第16話 恋わずらいなんて
わたしが悪い。
全部、わたしが悪い。
あの日から、何度も何度もそうつぶやいて、夜が来るたびに涙を流した。
学校にいるあいだも、ふとした瞬間にあのときのことが蘇ってきて……ため息ばかりついている。
似鳥さんとの一件から、もう一週間以上が過ぎていた。
雨月には、学校では話しかけるなと言われたけれど……もちろん教室に行けば、嫌でも顔を合わせることになる。
ホームルームでも、授業でも、仕事をしていればどうしても声をかけなければいけないときはあるのに。
「あ、あの、うづ……夏野くん」
「…………」
「ええと、夏野くん? なつ……」
名前を呼んだだけで、すっと視線をそらされる。
授業のあとに声をかけようとしても、わたしのことなんて見えていないみたいに、いつも教室から出ていってしまう。
きっと、まだ怒っている。
当たり前だ。
あんなことを言ってしまったんだから。
悲しいけれど……当然の報いだと思う。
「あれ? なんか晴花ちゃん、夏野に無視されてない?」
「ホントだ、夏野のくせに生意気ー」
「ねえ、あいつとなにかあったの?」
わたしと雨月の様子を見て、生徒たちが興味ありげに声をかけてくる。
それはそうだ。
これだけあからさまなら、誰だって気づく。
以前の雨月は、無愛想でただ素っ気ないだけだったけれど……今はもうあきらかに「話しかけるな」という態度だ。
まわりからしてみれば、なにかがあったとしか思わないだろう。
心配してくれるのはありがたい。
だけど……この胸中を、生徒たちに話すわけにはいかなかった。
「大丈夫だよ、気にしないで」
「ええー、気になるよ。なにかあったんでしょ?」
「う、ううん、なにもないよ。……なにも……」
目を伏せ、細く息を吐き出す。
どれだけ平気なふりをしても、内心はぼろぼろだった。
ただ無視されるだけで、こんなにも胸が痛むなんて。
謝りたいのに、その機会すら与えてもらえない。
……それが、どうしようもなく、つらかった。
学校にいるかぎり、話しかけるチャンスがないわけではない。
勇気を出して、お昼休みに屋上へ行けば、きっと会えるのだと思う。
でも――自分からなんて、行けなかった。
あんなことを言ってしまったあとで、あんなことがあった場所に、どんな顔をして行けばいいのかわからない。
屋上へ続く階段を見上げては、足がすくむ。
そのまま昼休みが終わっていく日々を、もう何度繰り返しただろう。
言い訳にしていた仕事だって、結局一切手につかない。
あんなのは、どうせ最初からうそだった。
仕方なく特別棟の空き教室で、一人お昼を食べながら、中庭を挟んで向こう側にある屋上をじっと見つめる。
……そうすると、雨月と似鳥さんが一緒にいるのが見えた。
宣戦布告の日以来、似鳥さんはお昼を雨月と過ごすようになっていた。
晴れている日は屋上で、天気の悪い日はきっとどこかの空き教室で、二人でお昼を食べている。
それを考えては、落ち込んで……落ち込む自分に嫌気が差し、さらに落ち込んで。
終わらない負のループに陥って、深いため息をつきながら、お昼明けの授業に向かう。
それが、ここ最近のわたしの日課になっていた。
* * *
午後の授業が終わり、夕方の職員室はいつもより静かだった。
パソコンのキーを打つ音と、誰かがプリントをめくる音だけが響いている。
そんななかでわたしは、たまっていた仕事をひとつずつ片づけていた。
「どうしたんですか、水嶋先生」
ふいに、隣から声をかけられる。
顔を上げると、体育教師の勝馬先生が心配そうな面持ちでわたしを見つめていた。
「あの、どうしたって……なにがですか?」
「さっきからずっと、ため息ばかりついていますよ。なにかありましたか?」
目をまたたいた。
言われて、初めて気づく。
どうやらずっと無意識に、深いため息をついていたらしい。
まわりに不快な思いをさせてしまったのかと思うと、申し訳なくて……わたしは思わず頭を下げた。
「ご、ごめんなさい。心配していただいてありがとうございます。でも大丈夫です、なんでもありませんから」
「なんでもないって……そうは言っても、気になりますよ。笑顔が素敵な水嶋先生なのに、ここ最近はなんだかずっと表情が暗い気がするのですが……」
そこで勝馬先生は、はっと目を見開いた。
大きな体を大げさに揺らし、驚いた様子で声をひそめる。
「……まさか!」
どきりと胸が跳ねる。
もしかして――雨月のことで悩んでいるのがばれた?
緊張に体がぴしりとこわばる。
言い訳も思いつかず固まっていると、勝馬先生は神妙な顔つきで口を開いた。
「水嶋先生……恋わずらいですか!」
「恋……へ?」
間抜けな声が漏れる。
思わぬ方向からの爆弾に、頭の中が一瞬で真っ白になる。
恋わずらいって……あの、恋わずらい?
「ああ、いえ、まさか……」
「いい人が……できてしまったんですか……!」
「できてませんよ。生徒との向き合い方で悩んでいるだけで……そういったことは、なんにも」
「そうですか! そうですよね! ああ、よかった……。好きな人でもできたのかと思ってひやひやしましたよ!」
がっはっは、と大仰に笑う勝馬先生に、わたしは思わず苦笑いする。
……そう。
恋わずらいなんて、まさかだ。
* * *
インターホンを鳴らすと、マイクからいつもの明るい声が聞こえてきた。
少しためらいながら自分の名前を告げると、すぐに玄関の扉が開く。
中からエプロン姿のおばさんが出てきた。
「あら、ハルちゃん。どうしたの?」
「あ、おばさん、こんばんは……」
学校帰りに向かったのは――雨月の家だった。
夜に突然押しかけてしまって申し訳ないと思いつつ、胸の中はずっとどきどきと脈打っていた。
ただお隣さんの家に来ただけなのに、今日はいつもと違ってひどく緊張する。
ひとつ息を吐き、手に持っている箱を胸の高さに掲げた。
「あ、あの……ドーナツいっぱい買ってきたから、おすそわけで」
「えっ、ドーナツ?」
甘いもの好きなおばさんが、目をらんらんと輝かせる。
ふにゃりと笑みを浮かべて、頬に手を当てる姿は、いつもどおり。
「あらぁ、悪いわね。ちょうど甘いものが食べたかったのよ。いつもありがとうね」
「……いえ、べつに……」
喜ぶおばさんと、目を合わせられなかった。
だって、言えない。
おすそわけではなく……ここに来るための口実に、わざわざ買ってきたなんて。
ちら、とリビングのほうに目をやる。
「……ええと、あの……」
「え? ……ああ、雨月? 雨月ならリビングにいると思うけど。雨月ーっ!」
「あっ、い、いや、その、呼んでほしいわけじゃ……!」
そ、そんないきなり!
心の準備が整う前に、リビングの扉が開いた。
文庫本を片手に、前髪をピンで留めた雨月が現れる。
すでに制服から部屋着に着替えていて、いつもよりさらにリラックスした雰囲気だ。
……なのに、その視線だけは、やけに鋭い。
「……なに?」
「う、づき……」
わたしの姿を見ても、雨月は一切表情を変えない。
冷ややかな瞳が、まっすぐこちらを見据えてくる。
――怖い。
やっぱり、怒ってる。
自分から会いに来たくせに、言葉がなんにも出てこない。
なにを言うつもりだったのかわからなくなって、頭が真っ白になる。
そうしているあいだに、夕食作りの途中だったおばさんは、さっさとリビングへ戻ってしまった。
玄関には、わたしと雨月……二人きり。
ああ、気まずい。
張りつめた空気に、息ができなくなる。
……だけど、このままじゃいけない。
わたしは雨月と目を合わせないまま、手に持っている箱を差し出した。
「ド、ドーナツ、買ってきたんだ」
「…………」
「雨月、ここのドーナツ、むかし好きでよく食べてたから、どうかと思って。今は、あんまり食べないかな。あ、も、もちろん雨月のために甘くないドーナツもちゃんと買ってきたの。甘いの苦手だもんね。だから、その、ね……」
「…………」
とりとめなく口から言葉がこぼれていく。
それでも、返事がない。
おそるおそる顔を上げた瞬間――雨月のひどく冷酷な瞳と視線がぶつかった。
ひっ、と短く声を上げる。
まるで氷細工のように無表情。
少しでも触れれば、砕けてしまいそうなほど。
怒ってる。
怒ってる。
どうしよう。
……だめだ、怖い。
耐えられない。
「……ご、ごめんね、もう帰――」
「上がれば」
へ? と間抜けな声が漏れた。
雨月を見やると、あごでくいっと二階を指す。
「上がれば。リビングは、母さんがいるから……おれの部屋に行こう」
「え……い、いいの?」
「ドーナツ持ったままずっとそこにいても、しょうがないだろ」
しかめっ面のまま、それだけを言い残し、雨月はさっさと背を向けて階段をのぼっていく。
まだ頭が追いつかないけれど……わたしは靴を脱ぎ、慌ててスリッパを履いた。
「……お、おじゃまします……」
自分でも聞き取れないほどの小声でつぶやきながら、胸の中のどきどきを押さえるようにして――夏野家へと、足を踏み入れた。




