第2話 地味で、根暗で、じめじめしてて
新任の教師というだけで、生徒たちの関心を集めるものなのだろうか。
放課後のチャイムが鳴ると同時に、わたしのまわりに生徒がわらわらと集まってきた。
それぞれが好き勝手に話しはじめ、声が重なってなにを言っているのかさっぱりわからない。
ひとりずつ順番に話してくれたら助かるんだけど。
……なんだか聖徳太子になったような気分。
教室いっぱいに渦巻く、圧倒的なエネルギー。
終わりの見えない質問攻めに戸惑いつつも、なんとか会話を繋いでいく。
大変だけど――こういう何気ないやりとりこそ、生徒との距離を縮める第一歩だ。
だから今日も、笑顔は忘れない。
「はい、質問!」
元気のいい男子生徒が、勢いよく手を挙げた。
「はい、どうぞ」
「晴花ちゃんって若いよね。今、何歳なの?」
おっと。
初手から年齢とは、さすが高校生。
遠慮ってものがない。
とはいえ、ここでも笑顔はキープ。
「22歳だよ」
「へえ、俺らとあんまり変わんないじゃん。それで、彼氏はいるの?」
今度は彼氏の有無。
思わずツッコミたくなる質問だけど、ここは教師としての冷静さを保つ。
「彼氏は……いないかな」
「マジ!? もったいない!」
「じゃあ俺、立候補!」
「はあ!? ずるいぞおまえ! 俺も立候補!」
次々に手を挙げる男子たち。
あちこちから手が挙がり、教室が一気にざわつく。
熱気に押されて、思わず苦笑いをこぼした。
「あーあ、また始まった。晴花ちゃん、バカな男子は放っといて、ウチらと話そ」
「そうそう。かわいい子を見ると、すぐこれなんだから。ホント、男子っていつまでたっても子どもだよねぇ」
元気な男子に、ませた女子。
にぎやかな空気に、わたしはただ曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。
……それにしても。
「……みんな、わたしのこと、ちゃんと“先生”って思ってる……?」
思わず、本音が口をついて出た。
さっきから呼ばれるのは、『水嶋先生』ではなく『晴花ちゃん』ばかり。
その距離感も、接し方も、まるで教師に対してではなく――転校生にでも話しかけているような感じで。
威厳なんて、どこにもない。
もちろん、生徒に親しまれるのは、教師として嬉しいことだ。
距離が近く、なんでも話せる先生。
それが理想であり、わたしもそんな存在を目指したいと思っている。
……けれど。
今のこの状況は、少し……違う気がする。
名前で呼ばれることも、打ち解けた態度も――先生と友達の境界線が曖昧なまま、流されているだけのようで。
でも、まずは信頼を築くことが先。
きっとこれも、ひとつの形だから。
わたしはそうやって自分に言い聞かせて、思うことを全部飲み込んだ。
騒がしかった教室も、気づけば少しずつ静けさを取り戻していた。
怒涛の質疑応答からようやく解放され、生徒たちが次々と下校していくのを見送りながら、わたしはそっと息をつく。
――わたしも、あんなふうだったのだろうか。
たしかに、年の近い教育実習生が来たときには、嬉しくてはしゃいだ記憶がある。
……でも、さすがに恋人の有無までは聞かなかった。
今の高校生は、ちょっと手強い。
教室を見渡すと、数人の生徒がまだ残っていた。
その中で――ひときわ目を引く一人の生徒がいた。
机に向かい、黙々と教科書を鞄へしまっている。
誰とも視線を交わさず、誰とも言葉を交わさず――教室の中で、一人だけ時間の流れが違うような静けさをまとっている男の子。
「……夏野くん」
名前を呼ぶと、彼はゆっくりと顔を上げた。
その動作は、水の底から浮かび上がるような、重たく、鈍やかなもので。
長く垂れた前髪が、表情のほとんどを覆っている。
こちらを見ているのかどうかもわからないまま、わたしは『日誌』と書かれたノートを、彼に見せるようにそっと掲げた。
「夏野くん、今日、日直だったよね。この日誌を書き終えたら、職員室まで持ってきてくれる?」
返事はない。
わたしは、ぱちぱちとまばたきをした。
「……夏野くん?」
首をかしげる。
声の調子をやわらげて、もう一度だけ名前を呼ぶ。
その直後、ごくかすかに、彼の口もとからため息が漏れた。
ほとんど聞き取れないほどの、小さな音――けれど、面倒そうな気配は、ひしひしと感じられた。
「……わかりました」
短い沈黙のあと、彼の口から漏れた声は、かすれて低かった。
その響きには、どこか不満の色が滲んでいた。
彼は鞄の中から、さっきしまったばかりのペンケースを無言で取り出すと、すっと立ち上がり、まっすぐこちらへ歩いてくる。
そして、わたしの手にあったノートを、ひと言もなく指先で掬うようにして取ると、そのまま背を向けて席へ戻った。
シンプルなシルバーのシャープペンを取り出し、ノートの新しいページを開いて、淡々と書き始める。
その一連の動作を見つめながら、わたしは思わずまばたきをした。
……冷たい。
あまりにも温度が感じられないその態度に、どう反応すればいいのかわからなくなる。
たしかに、日誌を書くのは面倒だろう。
一刻も早く帰りたいという気持ちも、わからなくはない。
それでも、もともとそれは日直の役目なのだし、仕方ない。
そんなふうにあからさまに嫌がらなくても……。
そんな思いが、表情に出てしまっていたのかもしれない。
わたしと彼のやりとりを見ていた一人の女生徒が、苦笑まじりに手をひらひらと振ってきた。
「晴花ちゃん、ドンマイ。夏野のことは、あんまり気にしないほうがいいよ」
「……え?」
思わず、小さく声が漏れる。
気にしないほうがいい、って――どういうこと?
「あいつ、いつもこうだから。誰に対してもそうなんだ」
「……でも……」
「だから、わざわざかまってやることないって。そんなヤツはさ」
笑いながら言い切ったその声に、思わず言葉が詰まる。
「だって、見てればわかるでしょ。夏野って、すごく地味で、根暗で、じめじめしてて、いてもいなくても変わんないの。ただそこにいるだけ。存在感、ちっともないし」
――胸の奥が、つきりと痛んだ。
たしかに彼は、目立つタイプではない。
誰かとはしゃいだり、話したりしている姿も、今日は一度も見なかった。
……でも。
だからといって、そんなふうに言うなんて。
「……そういうことを言うのは、あまりよくないと思うよ……」
小さく、けれど確かに。
わたしは勇気を出し、言った。
すると彼女は、少し肩をすくめて笑う。
「大丈夫だって。そいつ、なに言われても怒んないし。そもそも、ちゃんと聞こえてるのかどうかも怪しいしね」
その声が、教室の静けさに溶け込むように広がっていく。
特別大きな声ではなかったのに、不思議とその言葉だけが耳に残った。
ちらりと横目で彼をうかがう。
聞こえていないわけがない。
けれど彼は、なにひとつ気にする様子もなく、ただ黙々と日誌の記入を続けていた。
その平然とした態度に、わたしはくちびるを噛む。
……聞こえなかったんじゃない。
きっと、聞こえていないふりをしているのだと思う。
わたしが心配そうに彼を見つめるなか、教室の一角では、けらけらと笑い声が上がっていた。
「根暗でじめじめしてるって、そう考えれば夏野とナメクジってなんか似てるね」
「ナメクジってよりカタツムリじゃない? あいつ、誰にも心開かないし」
「あは、言えてる。自分の殻に閉じこもってばかりだもんね。誰かと話してるところだって、まだ一度も見たことないし」
「一日中黙ってなに考えてるんだろ。変な妄想してたりとか?」
「やだ、気持ち悪ーい」
――また、胸の奥が、つきりと痛んだ。
そっと彼に視線を戻す。
まるでなにも聞こえていないかのように、ただ黙々とノートの上に文字を連ねていた。
その横顔には、怒りも、悲しみも、なにひとつ浮かんでいない。
本当に――ただの、『無』で。
女子生徒たちはひとしきり笑い終えると、「じゃあね」と手を振って教室を出ていった。
笑い声の余韻だけが、空気に置き去りにされたまま残っている。
わたしは、なにも言えなかった自分を悔やみながら、くちびるを強く引き結んだ。
教卓からそっと身を引き、音を立てないように扉を開けて廊下へ出る。
どこか遠くから、甲高い笑い声が反響する。
それが、まるで背中にまとわりつくように、いつまでも消えずにいた。