第13話 覚えておいてね
味のなくなったガムを吐き捨てるような、無感情で乾いたその一言。
まるでドライアイスみたいに冷たくて、触れたものをじわじわと凍らせるようだった。
しかし、女子生徒は怯えるでも、笑ってごまかすでもない。
むしろその声にすら……静かな陶酔をにじませながら、口を開いた。
「……やっぱり夏野くんって不思議な人。本当に他人に興味がないんだね。一年生のころからずっと同じ教室にいるのに、クラスメイトの名前すら知らないなんて。あたしじゃなかったら、一発くらい叩かれてるかも」
風にはためくセーラー服の袖から伸びた、細くて白い腕が、音もなくすっと上がる。
漆黒の髪を指でなぞり、耳にかけながら、彼女はまるで呪文を唱えるように言った。
「似鳥です。似鳥葉。……これから夏野くんといちばん親しい関係になる子の名前だよ。覚えておいてね」
あ、と思わず声を漏らす。
名前を聞いた瞬間、胸の奥がざわりと揺れる。
聞き覚えのあるその声。
わたしは――この声の持ち主を知っている。
似鳥さん。
わたしの受け持つクラスの生徒。
頭の中に浮かぶのは、教室の隅で小さく座る彼女の姿。
休み時間になっても席を立つことはほとんどなく、誰かに話しかけられることも、誰かに呼ばれることもない。
会話の輪には加わらず、いつも一人で、ただ静かにノートや本を見つめているだけ。
まるで空気みたいに存在を消しているような、控えめな子。
雨月ほど強烈な孤立ではないけれど……同じ教室にいながら、彼女に声をかける生徒は見たことがなかった。
……なのに。
どうして今、こんな場所で、あんな口ぶりで、雨月に声をかけているの?
二人の会話がもっとよく聞こえるように、わたしはそっと扉の隙間を広げ、ほんのわずかに顔を出した。
風が吹き込む。
ひやりとした空気が頬をかすめ、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
屋上の中央に立つ二人。
似鳥さんは背中を向けていて表情は見えないけれど、その姿にはどこか妙な存在感があった。
まるで、すべてを見通している者の背中。
揺らぎも戸惑いもなく、そこに立っているだけで場を支配しているような、静かな迫力があった。
対する雨月は、まっすぐ彼女を睨みつけていた。
あからさまな警戒と苛立ち。
それでも似鳥さんは動じる気配を見せず、冷たい空気のなかで、ぴたりと張りつめた均衡だけが漂っていた。
名乗った彼女に対しても、雨月の態度は変わらなかった。
「どうでもいい。おれは他人に興味ないんだ。同じクラスだろうと関係ない。あんたの名前なんて覚える必要ないし、覚える気もない。名乗られても困る」
……ドライだ。ドライすぎる。
言葉の湿度は0パーセント。
心の湖は干上がって、地面にはひび割れしか残っていない。
よく女の子相手にそんなことが言えるなと思った。
普通なら泣く。
わたしですら、聞いていて胸が痛くなる。
もしわたしが隣に立っていたら、きっと肘でつついていた。
「言い方ってものがあるでしょ」って。
……だけど。
「あは。……いいな。すごくいい。そうなの、そういうところなの」
彼女はびくともしなかった。
いや、むしろ――喜んでいた。
どんなに冷たくされても、似鳥さんは傷ついたそぶりを見せない。
それどころか、投げ捨てられた言葉を宝石みたいに拾い集めて、うっとりと抱きしめているみたいだった。
背中越しなのに、わかった。
その声にはっきりと、色があった。
興味、執着、陶酔……そんなものが、静かに、でも確かに滲んでいた。
……なんていうか。
これはもう……その……。
いわゆる――マゾ、なのでは?
「感激しちゃったな。あたし、夏野くんのそういうところを気に入ってるんだ。陰気で、湿っぽくて、誰にも心を開かずに自分の殻に引きこもって、周囲を完全にシャットアウトしてる、そんなところを。クラスのみんなが言うように、夏野くんって、まるでカタツムリだね。……ううん、自分で行動を起こす分、カタツムリのほうがまだましかな。夏野くんはカタツムリ以下ってことだよ。ホント、最高」
嘲笑のような皮肉に――隠れず滲んでいく恍惚とした声音。
普通に聞けばけなしているようにしか思えないその言葉たちも、似鳥さんにとっては、きっと最高の賛辞なのだろう。
……はっきりと「気に入っている」とまで言っているのだから。
さすがの雨月も、そんな歪な愛情表現にはもう我慢ならないというように――露骨に不機嫌な顔を浮かべると、相手をじっと睨みつけた。
「一応聞いておくけど、嫌味を言うためだけにここに来たわけじゃないよな」
「まさか。ちゃんと伝えたいことがあって来たんだよ」
「だったら早く用件を言え」
雨月が冷たい態度でそう言うと、彼女は「せっかちさんだね」と静かに笑う。
雨月はまたむっとした表情を見せた。
「つまりね」
楽しげな声だった。
うしろ姿でもわかる。
似鳥さんはきっと今――笑っている。
すう、と小さく息を吸い込む。
それから彼女は、ためらいも迷いも見せずに、言った。
「あたし、夏野くんのことが好き」




