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Hydrangea  作者: 彩芭つづり
第4章 ひとひらの葉
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第13話 覚えておいてね

 味のなくなったガムを吐き捨てるような、無感情で乾いたその一言。

 まるでドライアイスみたいに冷たくて、触れたものをじわじわと凍らせるようだった。


 しかし、女子生徒は怯えるでも、笑ってごまかすでもない。

 むしろその声にすら……静かな陶酔をにじませながら、口を開いた。


「……やっぱり夏野くんって不思議な人。本当に他人に興味がないんだね。一年生のころからずっと同じ教室にいるのに、クラスメイトの名前すら知らないなんて。あたしじゃなかったら、一発くらい叩かれてるかも」


 風にはためくセーラー服の袖から伸びた、細くて白い腕が、音もなくすっと上がる。

 漆黒の髪を指でなぞり、耳にかけながら、彼女はまるで呪文を唱えるように言った。

 

似鳥(にたどり)です。似鳥(よう)。……これから夏野くんといちばん親しい関係になる子の名前だよ。覚えておいてね」

 

 あ、と思わず声を漏らす。

 名前を聞いた瞬間、胸の奥がざわりと揺れる。

 聞き覚えのあるその声。

 わたしは――この声の持ち主を知っている。


 似鳥さん。

 わたしの受け持つクラスの生徒。


 頭の中に浮かぶのは、教室の隅で小さく座る彼女の姿。

 休み時間になっても席を立つことはほとんどなく、誰かに話しかけられることも、誰かに呼ばれることもない。

 会話の輪には加わらず、いつも一人で、ただ静かにノートや本を見つめているだけ。

 まるで空気みたいに存在を消しているような、控えめな子。

 雨月ほど強烈な孤立ではないけれど……同じ教室にいながら、彼女に声をかける生徒は見たことがなかった。


 ……なのに。

 どうして今、こんな場所で、あんな口ぶりで、雨月に声をかけているの?


 二人の会話がもっとよく聞こえるように、わたしはそっと扉の隙間を広げ、ほんのわずかに顔を出した。

 風が吹き込む。

 ひやりとした空気が頬をかすめ、胸の奥がきゅっと締めつけられる。


 屋上の中央に立つ二人。

 似鳥さんは背中を向けていて表情は見えないけれど、その姿にはどこか妙な存在感があった。

 まるで、すべてを見通している者の背中。

 揺らぎも戸惑いもなく、そこに立っているだけで場を支配しているような、静かな迫力があった。

 

 対する雨月は、まっすぐ彼女を睨みつけていた。

 あからさまな警戒と苛立ち。

 それでも似鳥さんは動じる気配を見せず、冷たい空気のなかで、ぴたりと張りつめた均衡だけが漂っていた。


 名乗った彼女に対しても、雨月の態度は変わらなかった。


「どうでもいい。おれは他人に興味ないんだ。同じクラスだろうと関係ない。あんたの名前なんて覚える必要ないし、覚える気もない。名乗られても困る」


 ……ドライだ。ドライすぎる。

 言葉の湿度は0パーセント。

 心の湖は干上がって、地面にはひび割れしか残っていない。

 

 よく女の子相手にそんなことが言えるなと思った。

 普通なら泣く。

 わたしですら、聞いていて胸が痛くなる。

 もしわたしが隣に立っていたら、きっと肘でつついていた。

「言い方ってものがあるでしょ」って。


 ……だけど。

 

「あは。……いいな。すごくいい。そうなの、そういうところなの」

 

 彼女はびくともしなかった。

 いや、むしろ――喜んでいた。


 どんなに冷たくされても、似鳥さんは傷ついたそぶりを見せない。

 それどころか、投げ捨てられた言葉を宝石みたいに拾い集めて、うっとりと抱きしめているみたいだった。


 背中越しなのに、わかった。

 その声にはっきりと、色があった。

 興味、執着、陶酔……そんなものが、静かに、でも確かに滲んでいた。


 ……なんていうか。

 これはもう……その……。

 いわゆる――マゾ、なのでは?

 

「感激しちゃったな。あたし、夏野くんのそういうところを気に入ってるんだ。陰気で、湿っぽくて、誰にも心を開かずに自分の殻に引きこもって、周囲を完全にシャットアウトしてる、そんなところを。クラスのみんなが言うように、夏野くんって、まるでカタツムリだね。……ううん、自分で行動を起こす分、カタツムリのほうがまだましかな。夏野くんはカタツムリ以下ってことだよ。ホント、最高」


 嘲笑のような皮肉に――隠れず滲んでいく恍惚とした声音。

 普通に聞けばけなしているようにしか思えないその言葉たちも、似鳥さんにとっては、きっと最高の賛辞なのだろう。

 ……はっきりと「気に入っている」とまで言っているのだから。


 さすがの雨月も、そんな歪な愛情表現にはもう我慢ならないというように――露骨に不機嫌な顔を浮かべると、相手をじっと睨みつけた。

 

「一応聞いておくけど、嫌味(それ)を言うためだけにここに来たわけじゃないよな」

「まさか。ちゃんと伝えたいことがあって来たんだよ」

「だったら早く用件を言え」

 

 雨月が冷たい態度でそう言うと、彼女は「せっかちさんだね」と静かに笑う。

 雨月はまたむっとした表情を見せた。

 

「つまりね」

 

 楽しげな声だった。

 うしろ姿でもわかる。

 似鳥さんはきっと今――笑っている。


 すう、と小さく息を吸い込む。

 それから彼女は、ためらいも迷いも見せずに、言った。

 

「あたし、夏野くんのことが好き」

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