結局、誰が得するかの違いに過ぎないのだ
「ベーシックインカムとは、一体、なんなんだろうか?」という根本的な問いかけについて、僕はよく考えるようになっていた。
いろいろと学んでいる内に、どうやらその基本コンセプトのようなものはわかってきた。
とどのつまり、ベーシックインカムというのは、“自由な働き方・生き方をできるようにしよう!”というものなのだ。決して、“働かずに生きていけるようにしよう”というものではない。
これまでの社会というのは、いろいろとギスギスしていた。
「ほんとは、こんな仕事したくはないんだけどな…」と思いつつも、生きるために我慢して働き続けるしかなかった。雇う側が、雇われる側よりも圧倒的に有利だったわけだ。
無理をして働き続ければ、どうしても精神的にダメージを負ってしまうし、睡眠時間も減ってしまう。そうなれば、注意力も散漫になり、事故や病気も増えてしまう。
それが、わずか8万円とはいえ、最低限の援助をしてもらえるようになれば、無理をして自分に合わない仕事を続ける必要がなくなる。ストレスも軽減されるだろうし、病気になる確率も減るだろう。
都会で暮らすとなると、家賃と光熱費程度にしかならないだろうが、田舎ならば、これだけでもどうにか暮らしていけなくはない。
仕事中心の生活から解放され、ゆとりの時間も増える。“何かを学びたい”と思っている人たちも、それに専念できるだろう。小説を書いたり、絵を描いたりする時間にも使える。
ただ、いいコトづくめでもない。
日本国民全員にお金を配るとなると、それだけの税収が必要となってくる。それをどうするのか?
決して夢物語ではいけない。現実的に可能な解決方法が必要なのだ。そのために税率を上げ、これまであったような税金の控除や社会サービスをなくさなければならないだろう。
ベーシックインカムの目的の1つに、“複雑な税制をなくし、社会サービスも減らし、小さな政府を目指す”というものがあった。それにより、必要な公務員の数を減らし、支出も削減しようというのだ。
ただ、「それは怪しいな」と思う。いろいろと計算してみると、減らせる公務員の数など大した数ではない。それによって減らせる支出も微々たるものだろう。少なくとも、ベーシックインカムに必要な年間120兆円からすると、わずかな額だろう。
どうしたって、これだけの巨大な計画を実現させようとすると、巨額の予算が必要となってくる。どこかで税金を徴収する必要も生じる。その税金をやり取りする公務員も、また大勢必要なのだ。
「結局の所、どこにお金を使うかの違いに過ぎないのだな…」ということに、僕は気づき始めていた。
使えるお金の額には限界がある。何かに使えば、別の何かを削らなければならない。これまでお金を補助してもらったり、税金を優遇してもらったりしてもらっていた人たちが、ベーシックインカムによって損をすることになってしまう。つまり、“誰が得するか”の違いに過ぎないのだ。
それでも…
それでも、と僕は思う。
「より大勢の人が納得する形でお金が使われるようになるならば、そこには意味があるのではないだろうか?それが、より理想的な社会システムとなるのでは?」
このベーシックインカムというシステムが、そうなり得るかどうかはまだわからない。けれども、この実験がそのための道につながっているならば。そのためのデータ収集になっているならば。
「ちょっとでも、それに協力したいな」と、僕は思うのだった。




