第12話 誰なんだ?
「ねえ、夏野くん。教えてよ」
雨月と屋上で昼休みを過ごすようになって、数日が経ったある日のこと。
先に行っているはずの雨月を追って階段を駆け上がると、少し開いた鉄製の扉の隙間から、聞き慣れない誰かの声が漏れ聞こえてきた。
思わず扉にかけた手を止め、息をひそめる。
「なんで黙ってるの? どうして言えないの? 言えないようなことを、二人でしてるってこと?」
鼻にかかった、どこか幼さを残す女の子の声だった。
こんなこともあるんだな、と思った。
昼休みの屋上には、いつも雨月しかいない。
少なくとも、わたしが足を運ぶようになってからは、誰かと一緒にいるところなんて一度も見たことがなかった。
だけど今、たしかに女の子の声がしている。
しかも「夏野くん」と、雨月の名を呼んでいる。
この学校に“夏野”という姓を持つ生徒は、一人しかいない。
つまり今――雨月は、女の子と二人きりで、誰もいない屋上で会話しているということだ。
うそみたいな話だと思った。
でも、今そこで起こっているのは、間違いなく現実。
……たぶん。
でも、本当に現実?
これ夢じゃない?
ああ、うん、大丈夫。
頬をつねったらちゃんと痛い。
なら、やっぱりこれは現実だ。
きっと。
本当に、めずらしいことだ。
というか……ありえない、と言ったほうが正しいかもしれない。
雨どころか、雪……いや、矢でも降ってくるんじゃないかな。
天変地異の前触れって、こういうときのことを言うのかも。
なんだか……そわそわする。
気になって仕方がない。
誰が、どんな理由で、雨月に声をかけているのだろう。
だって――雨月が学校で誰かと話しているところなんて、一度だって見たことがない。
点呼の返事すらためらうような子が、異性と二人きりで話すなんて。
信じられない。
……ううん、なんだか、信じたくない気がする。
胸の奥がもやもやして、少しだけ、苦しくなる。
なんていうか――ちょっとだけ、嫌だなって思う。
かも、しれない。
……はっ、と気づいて、あわてて首を横に振った。
違う、違う、なにを考えてるの、わたし。
これは喜ばしいことなの。
絶対そう。そうに決まってる。
雨月の高校生活が色づくチャンスなんだから。
これをきっかけに、友だちと呼べる相手ができるかもしれない。
いや、それ以上の関係になる可能性だってある。
……そうなったら、それは、わたしにとっても嬉しいことだ。
もともと雨月がひとりぼっちなのを心配して、わたしが手を焼いていたんだし。
もし誰かといい関係になれるなら――わたしだって、もう雨月のことを気にしなくて済むようになる。
そのはずなんだから。
「…………」
でも、だけど。
ああ、だめだ。
どうしても気になってしまう。
相手が誰なのか。
どんな話をしているのか。
……少しくらいなら、聞いてもいいよね?
こくり、と喉が鳴る。
扉の隙間から、そっと――覗き込む。
本当はいけないって、わかってる。
盗み聞きなんて、教師としてどうかと思う。
それでも、どうしても我慢できなかった。
屋上の中腹あたりに、ふたつの影が見えた。
雨月と、そしてもう一人――少女らしい細い後ろ姿。
こちらに背を向けているため、顔はわからない。
耳をこらして、二人の会話を聞く。
「他の生徒の目を盗んで、屋上でこそこそと逢引なんて……夏野くんのえっち」
女子生徒の言葉に、雨月は露骨に不快感を露わにした顔をした。
それから、ため息をつき自身の首筋に手を当てる。
「べつに……言えないわけじゃない。言う必要がないだけだ。あんたには関係ない」
「隠してるつもり? それか、かばってるのかな。そんなことしても、むだだよ。全部知ってるんだから」
彼女は細く白い指で、隣の校舎を指さした。
「ほら、あそこ……向こうの棟にある美術室。見えるでしょ? あたし、いつもそこで一人お昼を食べてるんだ。屋上を見ながらね。夏野くんも毎日一人でお昼を食べてるでしょ。あたしと同じ『ひとりぼっち仲間』だから、話したことがなくても勝手に親近感持ってたの。だから、そこから毎日、夏野くんを眺めてた。……一年生のときから、ずっと」
彼女は手を静かに下ろす。
そして、再び雨月に視線を向けた。
「……でも最近、夏野くんはひとりぼっちじゃなかった。見てたんだよ。夏野くんが水嶋晴花と昼休みを一緒に過ごしてるところ。ねえ。仲よさそうに二人肩寄せ合って、一体なにをしてたのかな」
わたしの名前が出された瞬間――心臓が、どくりと跳ね上がった。
知らなかった。
ずっと見られていただなんて。
いや、見られてまずいものではないのだけれど。
……それでも、女子生徒のおどして責めるような口調のせいで、胸の奥がひどくざわつく。
胸が詰まる。
空気が重苦しい。
きっと雨月も、同じように感じているはずだ。
視線を移すと、案の定、雨月は眉間にしわを寄せて、むっとした表情を作っていた。
「……べつに隠すつもりもないけど。なにを勘違いしてるのか知らないけど、あの人とはただ一緒に昼を食べてるだけ」
「それだけじゃないよね。見てればわかるよ、すごぉく仲よさそうだもん」
「仲よくなんてない。……普通だよ」
「ごまかすところがますます怪しいなぁ」
くすくすと笑う彼女。
その声は軽やかだけど、どこか嘲るようで、底が見えなかった。
完全に雨月をからかっている。
「あたしね、夏野くんが笑ってるところ、初めて見たの。いつも無表情で感情のなさそうなあの夏野くんでも、あんなに嬉しそうに笑うんだって知ってびっくりした。深い仲じゃなければ、あんな顔は見せない。……そうでしょ?」
雨月は、今にも舌打ちをしそうな苦々しい顔になる。
ここまで来れば、はっきりとわかる。
女子生徒はどうやら――わたしと雨月の関係を怪しんでいる。
だけど、怪しまれることなんてなにもない。
わたしと雨月は、ただの教師と生徒だ。
毎日屋上でなにをしているのかと聞かれたら、雨月が今答えたように、ただお昼を食べているだけ。
幼なじみだから……親しく見えてしまうだけ。
それでも雨月は、わたしとの関係を言わない。
わたしを思って、そうしている。
幼なじみと伝えれば、きっとわたしに迷惑がかかると思っているのだと思う。
飛び出して行きたかった。
雨月が言えないのなら、わたしが言わなくてはいけない。
彼女に「違う」と、「わたしと彼はあなたが思うような関係ではない」と、はっきり伝えたかった。
……でも、盗み聞きという立場では、それもできない。
今このタイミングで出て行けば、かえって疑われてしまいそうだった。
女子生徒は直立したまま、雨月をじっと注視していた。
その視線にいらだちを募らせた雨月は、声を低くして吐き捨てるように言った。
「なにが言いたいんだよ、さっきから。……ていうか、」
一拍置いて、眉根にぐっとしわを寄せたまま、さらに低い声で続ける。
「あんた、一体誰なんだ?」




