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Hydrangea  作者: 彩芭つづり
第8章 白羽の矢
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第24話 笑っていてほしい

「――雨月!」

 

 震える手をぎゅっと握りしめる。

 まわりの目なんて、もう気にしていられない。

 そう思ったわたしは、教壇を蹴るように走りだし、彼の名を叫んで教室を飛び出していった。

 

 薄暗い廊下を駆け抜け、その角を曲がり、下りの階段を見降ろす。

 すると、なにも持たずに階段を降りていく学ランを着た背中をすぐに見つけた。

 

「雨月、待って!」

 

 声を張り上げて彼を呼ぶ。

 ぴた、とその足が止まった。

 雨月はゆっくりと振り返る。

 

「はる……水嶋、先生」

 

 は、と息を吐く。

 よかった。

 ……止まってくれた。

 

 階段の手すりに手を預け、もう片方の手で胸を押さえる。

 突然走り出したために息が切れてしまったのだ。

 呼吸を落ち着かせるように何度か深呼吸をし、まだ肩を上下させながらやっと雨月を見る。

 

「……り……あげ……」

「なに?」

「……う、売り上げが……見つかったの……っ」

 

 息もきれぎれにそう伝えると、雨月は静かにまばたきを一度だけした。


「……どこにあったの?」

「片づけのときに、間違って備品の段ボールに入れちゃったみたいで……実行委員の子が、さっき届けてくれて」


 わたしの言葉を聞き、雨月は薄いくちびるをそっと開く。

 

「……そう。じゃあ、水嶋先生の疑いは晴れたんだな。……よかった」

 

 それだけをつぶやいて、わたしから視線をそらして再び正面に向き直った。

 そのまま帰ってしまいそうな雰囲気に、わたしはまたほとんど叫ぶように言う。

 

「戻って、みんなに謝ってもらおう!」

「……べつにいいよ、そんなの」

「よくないよ!」

 

 ちっともよくない。

 だって、わたしを守るために一人で傷ついた雨月を想うと、悔しくて、悲しくて、切なくて。

 ……わたしが泣いてしまいそうになる。

 

「雨月、絶対に傷ついた……。あんなふうにみんなに疑われて……わたしのことまで守ってくれて……」

 

 ひくりと咽頭が震える。

 じわりと涙が滲み始める。

 

「傷ついてないよ」

 

 雨月は背中を向けたまま口を開く。

 

「おれはちっとも傷ついてない。まわりにどう思われたって、おれは全然かまわない。……ただ、」

 

 そうして、ほんの少しの間を置いて、

 

「……ただ、水嶋先生が疑われるのだけは、どうしても嫌だったんだ」

 

 あの言葉は、あの行為は、すべてがわたしを想ってのことだったのだと知る。

 そして雨月は言った。


「おれだけが疑われてたときには、怒りの感情なんてひとつもなかった。自分のことなんてどうでもよかったんだ。勝手に言わせとけって思ってた。……だけど、水嶋先生が悪く言われるのだけは、絶対に放っておけなくて、それで」


 あんなふうに、みんなの前で初めて感情を露わにした。

 

「あのままおれだけが悪者で、おれが盗んだことになってれば、水嶋先生は傷つかずに済んだのに……もっとちゃんと助けてあげられなくて、ごめん」


 ごめん、なんて謝らないでほしかった。

 いちばんつらかったのは、わたしじゃなく雨月なのに。

 

 雨月は優しい。

 優しいから、いつだって誰よりも深く傷ついてしまう。

 それなのに、誰も彼を傷つけたことを知らない。

 そうしてまた、雨月は一人殻の中へ閉じこもっていく。

 

 ……そんなの、

 

「いや、だ」

 

 震える声に、雨月ははっとしてわたしを振り返る。

 涙はもうこらえきれない。

 ここが学校だってことも、先生の立場だってことも、全部どうでもいい。

 溢れるように、涙も、言葉も、想いも、とめどなくこぼれ落ちていく。

 

「わたしは、嫌だよ……。雨月があんなふうにみんなに責められてる姿なんて見たくないよ……!」

「な、は、はる」

「守りたかったのに……雨月のことは、わたしがちゃんと守ってあげなきゃいけなかったのに……っ」

 

 子どものように涙を流すわたしを、雨月は慌てふためいた様子で目を見張り、見据えてきた。

 いてもたってもいられなくなったのか、雨月が階段をのぼり慌ててわたしの近くへとやってくる。

 袖で必死に涙を拭うわたしの顔を覗き込み、困った表情で頭を撫でてきた。

 

「なんで泣くんだよ……」

「ごめん、ごめんなさい……わたしのせいで……雨月を傷つけて、本当にごめんね……っ」

「おい……泣くなって……」

 

 なにを言われたって、涙は止まらない。

 優しくされればされるほど、風船が膨らんでいくように胸の痛みが大きくなっていく。

 ひっくひっくと嗚咽を漏らし、ただ涙をぼろぼろとこぼし、泣きながら何度も何度も謝った。

 

「雨月……ごめん……ごめんね」

「晴花、もういい、もういいから」

「だって、わたし……ごめん、ね、うづき、本当に、ごめんなさ――」

 

 ふいに手首を掴まれる。

 顔を上げた瞬間――やわらかい感触が、くちびるに押し当てられた。

 

「……晴花の泣き顔なんて、見たくない」


 ひく、と息が止まる。

 時間も止まる。

 

 涙に濡れた目を見張った。

 目の前にあるのは、頬をふわりと赤く染めながら眉をしかめる雨月の顔。

 

「おれは晴花に守ってもらおうなんて思ってない。おれが晴花を守りたい。だから、おれは教室であいつらにああ言ったんだ。……それなのに、今ここで泣いたら意味ないだろ」

 

 雨月に掴まれる手から、とけるほどの熱が伝わる。

 その指先から想いがとくとくと流れ込んでくるみたいだった。

 

 突然のできごとになにも言えないまま、呆然と彼を見つめる。

 雨月は、そんなわたしの瞳をまっすぐに見据えた。

 

「お願いだから泣くなよ、晴花。おれは、晴花に笑っててほしい。晴花の笑った顔が好きなんだ。ずっとずっと好きだった。その笑顔を守るためなら、なんだってやってやる。そう思えるくらいに」

 

 真面目な瞳。

 真剣な表情。

 雨月のこんな顔、初めて見た。

 むかしの泣きむしだったころの雨月からは想像もできないような、大人の男の人の顔だ。

 

 わたしはゆっくりとまばたきをして、涙に濡れたまつげをしっかりと押し上げた。

 雨月とまっすぐに視線を合わせ、それから、くちびるを薄く開き。

 

「……ねえ、雨月、なんで」

「なに」

「……なんで、わたしにキスしたの?」

 

 そう問うと、雨月はかあっと頬を赤らめて、ぱっと顔をそらした。

 それからぼそりとした声で、

 

「……晴花が泣き止むおまじない、の、つもり」

 

 思わぬ言葉に目をまたたく。

 おまじないだなんて、なんだか幼い子どもを相手にしているみたいだ。

 まだ目を丸くしているわたしを見ると、雨月は頬をかいてくちびるをつんととがらせた。

 

「なんだよ。……効果はあっただろ」

 

 照れ隠しのようにつぶやいたひとことに、わたしは思わずくすりと笑う。

 うん、そうだね、と返事をして雨月の手をそっと握った。

 

「……ありがと、雨月」


 わたしを守ってくれて、本当にありがとう。

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