第19話 好きな子に言われなきゃ
仕事の帰り。
その足で雨月の家に寄って、前に読んでみたいと言っていた小説を借りることになった。
それだけだと寂しいから、少しだけ話がしたいと言って、雨月の部屋に上げてもらった。
おばさんが淹れてくれた冷たくて甘いカフェオレをちびちび飲みながら、他愛のない会話をする。
……その中で、ふと彼女のことを言ってみた。
「そういえば今日、また似鳥さんに挑発されちゃったんだ」
できるだけ空気が重くならないように、「困った子だよねぇ」と笑いながら眉尻を下げる。
雨月はグラスを口につけたまま、むっと眉をひそめた。
「今度はなにを言われたの」
「なにって……」
――あなたは夏野くんのことが好きなの。
耳の奥にまだ貼りついている、似鳥さんの声。
脳裏にほくそ笑む彼女の姿が浮かんだ。
……だから、やめてよ。
わたしと雨月はそういう関係じゃないんだってば。
心の中でそう言って、頭に浮かぶ似鳥さんの姿を掻き消すように、ふるふるとかぶりを振った。
「……たいしたことじゃなかったけどね」
手を振って軽く流す。
なにも知らない雨月は、ふうんと鼻を鳴らした。
「晴花が平気って言うなら、べつにいいけど」
雨月は一拍置いて、
「でも、いい加減うっとうしいんだ、あいつ」
むっとした表情を浮かべる雨月に、わたしは少し驚いた。
そんな言い方をするなんて、めずらしいと思ったのだ。
いつもの雨月なら、だいたいのことなら「どうでもいい」と受け流すはずなのに。
「……めずらしいね。雨月がそんなに嫌がるなんて」
「あれだけしつこくされたら言いたくもなるよ。あいつ、おれを悪く言うくせに、ずっと近くにいるんだ。昼休みだってわざわざ屋上に来て、なにが楽しいのか横でずっとおれをけなしてくるんだよ。最近じゃ教室でもつきまとってくるようになったし。『根暗』『地味』『陰気くさい』って、そればっかり言ってくる。そう思うなら離れればいいのに、意味がわからない」
つっけんどんにそう言う雨月は、きっと似鳥さんの気持ちをまだ理解していない。
一度はっきりと口にはされたけれど、まだ信じてはいないんだ。
わたしはそっと自分の手もとに視線を落とす。
憎まれ口を叩いても、隣にいたいと願う彼女の気持ちは。
「……好き、なんだよ」
ぽつりとつぶやいた言葉に、雨月の視線がこちらに向くのを感じる。
わたしは雨月を見られなかった。
「ほら、だって言われてたじゃない、屋上で。……雨月のことが、好きなんだって」
信じられなくても、疑っていても、それはきっと本当のことで。
似鳥さんが雨月を悪く言うのも、愛情の裏返しだ。
あるいは、ひどいことばかりを言って改心させようとしているのかもしれない。
……根暗も地味も陰気くさいも、決してうそではないのだから。
二人の部屋に落ちる沈黙。
時計の秒針の音だけがちくたくと響く。
ほどなくして、小さく息を吐き出す音が聞こえた。
「……嬉しくないよ」
苦々しい雨月の声。
わたしは思わず顔を上げた。
雨月を見つめ、おうむ返しに問う。
「嬉しく、ない?」
「ちっとも嬉しくない。……そんなのは、好きな子に言われなきゃ、意味がない」
すねるようにむすっとした表情は、まるで恥ずかしさをこらえているように見えた。
まじまじと見つめると、それに気づいた雨月がわたしからふいと顔をそらす。
耳がほんのり赤みを帯びていた。
え、うそ。
その反応、もしかして……。
「……雨月、好きな子が、いるの?」
神妙に聞くと、雨月は、きゅ、とくちびるを引き結ぶ。
わたしから顔をそらしたまま、
「いちゃ悪いかよ」
と鼻を鳴らした。
わたしは目を丸くする。
数秒ほどして、慌ててかぶりを振った。
「あ、ううん、悪くないよ、全然悪くないっ」
気恥ずかしいのか、単に虫の居所が悪いだけなのか、雨月は小さく舌打ちをした。
カフェオレのグラスに視線を落とす。
吐き出したいため息をぐっとこらえた。
雨月には、好きな人なんていないと思っていた。
あんな学校生活を送る彼だから、好きになるような人ができるとはちっとも思えなかった。
……だけど、いたんだ。
好きな人が。
わたしの知らないあいだに、雨月は誰かに密かな恋心を抱いていた。
ほんの少しだけショックだった。
雨月はいつまでも弟のような存在で、これからもずっとわたしが支えていかなくちゃだめなんだと思っていたから。
今日、似鳥さんと話しているときに「雨月はあなたのものじゃない」と強く思ったはずなのに……無意識のうちに、わたしのほうが雨月を自分のものだと認識していたのかもしれない。
ああ、嫌だ。
どうしてわたしはこうなんだろう。
傲慢な自分に嫌気がさす。
なんでこんなに暗い気持ちになっているのかもわからない。
雨月の灰色な高校生活が色づくチャンスになるのだから、喜ばなくちゃいけないのに。
ちっとも嬉しいと思えない自分が嫌だった。
……わたしがなにを思おうが、誰を好きになるのも雨月の勝手で、わたしになんて関係ないはずなのに。
「そっか。じゃあ、実るといいね。……その恋」
くちびるに笑みを浮かべると、雨月はわたしと目を合わせないまま、また鼻を鳴らした。
「大きなお世話」
うん、わかってる。
ごめんね。




