第17話 もっとずっとつらいこと
階段を上がり、雨月の部屋にそっと入る。
ミントブルーの壁紙に、黒のアイアン素材の家具や小物たち。
壁には、外国のバンドのポスター。
本棚には小説がぎっしり詰まっていて、オリエンタル系のアロマがふわりと香る。
男の子の部屋だな、といつも思う。
でも……慣れてるはずなのに、今は、どうしても視線が落ち着かない。
テーブルの上にドーナツの箱を置く。
雨月がベッドに腰を下ろした。
その姿を見るだけで、胸がぎゅっとなる。
ほんの少し前まで、あんなに遠く感じていたのに……今は、わたしの目の前にいる。
ここまで来たのなら、もう、黙っていたらだめだ。
覚悟を決めて、わたしは静かに口を開いた。
「あの、雨月……」
「なに」
「い、家に上げてくれて……ありがとう」
「べつに」
「その……またわたしと、話してくれるの……?」
冷え切った視線がこちらに向く。
思わず体を強張らせた。
わたしの質問に、雨月が「なんで?」と端的に聞く。
「おれ、晴花と話さないなんて言ってないけど」
「だって、あのときはもう話しかけるなって……」
「学校では、話しかけるなって言ったんだ」
こくり、とひとつ息を飲む。
「……それじゃあ、学校以外だったら、話してくれるの……?」
おそるおそる問いかける。
雨月は、少しの間、黙ったあと。
「……まあ、それは、話すけど」
そっけない返事をした。
ぱち、と目が合うと、雨月はふいと顔をそむける。
「……そ、そう、なんだ……」
細く、長く、息を吐く。
ぽそりと漏れた言葉が、胸の奥まで染みてきた。
それだけで、張りつめていた糸がぷつりと切れて、力が抜ける。
学校以外でなら話しかけていいなんて、知らなかった。
完全に関係を断たれたわけじゃなかったんだ。
また、雨月と話せる。
……よかった。
「なに、その顔」
「え?」
「安心したような顔」
そう言って、雨月は意地の悪い笑みを浮かべる。
小さく鼻を鳴らして、からかうような声で続けた。
「おれと話せるのが、そんなに嬉しい?」
きゅ、とくちびるを引き結ぶ。
雨月は、皮肉のつもりで言ったのかもしれないけれど。
……わたしはそれを、まっすぐな思いでとらえた。
そうすれば、答えなんて、ひとつしかない。
「そんなの……当たり前だよ。すごく嬉しいよ……嬉しいに決まってるよっ!」
突然の大声に、雨月の肩がびくりと揺れる。
目をみはる彼に、わたしはまっすぐ顔を向けて、小さな声でそっと伝えた。
「わたしは、雨月が大切。そう思ってるのに……無視され続けるのは、やっぱりつらいもん……」
悲しげに目を伏せると、雨月はそんなわたしを黙って見つめた。
なにも言わずに、ただ、じっと。
その視線を感じながら、わたしは思った。
――今なら言える。
ちゃんと、自分の気持ちを全部、伝えなきゃ。
泣かないように。
感情的にならないように。
一生懸命、言葉を探しながら――ひとつずつ、気持ちを紡ぐ。
「雨月、あのね。……あのとき、あんなこと言っちゃって……ごめんなさい。雨月とお昼を食べてるから仕事ができないだなんて、全部うそ。……本当は、屋上で雨月とお弁当を食べるの、毎日楽しみにしてた」
声が震える。
ぐっと両手を膝の上で握りしめ、こらえる。
「でも、似鳥さんのことがあって……似鳥さんが雨月を好きだって知ったら、もう一緒に過ごせないんだって思って。すごく、すごく、悲しくなっちゃって……」
涙が喉までこみ上げる。
だけど、泣くのはまだ早い。
伝えたいことが、まだある。
「雨月が遠くに行っちゃう気がして、嫌だったの。先生なのに、生徒にやきもち焼くなんておかしいよね。わかってるのに、我慢できなかった。だから強がって、思ってもいないことを言っちゃったの。……本当にごめんなさい……!」
深く頭を下げる。
許してもらえるまで、何度だって謝るつもりだった。
そうするために、わたしは今日、ここに来たのだから。
「教師のくせに、こんなことで生徒に頭下げて恥ずかしくないわけ?」
冷たい雨月の言葉に、奥歯を噛みしめる。
なにを言われたって、泣かない。
泣いたらだめ。
ちゃんと気持ちを伝えなくちゃ。
「……恥ずかしくないよ。全然恥ずかしくない。このくらい、いくらでもやるよ。だって、」
だって。
「雨月と話せなくなるほうが……もっとずっと、つらいから」
ずっと伝えたかった本当の気持ちを、やっとの思いで言葉にした途端――喉の奥が、かっと熱くなる。
膝の上で握ったこぶしは、ぷるぷると微かに震えていた。
それでも雨月の言葉を待ち続ける。
頭を下げたまま、じっと息をひそめて。
「……いいよ」
ぽつりと聞こえた声。
わたしは、はっと顔を上げた。
「もういい。……晴花のこと、許す」
目を見張ったまま、雨月をじっと見つめる。
……わたしのことを、許してくれるの?
「本当に……?」
「本当に」
「うそじゃない?」
「うそじゃない」
雨月は眉根を寄せて、ぼそりと。
「うそついたって、しょうがないだろ」
その瞬間、ぐらりと視界が揺れる。
じわりとにじんだ涙は、もう止まらない。
気づけば、ぽろぽろと頬を伝い、膝とカーペットを濡らしていた。
「……雨月……っ」
抑えようとする気持ちが崩れて、嗚咽がこぼれる。
まるで子どもみたいに声をあげて泣きながら、わたしは立ち上がって――。
「雨月! ホントにホントにごめんね! 許してくれてありがとうーっ」
勢いのまま、雨月を押し倒すようにぎゅっと抱きしめる。
その衝撃で、彼の体がぐらりとベッドに倒れ込んだ。
「はっ!? な、ちょ……っ、抱きつくのは、なし!」
ぺし、と額を叩かれる。
それでもわたしは嬉しくて、雨月を抱きしめる腕を離さなかった。
最初はもがいていた雨月も、やがて観念したようにおとなしくなる。
それをいいことに、わたしは雨月の胸もとに頬を擦り寄せた。
「えへへ……勇気出してここに来てよかったぁ」
「泣くほどじゃないだろ……」
「だって嬉しいんだもん」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったわたしを見て、雨月が呆れた表情をする。
本当に子どもかよ、なんてぼやきながら、ティッシュで顔を拭いてくれた。
その動作は雑で荒っぽかったけれど……それが、わたしには照れ隠しのように思えて、なんだか気持ちがあたたかくなった。
雨月に仲直りのお許しをもらい、すっかり元気を取り戻したわたしは、鼻歌まじりにドーナツの箱を開けた。
そういえば。
小さいころにケンカをしたときも、仲直りのきっかけは、いつもこのドーナツだったっけ。
一緒に食べて、自然と笑顔になって、また元どおりになれる――そんな魔法みたいなおやつ。
わたしたちは、むかしからなにも変わらないんだな。
そう思いながら、ドーナツをひとつ手に取る。
「ほら雨月、ドーナツ食べよっ」
「や、食べるけど、それ砂糖かかってるやつ……。甘くないほうがいい」
「気にしない気にしない。こっちも甘くておいしいよ。むかしは甘いの好きだったでしょ。ね、わたしが食べさせてあげよっか。はい、あーん」
「は? い、いや、そういうのいいから……」
「恥ずかしがらなくてもいいよ。わたしと雨月の仲じゃない。遠慮しないで、ほら」
口もとにドーナツを持っていくと、しぶしぶ口を開けてくれる。
はむ、とドーナツをかじると、雨月は小動物のように小さく頬を膨らませながら咀嚼した。
「どう、おいしい?」
「……おいしい、けど、甘い」
どこか不服げな雨月。
素直じゃない言いかたも、ちょっとすねた横顔も、全部がかわいい。
なんだか愛おしくて、わたしはうふふとほほえんだ。
「雨月、かわいい」
不意の言葉に、雨月はまんまるに目を見開く。
それから、ふっと顔をそらす。
ちらりと見えた耳が、ほんのり赤く染まっている――気がした。
「……晴花のばか」




