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Hydrangea  作者: 彩芭つづり
第4章 ひとひらの葉
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第15話 最初から頼んでない

 かちゃり、と扉が閉まる音が響いた。


 取り残された、わたしと雨月。

 ただ立ち尽くすしかなかった。

 現実味のない出来事に、言葉を失ったまま。


 それでも、この沈黙を続けるわけにはいかなくて。

 意識して、深く息を吸い込む。

 肺に空気を入れて、無理やり声を押し出した。


「……なんだったんだろうね、似鳥さん……」

「さあ。おれが聞きたい」

「……雨月、キスされてたね」

「うん。された」


 ぽつり、ぽつり。

 まるで他人事みたいな会話。

 けれど、雨月は思い出したように、ぐっと袖でくちびるを拭った。


「……あれ、おれのファーストキスだったのに」


 ずき、ずき、と胸の痛みが消えない。

 さっき見た光景が、何度も頭の中で繰り返される。

 くちびるが触れ合う、その瞬間。

 ――忘れたいのに、ずっと残っている。

 

 ……ああ、なんだろう、この気持ち。

 

 わたしが、違っていたのかな。

 雨月のために、昼休みを一緒に過ごすという選択は、間違いだった?

 わたしがそんなことを言い出さなければ、こんな未来はなかった?

 こんなに胸を痛めることも?

 雨月が――ファーストキスを、奪われることも?

 

 心の中がもやもやと濁っていく。

 胸の奥で感情がぐるぐると渦を巻く。

 いらいらして、ずきずきして、知らない想いが体の底からじわじわと湧き上がる。

 なんで。どうして。

 ……そればかりが、頭の中を埋め尽くす。

 

 行き場のないこの思いは、どうやって片づければいいのだろう。

 そもそもこれは、誰に向けた感情なのだろう。

 誰にいらだって、誰のために傷ついて、誰のせいで悩んでいるのだろう。

 

 考えても、考えても、答えになんて辿り着かない。

 なにもかもがわからない。

 考えることさえも、つらい。

 

 ……もう、なんにも考えたくない。

 

「……挑戦状だって」

「うん」

「わたし、敵視されてる」

「みたいだね」


 ぐ、と体の横でこぶしを握る。

 真っ黒い渦が、胸の中でどんどん大きくなっていく。

 

 吐き出したいのに、吐き出し方がわからない。

 誰かに受け止めてほしいのに、誰にもなにも知られたくない。

 

 矛盾している思いを押し殺し、わたしはせいいっぱいの笑みを浮かべた。

 

「……もう、やだな。雨月、全然空気なんかじゃないじゃん!」

 

 今の状況に似合わない、無理に明るく振る舞ったその声は、自分でもあまりにしらじらしいと思った。

 不自然さを感じたのか、雨月は顔をしかめる。

 

「空気だよ。晴花だって知ってるだろ。おれのクラスでの雰囲気」

「でも似鳥さんは、ちゃんと雨月を気にかけてくれてたよ。ずっと見てたって言ってたもん」

「なにかの間違いだ。あんなの、信じられない。おれは、ずっと空気だった」

「違うよ」

 

 冗談を言い合うときみたいに、笑い飛ばすように言う。

 

「今だって、こうして見てくれる人がいる。気にしてくれる人がいる。それだけで雨月は空気じゃないよ。……全然、違うんだよ」

 

 笑顔でそう言うわたしを、雨月はなぜか目を見開いて、じっと見てきた。

 驚いたような、困惑しているような……そんな複雑な表情で、わたしを見る。

 

 どうしたの? と問う間もなく、雨月はわたしの顔を覗き込んだ。

 

「……晴花」

 

 静かにわたしの名前を呼んで、続けた。

 

「なんで、泣いてるの」

 

 ――え、と声が漏れる。

 

 頬を伝う、なまあたたかい雫。

 自分でも、気づいていなかった。

 

「へ? ……あ、あれ。なんで、わたし……」

 

 どうして泣いているんだろう。

 そっと頬に手を触れると、指先に濡れた感触がにじむ。

 ぽた、ぽた、と滴る涙が、コンクリートの上で小さく弾ける。


 一度その存在を意識してしまえば、もうこらえることはできなかった。

 意思とは裏腹に、涙はあふれ、止まらなくなる。

 まるで――自分の心が、勝手に溶け出していくみたいに。

 

「晴花、晴花。どうしたんだよ」

 

 急に泣き出したわたしを、雨月は意味もわからないまま必死になだめようとする。

 名前を呼んで、背中をさすって、髪を撫でてくれる。

 ……そんな無自覚な優しさが痛かった。

 雨月に触れられれば触れられるほど――余計につらくなる。

 心の奥が、ぎゅうっと締めつけられる。

 

「いい、もういいから」

「いいって……だって、泣いてるじゃん」

「違う、違うの。これは……そう、嬉し涙。嬉し涙だよ。雨月は一人じゃなかったんだって知って、安心したの。本当に……それだけだから」

 

 自分のくちびるから紡ぎだされる言葉は、きっと全部がうそだった。

 この涙が嬉し涙ではないことくらい、自分がいちばんよく知っている。

 ……だけど、なんの涙なのかは、わたしにもわからない。

 ただ、とめどなく溢れ出てくる。

 

 深い呼吸を繰り返し、なんとか涙を止めようとする。

 ぽたぽたとこぼれる雫を、何度も手の甲で拭った。

 

 そして、震える喉から無理やり明るい声を絞り出して、わたしは雨月に笑いかける。

 

「ねえ、雨月。……わたし、もう、ここに来なくてもいいよね」

 

 雨月の目が見開いた。

 背中をさする手が、ぴたりと止まる。

 

 泣きながら無理に作った笑顔は、きっとひどく引きつっていた。

 それでもわたしは、明るい声音で雨月に言う。

 

「だって、雨月には似鳥さんがいるもんね。わたしが心配しなくてもいいんだよね。ああ、よかった! これでわたし、昼休みにも仕事ができるんだ。最近、自分の仕事がちっとも片づかなくて困ってたの。雨月と一緒にお昼を過ごしてたから、時間がなくて……」


 言葉が止まらない。

 止めたくても、止まらなかった。


「そうだ、似鳥さんにもちゃんと感謝しなきゃ。あとでありがとうって伝えなくちゃね。わたしの幼なじみを、どうぞよろしくって」

 

 ふ、と雨月の顔から表情が消える。

 わたしの背中に触れていた手が、すっと離れていった。

 

「……なに、それ」


 ぽつりと吐き出された言葉。

 それは低く、感情を押し殺したような、静かな怒りの声だった。


「おれ、頼んでない」


 俯き、長い前髪に隠れたその瞳は見えない。

 でも、見えなくてもわかる。

 雨月の心が……深く沈んでいく音がした。

 

「雨月……?」


 名前を呼びながら、揺れる前髪の奥を覗こうと、そっと手を伸ばす。


 けれど。


 ぱちん、と乾いた音が響いた。

 瞬間、手の甲にじんわりとした痛みが広がる。

 ……雨月が、迷いなく、わたしの手を振り払ったのだ。

 

「ここで一緒に昼休みを過ごしてくれなんて、おれ、最初から頼んでない」

 

 長い前髪のあいだから、強く睨む瞳に射貫かれる。

 自分の言ったことを後悔しても、もう遅い。

 わたしが自分を守るためだけに吐いた言葉の鋭刃は、無防備な雨月の心を傷つけた。

 ……深く、傷つけてしまった。

 

「あ……ち、違う、雨月、違うの」

「違わない。晴花もどうせ、おれをかわいそうだと思ってたんだろ。心の中で、ずっとおれを嘲笑ってたんだ。……あいつらと同じように」


 胸の奥がちりちりする。

 そんなふうに思わせるつもりなんて、なかった。

 ……微塵も、なかったのに。

 

「違う、ごめん、わたしはただ……」

 

 ――ただ、雨月の残りの高校生活を、少しでも笑顔のあるものにしたくて。

 

 ……そう思っても、言葉にはできなかった。

 きっと、そんなふうに思うことさえも、雨月にとってはいらない世話だ。

 ただの迷惑でしかないのだろう。

 

 目を伏せたままの雨月は、体の横でこぶしを握りしめた。

 

「なんか、むかつく」

「……雨月……」

「全部おれのせいかよ。そんなふうに思ってるんだったら、最初から来てほしくなかった。ずっと一人のままがよかった」


 その言葉を最後に、雨月はわたしの横を通り過ぎる。

 扉の前で立ち止まると、肩越しにほんのわずかだけ振り返った。

 その表情は影になって見えなかったけれど、かすれた声だけは、しっかりと耳に届いた。

 

「……もう学校でおれに話しかけないで」

「うづ……っ」


 雨月の背中を追おうとしたその瞬間――重たい扉が風に煽られ、大きな音をたてて勢いよく閉まる。

 まるで「追いかけてくるな」と拒絶されているみたいだった。


 わたしはその場に立ち尽くす。

 深く、深く、息を吐く。

 つらくて、苦しくて、でもどうすることもできなくて――。


 震える手で顔を覆った。

 

「……雨月……」

 

 ささやいた彼の名は、どこからか舞い落ちてきた一枚の葉とともに、彼方から吹きつける風に流されて消えていった。

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