い出した小さなころのエピソード。
たわいもないやりとりが続く中で、ふと隣に目をやると、雨月は楽しそうに笑っていた。
学校では絶対に見せない、その笑顔を見て……きっと、雨月もわたしと同じく、この時間を楽しいと思ってくれているんだろうなと思った。
時計に目をやると、長い針は軽く一周していた。
気づけば、一時間以上がたっていたらしい。
「もうこんな時間なんだ」
そうつぶやいた。
帰ってきたときはあんなにお腹がすいていたのに、今はそれほどでもない。
きっと、雨月と話しているうちに、時間の感覚がどこかへいってしまっていたのだ。
「もう帰るの?」
時計に視線を向けたままのわたしに、雨月がぽつりと声をかける。
たったひとこと。
それでも、なんだか少し嬉しかった。
表情の読みにくい彼だから、気持ちを汲み取るのは難しいけれど――それでもこの言葉には、ほんの少しだけ名残惜しさがにじんでいた気がしたから。
「そうだなあ、もうそろそろ帰ろうかな。まだ夕飯も食べてないし」
「うちで食べていけば?」
「悪いし、いいよ。それに、うち今夜はクリームシチューなの。デザートにはおばさんもらったケーキもあるし、家で食べなきゃ」
「シチューで喜ぶなんて小学生かよ。食べものの好みまで子どもだな」
む。まだ言うか。
「ふうん? じゃあ聞くけど、そういう大人な雨月の好きな食べものはなんなのよ。それだけ言うんだから、さぞ大人っぽいものなんでしょうね」
「馬刺しと塩辛。あと、もつ煮」
即答だった。
……なんていうか、まあ、うん。
「大人っぽいっていうか……おじさんくさいね」
勝てるわけないや。
わたしは、くすりと笑った。