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Hydrangea  作者: 彩芭つづり
第4章 ひとひらの葉
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第14話 宣戦布告のキス

 その言葉に、呼吸が止まった。

 胸の奥で、心臓がどくりと重く脈を打つ。


 ……好き?

 似鳥さんが? 雨月のことを?


 ドアノブを握る手がわずかに震えていた。

 気づけば、その手に力が入りすぎて、無意識のうちに扉を押し開けてしまっていた。


 ぎい――鉄製の扉が軋む音が、やけに大きく屋上に響く。


 まずい、と思ったときにはもう遅かった。

 二人の視線が、揃ってこちらに向けられる。

 逃げることも、隠れることも、言い訳すら許されない。


 頭が真っ白になった。

 なにを言えばいいのかわからない。

 

「えと、あの、その……」

 

 しどろもどろの末、やっと言えたのは――。


「……ごめん、なさい」


 雨月が、深いため息を吐く。

 呆れたような顔をしながら、ぐっと眉をひそめた。


 「ずっとそこにいたんですか。……()()()()


 ――その呼び方に、胸がちくりと痛んだ。


 雨月がわたしを「晴花」と呼ぶのは、特別なことじゃない。

 ずっと昔から、当たり前のようにそう呼ばれてきた。


 それなのに。

 今は、「水嶋先生」。


 正しいことだというのは、わかる。

 わたしがそう呼ぶように言ったのだ。

 

 だけど……その呼び方に、急に他人になったみたいな距離を感じてしまう。


 本当に自分勝手だ。

 自ら望んでおいて、そのくせ勝手に寂しくなって、勝手に傷ついて――。

 そんな自分が情けなくて、余計に苦しくなった。


 それでも、そんなわたしの気持ちなんて関係ないと言わんばかりに……雨月は、ひどく不愉快そうに顔をしかめた。

 

「盗み聞きなんて、趣味が悪いですよ」

「ち、違うよ。そんなつもりはなかったの……」


 そう言いつくろっても、雨月の目は疑いを含んだまま冷たい。

 

 ……そんな目で見ないでほしかった。

 わたしだって、こんな状況になるなんて思わなかったのだから。


 しゅんと肩を落としていると、雨月はさらに問いかけてきた。

 

「じゃあ、どんなつもりでそこに?」

「だ、だから、これはその……たまたま。そう、たまたまで――」

「へえ。それじゃあ、あなたが毎日ここで夏野くんと昼休みを一緒に過ごしているのも、たまたまだって言うんですね」


 不意に差し込まれたのは、似鳥さんの声だった。


 肩越しにこちらを振り返っていた彼女は、ゆっくりと体ごと向き直る。


「今こうして屋上に来たのも、たまたまなんですね。昨日も、おとといも、その前も、ずうっとたまたま。ただの偶然。夏野くんとの逢瀬のためではないのだと……そういうことで、いいんですね?」


 ひとつひとつの言葉に、棘が仕込まれている。

 まっすぐに向けられたその瞳には、わたしの心を見透かそうとする意志がはっきりと宿っていた。


 隠すつもりもない敵意に、胸をちくりと刺される。

 それでも、わたしはふるふるとかぶりを振った。


「逢瀬って……わたしは、べつに……っ」


 声がかすれた。

 気づけば、てのひらはじっとりと汗ばんでいる。

 喉の奥がひりついて、くちびるは乾いてうまく動かない。


 わたしと雨月の関係は、ただの教師と生徒。

 一緒にお昼を食べていただけ。

 それだって全部、雨月のためだった。

 やましいことも、うしろめたいことも――なにもない。


 ……そう、言いたいのに。


 言葉が出ない。

 喉が詰まって声にならない。

 滲み出る焦りの色を、隠すことができなかった。


「あれ? どうしたんですか、()()()()。なんだか焦ってるみたいですけど」


 フルネームで呼ばれたその響きが、じくじくと胸に刺さる。

 似鳥さんが、じっとわたしを見据えていた。


「……焦ってなんて……」

「とぼけるんですか? 自分でもわかってるくせに」


 こくりと息を飲む。

 背中を、つうっと冷たい汗が伝っていく。


 対する似鳥さんは、あくまで余裕の表情を崩さない。

 ゆるりと首をかしげると、肩でそろえた黒髪がさらりと揺れた。


「……それだけわかりやすく反応されたら、クロとしか言いようがないよね」


 その一言が、まるで判決のように響く。

 ぼそりと落とされた声の意味を、すぐには理解できなかった。

 

 どういうこと――と問いかける前に、似鳥さんはそっとまぶたを閉じた。

 

「見てればわかると思うけど、あたしはいつもひとりぼっち。夏野くんのことを言えないくらい、あたしにも友だちと呼べる存在がいない。誰かと話すことも、名前を呼ばれることも、誰かと一緒にお昼を食べることだって、全然ない。……だから、あたしの本当の性格を知っている人は、この学校には誰もいないの」


 そこで言葉をいったん切り、小さく息を吐く。

 それから、彼女はまた淡々と続けた。


「だけどね、家では違うんだ。家族だけは、あたしのすべてを知ってる。小さいころからずっとあたしを見てるから。……そんな家族に、よく言われることがあるの」

「……なんて……?」

 

 尋ねると、似鳥さんは閉じていたまぶたをゆっくりと開く。

 右手の人差し指をすっと立て、くちびるに添え、言った。

 

「『あなたって子は、本当に意地が悪いのね』――って」

 

 ぞくり、と背筋が粟立つ。

 まさか、という思いがこみ上げる。


 信じたくなかった。

 だって、そんなふうにはまるで見えなかったから。

 教室ではいつもおとなしくて、控えめで、誰とも争わない印象だった。

 彼女が「意地悪」だなんて……一度たりとも思ったことはなかった。


 最初は、なにかの冗談かと思った。

 でも、冗談にしては……声の抑揚も、こちらを見据える瞳の奥も、あまりに真剣すぎる。

 きっと――彼女は、うそをついていない。


 その告白に、本当なら「なにを言ってるの」と笑い飛ばしたかった。

 けれど、そんな気力や余裕は、もうどこにもなくて。

 ただ、息を詰めて、彼女の姿を見据えることしかできなかった。

 

 なにも言えないでいると、似鳥さんは立てた指をそっと下ろし、息を静かに吸う。

 そして、まるで独白のように言葉をこぼした。

 

「あたしも、自分でそう思う。あたしって人間は、すごく意地悪なんだ。幸せそうな人を見ると、とってもうらやましくなって、疎ましくなって……それを壊したくなる」

「……似鳥さん」

「あなたと話してるときの夏野くんって、すごく嬉しそうに笑うんです。それから……あなたもね」


 こくりと唾を飲む。

 言葉の端々に張りついた毒気を感じながら、揺れる瞳で彼女を見つめる。

 彼女は、それを楽しむように笑った。


「あは。動揺してます?」


 当然だ。

 動揺するに決まっている。


 そんなわたしのうろたえる様子をじっと観察していた似鳥さんは、ゆっくりとくちびるに弧を描いた。

 それは笑顔というよりも、まるで獲物を追い詰めた捕食者のそれに見えた。


「……あたし、あなたをもっと動揺させる方法、知ってますよ」

「え……?」

「しっかり見ていてくださいね、水嶋晴花」


 わたしを振り返っていた似鳥さんは、再び静かに体を戻し、雨月のほうへ向き直る。

 まるで舞台の上で幕が上がるような、なめらかで無駄のない動きだった。


「夏野くん」


 その声には、淡い甘さが滲んでいた。

 ひと言呼ぶだけで空気が変わるような、やわらかくて、熱を帯びた響き。


 彼女はそっと雨月の頬に両手を添える。

 そして、迷いのかけらもなく、顔をゆっくりと近づけ、つま先立ちで、そっと。


 ――そのまま、キスを、した。

 

 目を見張る。

 息を飲む。

 二人がくちびるを合わせるその瞬間は、まるで終わりのない永遠みたいだった。


 ……そう感じたのはわたしだけで。

 実際には、ほんの一瞬のできごとだったのだと思うけれど。

 

 二人がくちびるを離して、数秒。

 突然のくちづけに呆然としていた雨月は、ようやく我に返ったのか……頬を赤く染めながら、慌てて制服の袖で自分の口を荒っぽく拭った。

 

「な、なにするんだよ……っ」

 

 こんなふうに、感情をあらわにして赤面する雨月なんて、初めて見た。

 鋭いナイフで心臓を抉られたみたいに、今すぐに叫びたいほど、胸が痛んだ。

 

 だけど、うまく息を吐き出せない。

 喉がひりついて、言葉がなにも紡げない。

 ただ心が悲鳴をあげるだけで、わたしの口は、声すら出せない。

 ただ呆然と――その場に立ち尽くすだけ。

 

 ずきずき、ずきずき。

 ずっと痛い。

 ずっと胸の中で叫んでいる。

 

 なんで赤くなるの。

 なんで嫌だって突き飛ばさないの。

 なんでそんな顔を見せるの。

 なんでなんでなんで。

 

 ……知らない。

 こんな気持ち、わたしは知らない。

 ああ、なんか、もう――全部、嫌だ。

 

「……見ましたか、水嶋晴花。夏野くんとあたしがキスしたところ」

 

 振り返り、似鳥さんが言う。


 視界が揺れる。

 めまいがする。

 まるで重たい水の中に沈められたみたいに、息ができなくなる。

 直視することはできず……ただ、景色として二人の輪郭を認識するだけで精いっぱいだった。

 

「ほら、どうです? 動揺したでしょ?」

 

 動揺? どうして。

 たかが、キスだ。

 雨月が、誰かと、キスをしただけ。

 動揺なんてする理由は、どこにもない。


 ……なのに、胸が焼けるみたいに痛い。

 頭が真っ白になる。

 言葉も思考も、なにもかもが迷子になっていく。


 わたし、今――動揺してるの?

 

「水嶋晴花。あたしは、あなたに挑戦状を叩きつけます」

 

 わたしをまっすぐに見据えながら、似鳥さんは一歩足を前に踏み出した。

 

「夏野くんは、あたしのもの。あなたなんかに渡さない」

 

 一方的な宣戦布告。

 ゆるやかな口調だけど、容赦のないどこまでも強気な言葉。

 それは“教師”に向けられたものではなく――恋敵(ライバル)に対する、はっきりとした敵意だった。

 

 言いたいことを言い終えると、似鳥さんは雨月に小さく手を振る。

 そして、揺るぎない足取りでわたしの目の前まで来ると、「それでは」と丁寧に頭を下げ――何事もなかったかのように、すっと屋上をあとにした。

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