第28話 太陽とあじさい
「うう……わたし、だめだめだなぁ」
ベッドに腰をかけ、大きなため息をつく。
そんなわたしの顔を、雨月がひょこりと覗いてきた。
……そんな子犬みたいな目で見つめないでほしい。
ただでさえ自責の念に駆られてるんだから。
「今に始まったことじゃないだろ」
「……どういう意味?」
「晴花がだめだめなのは、むかしからだってこと」
……辛辣だ。
相変わらず容赦がない。
この幼なじみは、気遣いという言葉を知らないのだろうか。
あまりにはっきりと言われるから、なんか悲しくなってきた。
「ひどくない? わたし、そんなだめなとこある? 身に覚えがないんだけど」
「それ、本気で言ってる? 晴花のだめだめエピソードなら山ほどあるけど。小学生のときに運んでた給食まるまるひっくり返して隣のクラスから分けてもらったり、受験の日にいちばん大切な受験票が入った鞄を電車に置き忘れたり、おとなになってからもモールで迷子になって館内放送で呼び出されたり、あとはつい最近も……」
「わ、わー本当だね! ホントわたしってむかしからだめだめだよね挙げたらきりがないねわかったからもうやめようお願いだから!」
物心がつく前から一緒にいる雨月だから、わたしの抜けているところを挙げられたら十個は――いや、軽く百個くらいは言われてしまう。
恐ろしい。
わたしがおっちょこちょいなことは、雨月に言われなくたって自分がいちばんよくわかっている。
……だけど今言ってるのは、そういうことじゃないのだ。
わたしは再び深いため息をつく。
「……雨月だってわかるでしょ。本当はこういうことをするの、よくないじゃない」
「こういうことって、なに?」
「だから、こういう……こ、恋人同士がする、みたいなこと」
「してないじゃん」
雨月はすねたように、むう、とくちびるをとがらせる。
「おれは先に進みたかったのに、晴花がこれ以上は絶対だめって言ったから」
「そんな顔してないでよ。だめなものはだめなの。……でも、ほら、途中までしちゃったし」
「全然してない。キス止まりだよ」
「だからそれがだめなんだってばぁ……」
頭を抱えるわたし。
対して雨月はあっけらかんとしている。
わたしが葛藤で苦しんでいるのを心底不思議そうに見ながら、「なにがだめなの?」と純粋な瞳で問うてくる。
いや、なんでって……。
「当然でしょ。だってわたしたち、先生と生徒なんだよ。それなのに、好きとか、あまつさえキスとか……本当にまずいと思う。罪悪感で押し潰されそう……どうしたらいいの……」
「なんだ、そんなことか」
そんなこと、って。
あまりに楽観視している雨月に衝撃を受ける。
危機感がなさすぎる。
雨月はなんにもわかっていない。
わたしたちがどれだけ重大なことを犯しているのか、ちっとも自覚していない。
グレーどころか完全にアウトな案件だ。
「そんなこと」で済まされる問題じゃない。
……教育者というわたしの立場では、とくに。
わたしは雨月を見やる。
恨むようなじっとりとした視線を向けると、雨月はぱちりとまばたきを一度した。
「なに、その目」
「……わたしはこんなに自己嫌悪に陥ってるのに、雨月は平然としてるのが、なんだか不公平な気がして」
「平然? 晴花には、おれがそう見える?」
「見える、すごく。顔色ひとつ変えないで堂々と触れてくるもん。……違うの?」
「違う、全然」
ふるふると首を横に振る雨月。
あんなになんとも思ってないみたいな顔をしてキスしてきたくせに、なにが違うというのだろう。
ふいに目が合う。
視線がぶつかる。
それからわたしの手を取ると、雨月はそっと自分の胸にあてた。
雨月の心臓の上で、お互いの手が重なる。
「わかる? おれの心臓、どきどきしてるの」
雨月のぬくもりが、心臓の音が、てのひらから流れ込むようにこっちに伝わってくる。
本当だ。
……すごくどきどきしてる。
「晴花が隣にいるだけで鼓動がうるさいから、聞こえてるんじゃないかっていつも心配だった。なんとも思ってないふりするのが、どれだけ大変だったか。それなのに晴花は、一緒にお昼を食べようとか、おれと話せなくなるのが嫌だとか、かわいいことばっかり言っておれを困らせるんだ。どういうつもりだよ」
「か、かわ……? あ、えと、それは、その……ごめん」
「わかればいいんだ。これでわかっただろ。晴花を目の前にして平然となんてできるわけないよ」
そう伝えてから、そっとわたしの手を下ろす雨月。
わたしは、まだ雨月のぬくもりが残る自分の手を握った。
平気そうな顔で淡々と触れてくるから、ずいぶんと余裕なんだなと思っていた。
ポーカーフェイスでほとんど感情を出さないから、なんにも知らなかった。
……本当は、雨月もこんなにどきどきしていたなんて。
「だからさ、仕方ないと思うんだ」
ふいに、雨月が言う。
わたしは顔を上げ、ゆるりと首をかしげた。
「なにが仕方ないの?」
「晴花は、先生と生徒だってことをすごく気にするけど、その前におれたちは男と女だから。お互いの魅力に惹かれ合うのは、仕方ないよ」
雨月は、にっとくちびるに弧を描く。
う、と声が漏れた。
両手をひざの上に降ろして、わたしはくちびるをとがらせる。
「そっか……いや、そうだけど……そうなのかな……うまく丸め込まれてる気がする……」
「丸め込んでない。だってそうだろ。だいたい晴花が先生になる前から、おれはずっと晴花のことが好きだったんだ。何年間恋してると思ってるんだよ。そんなの、先生になった晴花が悪い」
「ええっ? そ、そんなぁ……」
そこまで言う?
本当に容赦がない人だ。
情けない声をあげて涙目で雨月を見やると、少しの間を置いてからまたけらけらと笑った。
「冗談。晴花の夢は、おれの夢だったから。晴花が先生になれて、おれも嬉しいと思ってるよ」
「……もう、雨月の意地悪……」
「ごめん。晴花の反応がかわいいから、ついいじめたくなるんだ」
よしよし、と優しく頭を撫でられる。
完全に子ども扱いされているのはわかっているのだけれど……雨月の大きなてのひらは、なんだかとても心地よくて。
ご主人さまに撫でられるわんこみたいに、わたしはおとなしく雨月の手を受け入れた。
雨月はわたしの髪にそっと指を通す。
さらさらと流れる髪を見ながら、幸せそうにほほえんでいる。
そんな彼を横目で見ながら、わたしは小声でつぶやいた。
「……雨月、なんだか変わったね」
「変わった? おれが?」
「うん」
「どこが?」
「うーん、なんだろ……吹っ切れた、っていうか……雲がかかってもやもやしてた心が晴れたように見えるのかな……昼間の雨月と今の雨月は、まるで別人みたい」
変わったのは、クラスメイトの前で本当の自分をさらけ出してからだ。
今日の昼間までは、いつもと同じ自分の殻に閉じこもってじめじめしているだけの彼だった。
なのに、今では自ら望んで殻の外に出てきているみたいに見える。
雨月は「ふうん」と首をかしげた。
「それは晴花の前だから、そう見えるだけでしょ」
「みんなの前では、まだむかしの雨月のままなの?」
「そうだよ」
「せっかく仲よくなろうって声をかけてもらえたのに……?」
「うん。でも、おれはそれでいいと思ってる」
そんな、もったいない。
いい友だちができそうなのに、どうして。
「わたし、協力するよ。雨月にたくさん友だちができるように。そりゃ、おっちょこちょいでだめだめだから、なにかと失敗していろいろと迷惑かけちゃうかもだけど、それでも雨月には……」
「晴花」
名前を呼び、雨月がふいにわたしの体を優しく抱きしめた。
耳もとで聞こえる雨月の優しい声に、思わずこくりとつばを飲む。
「晴花だけじゃない、おれだって晴花にたくさん迷惑をかけてる。学校で晴花に名前を呼ばれるたびに、いまだに気恥ずかしくてちゃんと返事ができなかったり、普段だって優しくしようと思ってるくせに素っ気ない態度をとっちゃったり、あとは、陰気で湿っぽいこんな性格だから、あいつらからカタツムリだとか言われて心配かけたり……。べつに一人が寂しいわけじゃないって思ってたけれど、それでもたぶん、無意識に傷ついてたんだ。これ以上傷つきたくないから、もっと自分の殻の深いところに閉じこもって、おれは平気だって自分に言い聞かせて予防線を張ってた。
……だけど晴花はきっと、そんなおれにとっくに気がついてたんだな。晴花はずっとおれを支えてくれてた。晴花は気づいてないかもしれないけれど、いくらまわりになにを言われたって晴花が隣で笑顔でいつづけてくれたから、おれは生きてこられたんだよ。ありがとう、晴花」
雨月の本心が優しげな声音に乗せて、胸の中にゆっくりと溶け込んでいく。
ありがとうの言葉に、思わず泣いてしまいそうになった。
気持ちをほとんど表情に出さない子だから、そんなことを思っていただなんて全然知らなかったから。
嬉しくて、幸せで、胸の奥がきゅうとなる。
かわいい雨月。
わたしの雨月。
むかしから変わらない、素直なままの、わたしの大切な幼なじみ。
わたしは、わたしの体を抱きしめる雨月の腕にそっと触れた。
「こちらこそありがとうだよ。雨月がいたから、わたしはがんばってこられたの。ずっとわたしのそばにいてくれて、ありがとう、雨月」
雨月が優しく笑う。
わたしもほほえみ返した。
「雨月の気持ちを聞けてよかった。一人を寂しく思うなら、これからはクラスのみんなと仲よく過ごせるように、わたしも精いっぱいサポートするね」
「いや、だから、それはいい」
即答の否定に、思わず一拍置いてから「へ?」と聞き返す。
……いいって、どういうこと?
「おれは今のままでいい。カタツムリのままでいたい」
あまりにもはっきりとした言葉。
まるで胸を張るように堂々と告げられた内容。
わたしにはひとつの思いしか生まれない。
……なんで?
「でもさっき、一人は寂しいって……」
「それとこれとは話が別だよ。おれには晴花さえいてくれたらそれでいい」
「そういうわけにもいかないよ。クラスの子たちとは仲よくしてほしいの。あの子たちはいい子だよ。友だちになれれば、きっと楽しいから」
「無理だよ。だって、あいつらと関わると面倒だし、ろくなことがなさそうだろ。だいたいおれの晴花に対してあんなふうに下品に絡むの本気でやめてほしいんだよな、毎度毎度見てていらいらするんだよ、おれの断りもなしに勝手に晴花を下の名前で呼ぶなんておかしいだろなんだよ晴花ちゃんってホント腹立つ何様なんだよいつか絶対わからせてやる」
だんだんと早口にまくしたてる雨月に、わたしは慌ててまあまあとなだめる。
こんなに感情を露わにするなんて雨月らしくない。
怖い怖い。
落ち着いて。
「で、でもさ、よく考えてみて。ほら、今年は雨月にとって最後の高校生活なんだから、少しくらいは友だちを作って、高校生らしくわいわい過ごしてみたら……」
「いいんだよ」
わたしを抱きしめる腕に、ほんの少しの力が込められる。
苦しくはないけれど、逃げられないくらいの、そんな力。
「晴花のそばにずっといられるのなら、おれはカタツムリでじゅうぶんだ」
ひくりと咽頭が鳴る。
目尻がぴくりと引きつった。
うそでしょう、と心の中で叫んだ声は、きっと雨月には届かない。
「できることなら晴花にもずっとおれのそばを離れてほしくないと思ってるんだけど」
「……それは、どういう意味……?」
「そのままの意味。校内にいるときや登下校のときはもちろん、家にいるときでもずっと。24時間365日離れたくない。ずっと近くに置いておきたい。鍵かけて鳥かごに閉じ込めておきたい」
ええ、怖……。
それって監禁じゃない……?
目が本気なのがなおさら恐ろしい。
雨月ならしれっとやりかねない。
ドン引きしているわたしを見て、雨月は肩をすくめた。
「ま、さすがにしないけどね。おれはTPOをわきまえた常識人だから」
「当たり前だよ……」
「だから、合法的に常に隣にいられるように、一緒に住もうって言ったんだ」
「……またその話?」
「またってなんだよ。おれは本気だ。心配なんだよ。あいつらのことをいい子って言っちゃうレベルで晴花は騙されやすいから、誘われたらすぐふらふらと誰彼構わずついていくだろ。甘いものごちそうするからついてきなって言われたら喜んでしっぽ振ってついていきそうだもんな」
バカにしないでほしい。
さすがにそれはない。
いくら甘いもの好きでも、知らない人にはついていかないから。
ちゃんと小学校で習ったし。
それにしても雨月ってば、本当にわたしを子ども扱いする。
というか、実際に子どもだと思っているのだと思う。
これでもわたしのほうが年上なんだけどな。
どれだけ心配性なんだか。
「とにかく、さ」
雨月が、わたしの頬に手を触れる。
「なににしても、おれは晴花のもので、晴花もおれのものだってことを肝に銘じておいて。絶対に忘れないで」
「わあ……すごい独占欲。雨月ってそんな束縛する子だったっけ。わたし、みんなの先生なんだけど。困っちゃうな」
「なんとでも言えば」
そうつぶやいてから、雨月はわたしを抱き寄せる。
それから、わたしの耳朶にくちびるを触れさせ、吐息を吹き込むように、あまやかに宣言する。
「おれがカタツムリなら、晴花はおれの太陽で、あじさいだ。誰にも渡さないし、触れさせない。……なにがなんでも、絶対に」
ずいぶんと攻撃的で縄張り意識の強いカタツムリに懐かれてしまったものだ。
そんなふうに呆れながらも、わたしは正直嬉しかった。
こんなに強く深く想ってくれるのであれば、鍵をかけて閉じ込められるのも悪くないかもしれない――なんて、思ったことは内緒にしておこう。
わたしは口もとに笑みを浮かべて小さくうなずくと、よっつ年下の幼なじみのやけに大人びたその胸に、そっと体を預けて目を閉じた。
fin.
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました!
このお話を読んだあとに、back numberの「僕の名前を」を聴いていただけると嬉しいです。
また、このあと番外編に続きます。
よろしければ引き続き読んでいただけたら幸いです。
よろしくお願いいたします。




