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Hydrangea  作者: 彩芭つづり
第1章 ひとりぼっちのカタツムリ
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第1話 いわゆる問題児

 幼いころから、ずっと憧れていた。

 教壇に立ち、「先生」と呼ばれるその日を。

 誰かの未来をそっと照らすような、そんな大人になりたかった。

 勉強だけじゃない、大切なことも伝えていく。

 嬉しい日も、悲しい日も、分かち合いながら。


 ――ずっと夢見てきたその日が、今日、やってくる。


「みなさん、初めまして! 今日からこのクラスの副担任をつとめます、水嶋(みずしま)晴花(はるか)です! よろしくお願いしますっ」


 緊張は、きっと伝染する。

 だから、いつも笑顔でいること。


『笑っていれば運が向くわよ。あなたのチャームポイントは、その笑顔なんだから』


 今朝、家を出るときに、母が背中にそっとかけてくれた、魔法みたいな言葉。


 ……笑顔、笑顔、笑顔。

 うん、大丈夫。

 ぎこちないけど、わたし、ちゃんと笑えてる。

 

 深く息を吸って、そっと教室を見渡す。

 期待、不安、興味――そして、少しの不信感。


 いろんなまなざしが、じっとわたしを見つめている。

 まさに、“子ども”から“おとな”へと羽ばたこうとしている、その途中。


 わたしにとって、初めての教え子たち。

 彼らは、高校三年生だった。


 最後の一年。

 きっと、すべてが思い出になる一年。

 だからこそ、責任は、重い。


「よーし、それじゃあ水嶋先生に出欠確認をしてもらうぞー。おまえら、でかい声で返事しろよー」

 

 隣に立っていた担任の勝馬(かつま)先生が言う。

 黒いジャージを着て腕まくりをするその姿は、まさに体育教師っぽい。


「さ、水嶋先生、よろしくお願いします!」


 手渡されたクラス名簿を、少し震える手で受け取る。


 ――これが、夢にまで見た出欠確認。

 教壇の上で名前を呼ぶ日を、何度思い描いてきたことだろう。


 ……ああ、ついに、この瞬間がきたんだ。

  

「そっ、そそそれじゃあ……一人ずつ、名前を呼んでいきますね……!」


 緊張のせいで、声が裏返る。震える。

 口が勝手に噛んじゃう。


 するとすぐに、教室のどこかから茶化す声が飛んできた。


「センセー、肩の力抜いてくださーい」


 あちこちから、くすくすと笑い声がこぼれる。


 ……うう、たしかに。

 このままじゃ、完全に浮いてる。


 落ち着け、水嶋晴花。

 わたしは先生。

 堂々としてれば、それっぽく見えるんだから。

 ……きっと。


 こほん、と咳払いをひとつ。

 気を取り直して、胸を張る。


 出席番号順に、生徒たちの名前を呼び始めた。


 最初はやっぱり緊張していたけれど、返事の声が返ってくるたびに、少しずつ呼吸が整っていく。

 一人、また一人。

 名前を呼んで、応えてもらって――それがこんなにも嬉しくて、胸にしみるなんて、知らなかった。


 ……ほんのちょっとだけ、涙がにじんだのは、秘密にしておこう。


 出欠確認は、リズムよく進んでいった。

 ……けれど。

 半分ほど呼んだところで、その流れがぴたりと止まった。


 名簿にある名前を、見つめる。

 ゆっくりと視線を上げて、数回まばたきした。

 

夏野(なつの)くん」

 

 ……返事がない。

 

「夏野くん?」

 

 呼び掛けを重ねても、沈黙が返ってくるばかり。

 

「……ええと、あの、夏野くん……?」


 だけど彼は――ちゃんと、そこにいた。

 教室のいちばんうしろの席。

 姿勢よく、静かに座って。

 わたしのほうを……じっと見つめている。


 いるのに、返事をしない。

 わたしの声が、まるで届いていないかのように。


 こういう子も、いる。

 わかってる。

 わかってるけど……初日からこんなふうに無視されると、さすがに、ちょっと堪える。


 そっと隣をうかがうと、勝馬先生が小さくため息をついていた。

 呆れたような表情で、「またこいつか」とでも言いたげな顔をして。


 もう一度だけ――と、わたしは息を整え、意を決して声を出した。


「……夏野くん」


 その瞬間、彼の肩が、ほんのわずかに揺れた。

 諦めたように、小さくため息をひとつ。

 そして――教室のいちばんうしろから、ぽつりと。


「………………はい」


 たった一言。

 耳を澄ませなければ聞こえないほどの、かすれるような声が聞こえた。


 ――夏野くん。

 静かに、そこにいる。

 けれど、どこか遠くにいるような気配をまとった子。


 陽の光に触れたことがないみたいな、なめらかな白磁の肌。

 その白さを際立たせるように、黒の学ランがよく映えていた。


 染めたことのない真っ黒な髪が、風に揺れてさらりと頬をかすめる。

 長く垂れた前髪の奥――そこから、薄曇りのような眼差しが、じっとこちらを見返していた。


 目が合った瞬間、夏野くんはわずかに眉をひそめた。

 あからさまに不機嫌、というよりは鬱陶しいとでも言うような、そんな目。


 ため息をつきたいのは、本当はわたしのほう。

 ……そう思ったけれど、そんなことを言えるわけもなく。

 

 わたしは、代わりにふにゃりと困ったように笑った。


「……夏野くん、返事は、もう少し大きな声でね」


 もちろん、返ってくるわけもない。

 彼はただ、ふいと視線をそらすだけ。


 その横顔に、わたしはつい苦笑いをこぼす。


 ……こういう子のことを、『問題児』って言うのかな。

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