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Hydrangea  作者: 彩芭つづり
第1章 ひとりぼっちのカタツムリ
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第3話 不機嫌な彼

 職員室の真っ白な蛍光灯の下、わたしはぼんやりとクラス名簿を眺めていた。

 出席番号の最初から順に、一人一人の名前を指先でなぞっていく。


 やがて、爪の先がある生徒の名前でぴたりと止まる。

 声には出さず、くちびるをそっと動かして、その名前を口の中だけで呼んでみた。


 ……ああ、だめだ。

 思い出してしまう。

 彼の顔を頭に浮かべるだけで、さっきのあの子たちのせせら笑う声が、耳の奥で何度も繰り返し響いて――離れてくれない。


『あいつ、いつもこうだから。』

『すごく地味で、根暗で、じめじめしてて、いてもいなくても変わんないの』

『ナメクジっていうよりカタツムリじゃない?』

 

「――あの、」


 ふいに声をかけられた。

 はっとして顔を上げる。

 とっさに返そうとした声は裏返り、思わず間の抜けた返事になってしまった。


 目をぱちぱちと瞬きながら、その顔を見る。


「な、つの、くん」


 途切れ途切れに名前を呟くと、彼は不機嫌そうに眉をひそめながら、ノートを差し出してきた。


「……日誌」

「え」

「学級日誌。言われたとおり、持ってきました。……これで日直の仕事は終わりですよね」


 視線を落とすと、手渡されたのは、ホームルームのあとにわたしが渡した日誌だった。

 ……さっきまで、彼が教室で無言のまま『聞こえないふり』をしながら書いていた、あのノート。

 

「あ、ああ……日誌ね。うん、はい、ありがとう」


 言葉がもつれるようにお礼を口にして、日誌を受け取る。

 すると彼は、無言で軽く頭を下げると、そのまま踵を返した。


「失礼します」


 ……ああ、もう帰っちゃうんだ。

 みんなみたいに、わたしとは話をしてくれないんだ。


 心の中でそう呟いて、さらりと揺れる彼の襟足を目で追う。


 どうやら彼は、わたしにちっとも興味がないみたいだった。

 つねに素っ気なくて、目も合わせてくれなくて――他の生徒たちみたいに、わたしと他愛のない話をすることもない。


 必要最低限のやりとりだけで、すべてを終わらせてしまう。

 それは、教室の中でも、今この瞬間でも、変わらない。


 どれだけわたしが気にして声をかけても、結局返ってくるのは「はい」か「わかりました」だけ。


 きっと、頑張ったってその先へは進めないんだ。

 ……わたしは、ちゃんと話したいって思ってるのに。

 

 静かに扉が閉まり、その余韻が耳に残った。

 椅子から立ち上がったわたしは、すぐに彼を追って職員室を飛び出す。


 前を歩いていた学ランの背中に向かって、思わず声を張った。


「ま、待って!」


 ぴた、と足音が止まる。

 彼はゆっくりと振り返り、無表情のままこちらを見た。


「……なんですか」


 その声も、目つきも、態度も――どこまでも冷たい。

 思わず胸がすくみ、わたしは喉をこくりと鳴らした。

 

 ああ、まただ。

 こんなふうに見られたら……うまく喋れなくなる。

 

 ごまかすように視線を泳がせて、それから頬をかいた。

 曖昧な笑みを浮かべながら、思いつくままに声をかける。


「あ、ええと……もう帰るの?」

「帰りますけど。……どうしてそんなことを聞くんですか」

「ど、どうしてって……」

「まだなにか、やらなきゃいけないことがありますか」

「そういうわけじゃ、なくて……」

「それなら、なんですか」


 すっと目を細める彼に、わたしは言葉を失った。

 わずかに開いていたくちびるを、そっと閉じる。


 もうなにも言えない。

 続く言葉も、浮かんでこない。


 ああ、どうして呼び止めたりなんかしたんだろう。

 彼がどんな反応をするかなんて、最初からわかっていたはずなのに。


 わたしは、一体なにを期待していたんだろう。

 ……こんなの、ただ、悲しくなるだけなのに。

 

 わたしは小さくうなずいて、一歩だけ後ずさる。


「そ、そうだね。……なにもないよ。呼び止めちゃって、ごめんね」

「そうですか。それじゃあ」

「……うん。気をつけて帰ってね」


 軽く手を振る。

 夏野くんはわたしを一瞥して、再び背を向けた。


 もう振り返ることはなく、無言のまま、一定の歩調で遠ざかっていく。

 その背中を、ただ見つめていた。


 やがて彼の姿は、廊下の角でふっと消える。

 わたしはひとつ、ため息を吐いた。

 振っていた手が、自然と力なく降りていく。


 ほんの少しでも、言葉を交わせたら。

 ほんの少しでも、心を開いてくれたら。

 そんなふうに思った。

 彼が、どこか……寂しそうに見えたから。


 ……でも、それも、きっとただのおせっかいだったんだろうな。

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