第4話 幼なじみ
お腹すいた。
ぐう、と腹の虫が鳴いたころ、ようやく自宅にたどり着く。
玄関の前でドアノブに手をかけながら、頭の中で夕飯を予想する。
……きっと、クリームシチューだ。
一人でそう決めつけて、くすっと笑いながらドアを開ける。
玄関をくぐった瞬間、ふわりとホワイトソースの香りが鼻をくすぐった。
ほらね、やっぱり。
その優しい匂いに、思わず頬がゆるむ。
母のつくるクリームシチューは、ずっとわたしの大好物だ。
幼稚園の注射の日、小学校の運動会、高校受験――わたしがなにかをがんばったその日の夜には、いつもこの味が待っていた。
だから、今日もそうだと思った。
だって今日は、先生として初めて教壇に立った日。
とっても、とっても、がんばった日だから。
「ただいまー」
リビングの扉を開けると、キッチンから母がひょこりと顔を出した。
「晴花、おかえり。初勤務はどうだった?」
「楽しかった! ……けど、すっごく疲れたぁ……」
肩の力を抜くように息をつくと、母は「そうでしょう」と優しく笑った。
「これからは、きっともっと大変になるわよ。なんていったって先生なんだから。それでも、いつも笑うことを忘れなければ、ちゃんと乗り越えられるわ。だって晴花のセールスポイントは……」
「笑顔、でしょ」
言葉をかぶせて、二本の指で口角を持ち上げてみせる。
すると母は嬉しそうにうなずいた。
たしかに、笑顔をほめられることはよくある。
でも自分では、そこまでだろうかと思ってしまう。
それでも、こうして強みだと言ってもらえるのなら、これからも忘れずにいよう。
笑っていれば、きっといいことがある。
わたしにとって、笑顔はおまじないみたいなものだから。
……とはいえ、今日は本当にぐったりだ。
体を動かしたわけじゃないのに、なんだか本当に疲れている。
まあ、それもそうか。
生徒たちに囲まれて、あれこれ質問攻めにされてたら、そりゃあ疲れるに決まってる。
年齢とか、彼氏の有無とか……あんなの、普通聞くかな?
思わず変なことを口走っちゃわないか、不安だった。
高校生ってホントに容赦ない。
着替える気力も残っていないまま、スーツ姿のままソファに座り込む。
そのまま背中を預けるようにして、ぐたっと横になる。
ふと、テーブルの上に置かれた箱が目に入った。
薄いピンクの小さな箱。
かわいらしいロゴに、どこか見覚えのある洋菓子店の名前。
「なにこれ、ケーキ?」
「ああ、それね、さっきお隣さんからもらったの。晴花が今日から先生になったお祝いだって」
「えー、嬉しい。ありがたいなぁ」
ぱっと起き上がって箱を開ける。
中に並んでいたのは、宝石みたいにかわいくておしゃれなケーキたち。
ふわりと甘い香りが広がるだけで、一気に目が覚めた気がした。
「すごいっ、どれもおいしそう!」
「隣町のケーキ屋さんのなんだけど、このあいだテレビで紹介されたんだって。すごい行列だったらしいわよ」
「ええっ、そんな貴重なケーキ、もらっちゃってよかったのかな……?」
なんて言いながら、目はもうキラキラ。
すでに食べる気満々。
「迷うなぁ……全部食べたい……」
「食べるのは食後にしなさいね。今夜は晴花の大好きなクリームシチューなんだから。お腹いっぱいで食べられなくなっちゃうわよ」
そんなの、言われなくてもわかってる。
わたし、もう子どもじゃないんだから。
……と、ぶつぶつ反論しつつ、でも一個くらいならいいかな、なんて甘い考えがよぎる。
疲れてるときは糖分が必要だし。
「夕飯の前に、お隣さんにお礼してきたら?」
「あ、うん。そうだね」
「雨月くんも、もう帰ってきてるでしょう?」
「あー……うん、そうだね」
ケーキの箱を、じっと見つめる。
それから、ふっと息を吐いて立ち上がった。
「ちょっと行ってくるね」
着替えは……このままで、いいか。
せっかくなら、先生になったこのスーツ姿を、おばさんにも見てもらいたいし。
玄関を出ると、夜の風がやわらかく肌をなでる。
空には、いくつかの星が静かにまたたいていた。
近所の窓からこぼれる、あたたかな橙色の光。
子どもたちの笑い声が窓から聞こえて、夜に弾ける。
道のまんなかで大きく伸びをして、深呼吸をひとつ。
……うん。
向かいのおうちはハンバーグ。
その隣は……からあげかな。
こっちは、カレーの匂いがする。
シチューもいいけど、カレーも捨てがたいよね。
そんなことを考えながら、隣の家のインターホンを押す。
「はーい」という声が聞こえて、わたしが名乗ると、すぐに扉が開いた。
にっこり笑って、おじぎをする。
「おばさん、こんばんは」
「あら、ハルちゃん。やだわ、スーツなんて着ちゃって。このあいだまで学生さんだったのに、もうすっかり先生ねぇ」
「あはは……まだちょっと、慣れないけど」
照れ隠しに頬をかくと、おばさんは嬉しそうにほほえんだ。
小さいころからずっと憧れていた夢――その姿を見せられて、きっと、おばさんも喜んでくれている。
そうだ、と気づいて、もう一度丁寧に頭を下げた。
「おいしそうなケーキ、ありがとうございました。あんなにたくさんいただいちゃって……いいの?」
「ああ、もちろん。お祝いだからね。それに、うちは私以外みんな甘いものを食べなくて。評判がよかったから、ぜひ食べてほしくて」
「わあ、嬉しい。ありがとう!」
にこっと笑って返事をすると、おばさんはすぐにリビングのほうを指差した。
「上がっていくでしょ?」
「……あ、でも、夕飯の準備で忙しい時間帯だから」
「気にしないで。……あの子も、ちょうどさっき帰ってきたところなの。少し話してあげて」
お礼だけで、おじゃまするつもりはなかった。
……でも、せっかく誘ってもらったのだから、と玄関をくぐる。
昔から何度も遊びに来ているこの家は、わたしにとって、まるで「もうひとつの家」みたいな場所。
漂うにおいも、やわらかな空気も、どこか懐かしくて――ほっとする。
靴を脱ぎ、いつものようにスリッパを取り出して足を通す。
そして、そのままリビングへ。
部屋の真ん中、ふかふかのソファに座っていたのは――冷たいカフェオレのグラスを片手に、本を読んでいる、制服姿の男の子。
「ほら雨月、お隣のハルちゃんが来たわよ。本なんて読んでないで、ちゃんとおもてなしして」
おばさんの声に、彼は手にしていた本をぱたんと閉じた。
前髪をピンで留めた額があらわになっていて、学校で見たときとはまるで印象が違う。
そして、ゆっくりと顔を上げたその瞳に――はっきりと、わたしの姿が映った。
「……いらっしゃい、晴花」
「おじゃまします、……雨月」
――夏野雨月。
それが、彼のフルネーム。
彼は、わたしの家のお隣に住んでいて。
わたしが受け持つ、初めての生徒で。
……そして、なにより。
わたしの、大切な。
年の離れた、幼なじみだ。