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Hydrangea  作者: 彩芭つづり
第2章 雨の月
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第4話 幼なじみ

 お腹すいた。

 ぐう、と腹の虫が鳴いたころ、ようやく自宅にたどり着く。


 玄関の前でドアノブに手をかけながら、頭の中で夕飯を予想する。

 ……きっと、クリームシチューだ。

 一人でそう決めつけて、くすっと笑いながらドアを開ける。


 玄関をくぐった瞬間、ふわりとホワイトソースの香りが鼻をくすぐった。


 ほらね、やっぱり。

 その優しい匂いに、思わず頬がゆるむ。


 母のつくるクリームシチューは、ずっとわたしの大好物だ。

 幼稚園の注射の日、小学校の運動会、高校受験――わたしがなにかをがんばったその日の夜には、いつもこの味が待っていた。


 だから、今日もそうだと思った。

 だって今日は、先生として初めて教壇に立った日。

 とっても、とっても、がんばった日だから。

 

「ただいまー」


 リビングの扉を開けると、キッチンから母がひょこりと顔を出した。


「晴花、おかえり。初勤務はどうだった?」

「楽しかった! ……けど、すっごく疲れたぁ……」


 肩の力を抜くように息をつくと、母は「そうでしょう」と優しく笑った。


「これからは、きっともっと大変になるわよ。なんていったって先生なんだから。それでも、いつも笑うことを忘れなければ、ちゃんと乗り越えられるわ。だって晴花のセールスポイントは……」

「笑顔、でしょ」


 言葉をかぶせて、二本の指で口角を持ち上げてみせる。

 すると母は嬉しそうにうなずいた。


 たしかに、笑顔をほめられることはよくある。

 でも自分では、そこまでだろうかと思ってしまう。


 それでも、こうして強みだと言ってもらえるのなら、これからも忘れずにいよう。

 笑っていれば、きっといいことがある。

 わたしにとって、笑顔はおまじないみたいなものだから。

 

 ……とはいえ、今日は本当にぐったりだ。

 体を動かしたわけじゃないのに、なんだか本当に疲れている。


 まあ、それもそうか。

 生徒たちに囲まれて、あれこれ質問攻めにされてたら、そりゃあ疲れるに決まってる。

 年齢とか、彼氏の有無とか……あんなの、普通聞くかな?

 思わず変なことを口走っちゃわないか、不安だった。

 高校生ってホントに容赦ない。


 着替える気力も残っていないまま、スーツ姿のままソファに座り込む。

 そのまま背中を預けるようにして、ぐたっと横になる。


 ふと、テーブルの上に置かれた箱が目に入った。

 薄いピンクの小さな箱。

 かわいらしいロゴに、どこか見覚えのある洋菓子店の名前。


「なにこれ、ケーキ?」

「ああ、それね、さっきお隣さんからもらったの。晴花が今日から先生になったお祝いだって」

「えー、嬉しい。ありがたいなぁ」


 ぱっと起き上がって箱を開ける。

 中に並んでいたのは、宝石みたいにかわいくておしゃれなケーキたち。

 ふわりと甘い香りが広がるだけで、一気に目が覚めた気がした。

  

「すごいっ、どれもおいしそう!」

「隣町のケーキ屋さんのなんだけど、このあいだテレビで紹介されたんだって。すごい行列だったらしいわよ」

「ええっ、そんな貴重なケーキ、もらっちゃってよかったのかな……?」


 なんて言いながら、目はもうキラキラ。

 すでに食べる気満々。


「迷うなぁ……全部食べたい……」

「食べるのは食後にしなさいね。今夜は晴花の大好きなクリームシチューなんだから。お腹いっぱいで食べられなくなっちゃうわよ」


 そんなの、言われなくてもわかってる。

 わたし、もう子どもじゃないんだから。


 ……と、ぶつぶつ反論しつつ、でも一個くらいならいいかな、なんて甘い考えがよぎる。

 疲れてるときは糖分が必要だし。

 

「夕飯の前に、お隣さんにお礼してきたら?」

「あ、うん。そうだね」

雨月(うづき)くんも、もう帰ってきてるでしょう?」

「あー……うん、そうだね」


 ケーキの箱を、じっと見つめる。

 それから、ふっと息を吐いて立ち上がった。


「ちょっと行ってくるね」


 着替えは……このままで、いいか。

 せっかくなら、先生になったこのスーツ姿を、おばさんにも見てもらいたいし。


 玄関を出ると、夜の風がやわらかく肌をなでる。

 空には、いくつかの星が静かにまたたいていた。


 近所の窓からこぼれる、あたたかな橙色の光。

 子どもたちの笑い声が窓から聞こえて、夜に弾ける。


 道のまんなかで大きく伸びをして、深呼吸をひとつ。


 ……うん。

 向かいのおうちはハンバーグ。

 その隣は……からあげかな。

 こっちは、カレーの匂いがする。

 シチューもいいけど、カレーも捨てがたいよね。

 

 そんなことを考えながら、隣の家のインターホンを押す。

「はーい」という声が聞こえて、わたしが名乗ると、すぐに扉が開いた。

 にっこり笑って、おじぎをする。


「おばさん、こんばんは」

「あら、ハルちゃん。やだわ、スーツなんて着ちゃって。このあいだまで学生さんだったのに、もうすっかり先生ねぇ」

「あはは……まだちょっと、慣れないけど」


 照れ隠しに頬をかくと、おばさんは嬉しそうにほほえんだ。

 小さいころからずっと憧れていた夢――その姿を見せられて、きっと、おばさんも喜んでくれている。


 そうだ、と気づいて、もう一度丁寧に頭を下げた。


「おいしそうなケーキ、ありがとうございました。あんなにたくさんいただいちゃって……いいの?」

「ああ、もちろん。お祝いだからね。それに、うちは私以外みんな甘いものを食べなくて。評判がよかったから、ぜひ食べてほしくて」

「わあ、嬉しい。ありがとう!」


 にこっと笑って返事をすると、おばさんはすぐにリビングのほうを指差した。


「上がっていくでしょ?」

「……あ、でも、夕飯の準備で忙しい時間帯だから」

「気にしないで。……()()()も、ちょうどさっき帰ってきたところなの。少し話してあげて」

 

 お礼だけで、おじゃまするつもりはなかった。

 ……でも、せっかく誘ってもらったのだから、と玄関をくぐる。


 昔から何度も遊びに来ているこの家は、わたしにとって、まるで「もうひとつの家」みたいな場所。

 漂うにおいも、やわらかな空気も、どこか懐かしくて――ほっとする。


 靴を脱ぎ、いつものようにスリッパを取り出して足を通す。

 そして、そのままリビングへ。


 部屋の真ん中、ふかふかのソファに座っていたのは――冷たいカフェオレのグラスを片手に、本を読んでいる、制服姿の男の子。


「ほら雨月、お隣のハルちゃんが来たわよ。本なんて読んでないで、ちゃんとおもてなしして」


 おばさんの声に、彼は手にしていた本をぱたんと閉じた。

 前髪をピンで留めた額があらわになっていて、学校で見たときとはまるで印象が違う。

 そして、ゆっくりと顔を上げたその瞳に――はっきりと、わたしの姿が映った。


「……いらっしゃい、()()

「おじゃまします、……()()


 ――夏野雨月。

 それが、彼のフルネーム。


 彼は、わたしの家のお隣に住んでいて。

 わたしが受け持つ、初めての生徒で。

 ……そして、なにより。


 わたしの、大切な。

 年の離れた、幼なじみだ。

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