第3話 不機嫌な彼
職員室の真っ白な蛍光灯の下、わたしはぼんやりとクラス名簿を眺めていた。
出席番号の最初から順に、一人一人の名前を指先でなぞっていく。
やがて、爪の先がある生徒の名前でぴたりと止まる。
声には出さず、くちびるをそっと動かして、その名前を口の中だけで呼んでみた。
……ああ、だめだ。
思い出してしまう。
彼の顔を頭に浮かべるだけで、さっきのあの子たちのせせら笑う声が、耳の奥で何度も繰り返し響いて――離れてくれない。
『あいつ、いつもこうだから。』
『すごく地味で、根暗で、じめじめしてて、いてもいなくても変わんないの』
『ナメクジっていうよりカタツムリじゃない?』
「――あの、」
ふいに声をかけられた。
はっとして顔を上げる。
とっさに返そうとした声は裏返り、思わず間の抜けた返事になってしまった。
目をぱちぱちと瞬きながら、その顔を見る。
「な、つの、くん」
途切れ途切れに名前を呟くと、彼は不機嫌そうに眉をひそめながら、ノートを差し出してきた。
「……日誌」
「え」
「学級日誌。言われたとおり、持ってきました。……これで日直の仕事は終わりですよね」
視線を落とすと、手渡されたのは、ホームルームのあとにわたしが渡した日誌だった。
……さっきまで、彼が教室で無言のまま『聞こえないふり』をしながら書いていた、あのノート。
「あ、ああ……日誌ね。うん、はい、ありがとう」
言葉がもつれるようにお礼を口にして、日誌を受け取る。
すると彼は、無言で軽く頭を下げると、そのまま踵を返した。
「失礼します」
……ああ、もう帰っちゃうんだ。
みんなみたいに、わたしとは話をしてくれないんだ。
心の中でそう呟いて、さらりと揺れる彼の襟足を目で追う。
どうやら彼は、わたしにちっとも興味がないみたいだった。
つねに素っ気なくて、目も合わせてくれなくて――他の生徒たちみたいに、わたしと他愛のない話をすることもない。
必要最低限のやりとりだけで、すべてを終わらせてしまう。
それは、教室の中でも、今この瞬間でも、変わらない。
どれだけわたしが気にして声をかけても、結局返ってくるのは「はい」か「わかりました」だけ。
きっと、頑張ったってその先へは進めないんだ。
……わたしは、ちゃんと話したいって思ってるのに。
静かに扉が閉まり、その余韻が耳に残った。
椅子から立ち上がったわたしは、すぐに彼を追って職員室を飛び出す。
前を歩いていた学ランの背中に向かって、思わず声を張った。
「ま、待って!」
ぴた、と足音が止まる。
彼はゆっくりと振り返り、無表情のままこちらを見た。
「……なんですか」
その声も、目つきも、態度も――どこまでも冷たい。
思わず胸がすくみ、わたしは喉をこくりと鳴らした。
ああ、まただ。
こんなふうに見られたら……うまく喋れなくなる。
ごまかすように視線を泳がせて、それから頬をかいた。
曖昧な笑みを浮かべながら、思いつくままに声をかける。
「あ、ええと……もう帰るの?」
「帰りますけど。……どうしてそんなことを聞くんですか」
「ど、どうしてって……」
「まだなにか、やらなきゃいけないことがありますか」
「そういうわけじゃ、なくて……」
「それなら、なんですか」
すっと目を細める彼に、わたしは言葉を失った。
わずかに開いていたくちびるを、そっと閉じる。
もうなにも言えない。
続く言葉も、浮かんでこない。
ああ、どうして呼び止めたりなんかしたんだろう。
彼がどんな反応をするかなんて、最初からわかっていたはずなのに。
わたしは、一体なにを期待していたんだろう。
……こんなの、ただ、悲しくなるだけなのに。
わたしは小さくうなずいて、一歩だけ後ずさる。
「そ、そうだね。……なにもないよ。呼び止めちゃって、ごめんね」
「そうですか。それじゃあ」
「……うん。気をつけて帰ってね」
軽く手を振る。
夏野くんはわたしを一瞥して、再び背を向けた。
もう振り返ることはなく、無言のまま、一定の歩調で遠ざかっていく。
その背中を、ただ見つめていた。
やがて彼の姿は、廊下の角でふっと消える。
わたしはひとつ、ため息を吐いた。
振っていた手が、自然と力なく降りていく。
ほんの少しでも、言葉を交わせたら。
ほんの少しでも、心を開いてくれたら。
そんなふうに思った。
彼が、どこか……寂しそうに見えたから。
……でも、それも、きっとただのおせっかいだったんだろうな。