第25話 勝負の行方
なんとか雨月を説得し、二人で教室へと戻る。
扉を開けた瞬間に、生徒たちがわっと駆け寄ってきた。
「夏野!」
突然クラスメイトに囲まれた雨月は、猫のように目を丸くした。
「夏野、疑って本当にごめん!」
「まさか備品と一緒に片づけただなんて、誰も思ってなくて……」
「あんな言い方して悪かったよ……夏野」
「本当にごめんなさい。私たちのこと、許してくれる……?」
最初は驚いた表情をしていた雨月だったけれど、だんだんといつものすまし顔に戻ってきた。
申し訳なさげな顔つきで謝ってくる生徒たちに囲まれて、雨月がぽつりとつぶやく。
「……おれは」
こくりと生徒たちが息を飲む。
「最初から、怒ってない」
そういう雨月の顔には、たしかに怒りの色は見えなかった。
クラスメイトたちが安心したようにほっと胸を撫で下ろす。
……しかし。
「でも」
その声に、再び全員が雨月を見やった。
教室中に緊張が走る。
小さく深呼吸をして、雨月がゆっくりとわたしを見る。
「……謝るなら、おれじゃなくて水嶋先生に」
え、と声が漏れる。
ふいに、みんなの視線がわたしに向いた。
生徒たちが顔を見合わせ、うなずき合う。
そしてわたしのほうへと体を向けた。
「晴花ちゃん、……ううん。水嶋先生、ごめんなさい」
「ごめんね、水嶋先生……」
「あんなこと言ってひどかったと思ってるよ……」
「クラス全員、水嶋先生がやったなんて本当は思ってなかったんだ。でも八つ当たりしちゃって……」
「傷ついたよね……」
しょんぼりと頭を下げる生徒たちに、わたしは胸がいっぱいになる。
その中心にいる雨月に目をやると、口もとだけでうっすらと笑みを浮かべていた……ような気がした。
わたしはゆるりとかぶりを振って、満面の笑顔を見せた。
「大丈夫だよ。みんな、ありがとう」
* * *
「夏野、これ」
帰りのホームルームも終わり、問題も無事に解決して、今度こそそれぞれいい笑顔のままで教室を出て行く。
だけど、まだ残っていた数人の生徒が、雨月のまわりに集まってきた。
その中の一人――髪を明るく染めた男子生徒が、雨月に教科書やペンケースを差し出す。
「これ、教室を出ていくときに、おまえがぶちまけた荷物」
ああ、と小さくつぶやくと、その荷物を雨月が受け取る。
生徒はニッと笑顔を見せて、雨月の肩に手を回した。
「おまえ、結構やるじゃん。見直したぜ!」
突然のことに目をみはる雨月。
まわりの生徒たちも、興奮したように話す。
「ホントホント。あんなふうに怒るなんてびっくりしたよ」
「ずっと暗くて陰気くさいやつだと思ってたけど、かっこいいじゃん!」
「卒業まであと半年もないけど、今度からいろいろ話そうぜ。三年間同じクラスだったのに、今まで全然話さなかったからな」
話しかけてくる生徒たちに、雨月は困ったような表情でわたしを見る。
今まで友だちという存在がいなかった雨月は、きっとどうしたらいいのかわからないのだろう。
でも、これから少しずつ覚えていけばいいのだ。
友だちとの関わり方も、おしゃべりの楽しさも、青春の甘酸っぱさも……高校生活は、まだ半年も残っているのだから。
わたしはなにも言わずにほほえむと、雨月は目をそらし、少し恥ずかしげに「……わかった」とまんざらでもなさげにつぶやいた。
残っていた生徒たちを見送り、ずいぶんと静かになって橙色に濡れる夕暮れの教室。
自分の席に座り窓の外を眺めていた雨月は、誰もいなくなったタイミングでそっとわたしに視線を向けてくる。
それからひとつ息を吐き出し、腰を上げた。
わたしを見つめながら、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
教室の中腹までやってきて、くちびるを開きかけた、そのとき。
「夏野くん」
ふいに名前を呼ばれた雨月は足を止め、そっと声の聞こえたほうへと顔を向ける。
女子生徒が一人、扉のところに立っていた。
「……似鳥さん」
雨月がつぶやくように彼女の名前を口にすると、似鳥さんは薄く笑みを浮かべた。
「名前、やっと呼んでくれたね。覚えてくれたんだ。ずっと『あんた』だったのに」
雨月が頬をかく。
似鳥さんは雨月に向かい、ゆっくりと頭を下げた。
「今日はお疲れ様。大変だったね……いろいろと」
最後のひとことに、雨月があからさまに顔をしかめる。
そんな雨月にかまわずに、似鳥さんは頭を上げて、淡々とした態度で話し出す。
「あたしがなんで今こうして夏野くんに話しかけているか、夏野くんならわかるよね」
「……さあ」
「しらばっくれるのはよくないよ。忘れたわけじゃないよね。……文化祭の最中、あたしが特別棟の空き教室で、夏野くんに言ったこと」
似鳥さんはまっすぐに雨月の顔を見据え、はっきりとした口調で言う。
「あの返事、聞きに来たの」
雨月が苦々しい表情をする。
それでもかまわずに、似鳥さんは雨月に一歩詰め寄った。
「最後にもう一度だけ伝えるね。……あたし、夏野くんのことが好き。夏野くんにも、あたしのことを好きになってもらいたい。ずっとそう思ってた。一年のころから、ずっと」
突然の告白だった。
それを耳にしたわたしは、動揺を隠しきれなかった。
わたしが近くで見ているのに、そんなことは気にもせずに……ううん、まるでわたしは最初からここにいないみたいに、似鳥さんは堂々と雨月への想いを口にする。
うろたえるわたしとは反対に、雨月は落ち着いている様子だった。
それもそうかもしれない。
だってこの告白は、今日二度目なのだから。
一度目は、文化祭の真っ只中に、あの空き教室で行われていた。
「返事、聞かせて」
短い言葉で告白の返事を催促する。
似鳥さんの瞳はまっすぐ雨月を見据えて揺らがなかった。
半端な気持ちで告白しているのではないのだと、見ているだけのわたしにもわかる。
「ごめん」
雨月はしかし、はっきりと彼女の気持ちを断った。
「似鳥さんの気持ち、ちゃんとありがたいって思う。だけど、ごめん。……好きな人がいるんだ、おれ」
前にも聞いたせりふだった。
雨月には好きな人がいる。
誰なのかは知らないけれど、以前、すでに本人の口からそう聞いていた。
また胸がずきりと痛む。
「……うん、よかった」
ぽつりと、似鳥さんが言う。
よかった。
そんな言葉に、雨月はなにも言わずにじっと彼女を見つめる。
「これでやっと諦めがつくよ。もう夏野くんに執着しなくても済む。安心したな」
平坦な声。
……それでも、微かに震えていた。
まるで、無理に平静を装っているような。
似鳥さんはただまっすぐに雨月を見据え、またそっと口を開く。
「あのとき……夏野くんが売り上げを盗ったんじゃないかってみんなに疑われたとき。……あたしは、どうすることもできなかった。夏野くんを助けてあげられなかった」
それから似鳥さんは、薄いくちびるを引き結び。
「怖かった」
掠れた声に、胸がちくりと痛んだ。
そのたったひとことで、わたしはすべてを理解した。
あのとき似鳥さんは、雨月を助けようとしたのだと思う。
疑われた雨月に、好きだと思っている人に、救いの手を差し伸べようとした。
……だけど、あの空気のなかで、クラスメイト全員を敵に回すようなことはできなかった。
似鳥さんは普段からおとなしく、目立つようなタイプじゃない。
そんな彼女がたった一人で、クラスの全員から疑いの目を向けられている雨月を守るのはきっと難しかったのだろう。
もしかしたら今度は自分が標的になるかもしれない。
これがきっかけでいじめに遭うかもしれない。
そう考えたら、似鳥さんは差し伸べようとした手を引っ込めるしかなかったのだ。
……仕方のないことだと、わたしは思う。
年頃の生徒たちの心は、まるでガラスのように繊細だから。
どんなに好きでも、自分を犠牲にするのはかなり怖かったはずだ。
似鳥さんの本心に、雨月は眉を曇らせた。
「べつに……おれ、助けてくれなんて頼んでないし」
「うん、頼まれてないよね。……でも、わかるでしょ。あたしが勝手に助けたかったの。だって夏野くんはあたしの好きな人だから。好きな人を助けたいと思うのは当たり前の感情でしょ。違う?」
口もとに力のない笑みを浮かべて似鳥さんが言う。
素直すぎるまっすぐな似鳥さんの想いに、雨月はなにも言えなくなったみたいだった。
黙り込んで視線をそらす。
短い間を置いて、似鳥さんは小声で口を開いた。
「だけど、できなかった。あたしは怖くて諦めた。……でも、水嶋晴花はすぐに夏野くんを助けてた。あんな状況で夏野くんを守ったら、いくら先生だって自分がどうなるかなんてわかりきってるはずなのに」
ふいに、わたしの名前を口にする似鳥さん。
はっとして、わたしは彼女に目をやった。
似鳥さんはわたしをちらりと見たあとに、すぐに雨月へと視線を戻す。
「あたしにはできなかったことを、水嶋晴花はしたの」
雨月がわたしを見る。
はっとしたような顔で、目を丸くさせながら、まるでなにかに気づいたような表情をして。
そんな雨月にくすりと笑みを浮かべると、似鳥さんはゆるりと首をかしげた。
「水嶋晴花だけじゃない。夏野くんもそう。……水嶋晴花の差し伸べた手をとって、握った。そうすることで、夏野くんもまた水嶋晴花を救ったんだよ」
「……おれが、晴花を」
「夏野くんがあんなに感情的になった姿、今までに一度だって見たことがなかった。あなたを見てると、いつも新しい一面に気づかされる。こんなに長いあいだ見つめていても、ちっとも飽きない。夏野くんって本当に不思議な人」
そして、似鳥さんはふわりとほほえんだ。
「とってもかっこよかった」
その表情に、どきりとさせられる。
似鳥さんのそんな顔は初めて見た。
まるで秋風に揺れるコスモスのような、綺麗で優しい笑み。
みとれてしまいそうだった。
「水嶋晴花」
くるりと振り返った似鳥さんがわたしを呼ぶ。
思わず背筋がぴんと伸びる。
似鳥さんはふるふるとかぶりを振った。
「ううん……水嶋先生」
わたしを、そう呼んで。
似鳥さんは、わたしにも雨月に向けたような優しげな笑みを見せてくれた。
「負けました。あたしの負け。敗者はおとなしく身を引くことにします」
「負け……って」
「完敗もいいところだよね。あたしはあなたに負けたの。……あたしはあなたがうらやましかった。あたしがどんなにほしくても絶対に手に入れられないものを、あなたは最初から持ってた。それが憎くて、悔しくて、今までひどいことばかりを言って八つ当たりをしていたんです。……本当にごめんなさい」
頭を深く下げる似鳥さんに、わたしは慌てて頭を上げるように言った。
それから、ぽつりとつぶやくように問う。
「似鳥さんが手に入れられないものって、なに……?」
「そんなの、もうわかってるでしょ」
似鳥さんは意地悪な笑みを浮かべ、雨月を振り返った。
「ね、夏野くん」
突然そう言われて、雨月は困ったように頬をかく。
なにもわからないわたしは、頭の上にはてなを浮かべ、一人首をかしげた。




