第23話 消えた売り上げ
楽しい時間は、あっという間に過ぎていく。
閉会式を終えると、すぐに文化祭の後片づけが始まった。
校門に立っていた大きなアーチや廊下に貼ってあったたくさんのポスターが撤収されると、一気に見慣れた風景になる。
昼間は大勢の来客で大賑わいだった校内も、いつもの静かな雰囲気へと戻った。
借りていた学校の備品を段ボールにひとまとめにして、文化祭実行委員へと返せば教室の片づけは終わりだ。
校庭や体育館の片づけを終えた生徒たちも、それぞれが名残惜しそうに自分のクラスへと帰っていく。
わたしも同じように教室へ戻り、教壇に上がった。
「みんな、お疲れさま。模擬店、大盛況だったね!」
ぱちぱちと手を叩き、クラス全員の顔を見渡す。
学校一繁盛していたと噂されるうちのクラスの出し物は大成功に終わった。
わたしでもこんなに嬉しいのだから、きっとみんなはもっと嬉しいはずだ。
……そう、思っていたのに。
教壇の上から見た景色には、誰一人として笑顔の生徒はいなかった。
「……みんな、どうしたの?」
昼間見せていたあの活気の名残はどこにも見当たらず、曇天のようなどんよりとした重い空気だけがはびこっている。
異様な雰囲気だ。
教壇の前の席に座っている暗い顔をした一人の生徒は、伏せていた顔をゆっくりと上げ、掠れた声でこう言った。
「……売り上げが、消えちゃった」
ぼそりとつぶやかれた言葉に目をみはる。
え、と渇いた声が漏れた。
消えたって、どういうこと?
……まさか、なくなっちゃったの?
はっとして、みんなの顔を見まわす。
「売り上げがなくなったって、本当なの?」
聞いても、誰も返事をしない。
しんと静まり返った教室で、全員がただじっと机とにらめっこをしている。
「だ、誰か預かってる人はいない……?」
「いたらこんなことになってないって」
「でも、なくなるだなんて、そんな……」
「盗まれたんだろ、誰かに」
どこからか、ため息とともに聞こえた声。
まさか、そんなことが起きるなんて。
どくん、と心臓が跳ねる。
背中に、つうっと冷たい汗が流れた。
話を聞けば、閉会式の前にまとめて置いておいた売り上げが、片づけを終えて教室に戻ってきたらそのままそっくりなくなっていたらしい。
みんなで必死に探したけれど、どこにもないという。
最高に楽しかった高校最後の文化祭が、これでは悲しい思い出になってしまう。
どうしたらいいのだろうと悩んでいると、一人の生徒がぽつりとつぶやいた。
「ねえ、思ったんだけど。……夏野、ずっと一人で行動してたし、怪しくない?」
どきりとする。
慌てて顔を上げ、クラス全体を眺めた。
互いに視線を合わせながら、みんなはおもむろにうなずく。
「ああ、言われてみれば……」
「閉会式も最後に来たし、片づけも一人で動いてた。かなり怪しいよね」
「私もそうじゃないかって思ってた」
「鞄の中に売上隠してんじゃねーの」
待って。
なんで。
……どうして、そうなるの。
顔を上げれば、そこに雨月がいる。
だけどわたしは、見ることができなかった。
雨月が今どんな顔で、どんな気持ちでいるかを想像すると――つらくて、目を合わせることすらできなかった。
……先生なのに。
助けなきゃいけないのに。
「おい、夏野」
クラスの中心的人物である、髪を明るく染めて制服を着崩した一人の男子生徒が、突然席を立ち雨月の前に立つ。
ズボンのポケットに手を突っ込みながら、雨月を鋭く見下ろした。
「鞄の中、見せろよ」
「…………」
「なに黙ってんだよ。見せちゃまずいもんでも入ってんのか?」
完全に雨月を犯人扱いしている生徒に、わたしは半歩踏み出すように切迫した声をあげた。
「やめて……! そんな……まだなにもわからないのに、夏野くんを一方的に疑うのはよくないよ……!」
瞬間、生徒たちの視線がほとんどわたしに向けられる。
そのすべてが、しらじらしく冷えた瞳だった。
「あー、晴花ちゃん、また夏野のことかばうんだ」
「ていうかさ、夏野と晴花ちゃんって、なんだか関係怪しくない?」
「わかる、それずっと思ってた」
「夏野が盗んだこと知っててかばってるんじゃないの」
「もしかして共犯? やだー」
胸が抉られるように激しく痛む。
呼吸もうまくできなくなる。
違うのだと、そんなわけはないと、否定の言葉を叫びたくても、見えない誰かに首を絞められているみたいに声が出せない。
手が震える。
脚も震える。
クラスの生徒たちから冷たい視線を向けられれば、ここに立っていることすらつらくなる。
じわりと瞳に涙が滲み、視界がだんだんと霞んでいく。
教師なのに全然教師らしくできない。
こんなときでさえ、わたしはたった一人の生徒も救えない。
なけなしの勇気も散り散りに砕け散って、もう心の中は空っぽだ。
やっぱりわたし、この職業に向いていなかったんだ。
考えが甘かった。
もう笑えない。
こんな思いをするくらいなら、最初から――先生になんてならなければよかった。
「先生なのに生徒と恋愛したり、共謀して売り上げを盗んだり、ありえないことばっかりするよね、晴花ちゃん。――ねえ、なんで教師になんてなったの?」
心にぴり、とひびが入る。
がらがらと乾いた音をたてながら崩れ始めた。
……その瞬間。
「どいつもこいつもうるせえよ」
机が蹴られる激しい音に、クラス全員がはっとした。
わたしも、弾かれるように顔を上げる。
「おれの鞄になにが入ってるって? そんなに気になるなら好きなだけ見ろよ」
逆さになった鞄から、教科書や筆記用具が床にばら撒かれる。
目を見張り、教室のいちばんうしろの席で、空の鞄を手にまっすぐ背筋を伸ばし堂々と立つ男子生徒を見つめた。
彼も――雨月も、わたしをじっと見つめ返す。
突然のことに言葉を失うわたしに、雨月はわたしから視線を外すと、クラスメイトたちをぐるりと見やる。
「おれを疑うのはべつにいい。だけど水嶋先生を疑うのはやめろ。かばう? 共犯? ……はっ、笑わせんな」
そして、体の横できゅっとこぶしを握りしめ。
「自分のことよりいちばんに生徒を想うこの人が、そんなことをするわけないだろ」
普段は見せない雨月の態度に、クラスのみんなは黙り込む。
目を伏せて、くちびるを引き結び、誰もがなにも答えない。
「証拠もないくせに、どうにもならないからって他人に罪をなすりつけるなんて、最低だな。盗むわけないってわかってるのに、どうして水嶋先生のせいにするんだよ。全員で責めてその人を犯人にすれば、それで解決するのか。おまえらはそれで満足なのかよ。なあ、誰かなんとか言えよ」
髪を明るく染めた男子生徒は、くちびるを噛んで雨月から目をそらす。
他の生徒たちも黙ったまま、ひとことだって声を発さない。
雨月が言っていることは正鵠を射ていたのだろう。
冤罪でも、誰かが犠牲にならなければ生徒たちが抱えるどこにもぶつけようのない思いは晴らすことができなかったのだ。
そんなのは間違っていると正論を言ったとしても、きっと誰もが耳を貸そうとしなかったと思う。
雨月は小さく鼻を鳴らすと、持っていた鞄を床に放り投げた。
「帰る」
「えっ? あ、ちょっと、夏野くん……!」
突然の宣言。
慌てて引き止めるように手を伸ばしても、雨月は足を止めず、振り返ることもなく、さっさと教室から出て行ってしまった。
雨月のいなくなった教室に、しんと静寂がおとずれる。
……助けられなかった。
わたしはなにも言えないまま、後悔の思いだけを胸に抱き、彼が落としていった鞄の中身を涙に潤んだ瞳で見つめる。
もちろんそこには、売り上げなんてあるわけがない。
雨月がいつも使っていた教科書やペンケースだけが、さみしげに散らばっているだけだった。
「あのー、お取り込み中すみませーん」
ふいに、誰かの声が聞こえる。
顔を上げると、廊下の窓からひょこっと顔を出す他のクラスの生徒がいた。
腕には文化祭実行委員の腕章をつけている。
「これ、このクラスのじゃないですかー?」
伸ばした手に持っていたのは、白い布地の袋。
受け取り中を見てみると、厚みのある茶封筒が入っていた。
表には、模擬店で売り上げた金額と、三年一組の文字がある。
……これって、なくした売り上げ?
「……え? これ、どこで……」
「実行委員の事務所に置いてありましたー。返してもらった備品の段ボールの中にまぎれてたみたいですよ」
貴重品なので気をつけてくださいねー、と手を振り、文化祭実行委員の彼女は早々に帰っていく。
封筒を手にしたわたしは、呆然とその場に立ち尽くした。
「……売り上げ、あった……」
「片づけのときに誰かが間違って入れちゃったんだ……」
「じゃあ誰にも盗まれてなかったんじゃん……」
「結局ただの勘違いだったってこと……?」
クラスメイトたちは目をまたたき、焦りだす。
それぞれが顔を見合わせて、気まずそうな表情を浮かべる。
「……ねえ、ちょっと。夏野、帰っちゃったよ」
「みんなで疑っちゃったね……どうすんの、これ」
「謝ったほうがいいんじゃない?」
「でも、もういないし……」
どうしようと口を揃えて言うわりに、誰もが席を立とうとしない。
みんなが目を合わせるばかりで、いなくなった雨月を追いかけようとはしない。
あんなに疑っておいて。
あんなに傷つけておいて。
……そんなの、ひどいよ。




