プロローグ
ここに来るといつも同じことを思う。
「ああ。これは夢なんだ」
何故か何の根拠も無く、今自分が感じているこの空間は夢の中だと自覚する。そして、この空間が妙にリアルなものなのだとも実感する。
穏やかな光に包まれた昼下がり、どこまで広がる青い草原。若々しい草花はたっぷりと太陽と栄養を与えられているような、雑草のそれのような強かさを持っている。歩く度に少しずつ足元が湿っていく。自分はそこをひたすら歩いていく。
足取りはとても軽く、澄んだ空気と透き通った風とを全身で感じながら進む。あの人が待つ、あの丘の上まで。
優しい笑顔を携えたあの人が待つあの丘はすぐそこまで見えている。いつの間にかそこにいた、真っ白でふわふわの猫がすりっと足元を掠めていく。まるで彼までの道程を先導するかのように、時々後ろを振り返りながら白猫もゆっくりと進む。
とても居心地がいいこの場所。どこか懐かしくて、温かくて、胸の中がきゅーっと熱くなるような切なさも相まって不思議な気持ちにさせる、そんな場所。自分はきっとずっとここに来たかったんだと、頭の片隅で考えが過ぎる。
ここが本来現実で、現実で眠っている自分は実は夢の中で…
ああ。もうすぐ、あの人の所に辿り着く。やっと、逢える。
けたたましいアラームの音で目が覚める。
ああ。いつもの夢か。
あの夢を見始めたのはいつ頃だったか。寝惚けたまま思考を巡らせてみたものの、考えがまとまるわけも無く、ベッドから降りた。
「琉音≪リネ≫。起きてるの?仕事でしょ?」
母の初音が部屋を覗き込んでくる。朝から活発的な母は、既に朝食も済ませ、これから洗濯物を干すところらしい。時計の針は、午前6時半を差していた。
「仕事。今、支度する」
返事もそこそこに階段を降りようとする琉音の後ろで、初音が溜息を吐くのが聞こえる。身の回りの世話を母に任せっきりな子供に対して、何か言いたげだ。しかし、琉音はそれが聞こえているのかいないのか、そのまま階段を降りていく。
そのうちやるよ。
心の中でボソッと呟くものの、それが初音の耳に届くことはない。言う気も無いのだ。
洗面所で顔を洗い、朝食を済ませ、仕事に向かう為、家を出る。新社会人とは言え、学生時代と何ら変わりない日常。強いて言えば、その服装と家を出る時刻に多少の変動があったくらいで、琉音はこんなものかと変わり映えしない日々に少しずつ嫌気が差し始めていた。学生時代は、社会人に対して憧れや尊敬の眼差しを向けたものだったが、いざ自分がその立場に置かれてみると、大した事は無い。仕事と言っても、まだまだ新米な新社会人。雑務ばかりを毎日鬼のように課せられるだけ。遣り甲斐を感じる事も無かった。