拙い ② くたびれたスーツ
父の帰宅時間が、あきらかに遅くなった。
それに気がついたのは、半年ほど前だったと思う。
父はいつも十時前には帰宅して、ご飯を食べてお風呂に入ってリビングでくつろいでいた。私や姉に「学校はどうだ?」や「勉強はやってるか?」などの質問をしていた。それに対して、私はまぁ今から思うと滑稽なほど楽しそうに話していたけど、姉は、一歩引いて話していたような気がする。私から見て二つ上ということもあるけれど、姉は外見も精神も大人びて見えて、母や父とは仲が良いとは素直に肯定できないような素振りを見せていた。
ギクシャクしているようにも見えた、かもしれない。
でも、普通の家庭だ。
豊かでも貧乏でもない、世間のちょうど中間に位置するような、ありきたりな家庭だった。だけど、私はそれがとても好きだった。安心して、生活していたんだと思う。
そんな我が家の、一つの大きな柱である父が、十一時から十二時の間に帰宅することが多くなったんだ。
「今日お父さん遅いねー」
私がそう言うと、母は首をかしげながら「残業かしら」と逆に聞いてきた。父は付き合い程度には飲みに行くけど、それは数える程度しかない。だから、残業という仮定が一番納得できた。それ以外は考えることすらありえなくて、その一言で簡単に安心できる。
だけど、小さい違和感が、私の口を自然に動かした。
「お姉はわかる?」
噛み付くようにケータイを見つめていた姉に聞くと、「何で私が知ってるのよ」と呆れて笑ってきた。
――姉が、いつものように笑顔を見せたのは、これ以降はあまり記憶が無い。「だよね」と私も笑った。
姉は、付近だと上から数えるようなちょっと有名な高校に入り、女子高生なら当たり前のように茶髪に染めた。そのことに対して父は珍しく嘆いていたけど、反対に母は大喜びしていた。似合う可愛い流石私の娘と大絶賛。というのも、色を染めろと背中を押したのは母だった。
姉はボブカットで、光を纏う艶の伴った髪質はとても綺麗で、私は幼少の頃、暇さえあれば姉の髪を指でぐりぐり弄っていたほどだ。そこに茶色が綺麗に収まり、姉にはとても似合っていた。可愛くてカッコよくて、私も同じような髪型にしたかったけど、中学が厳しいから茶髪に染められず、更に非道い癖があるので、伸ばしてポニーテールにしていた。
その日、父が帰宅したのは、十一時半を過ぎていた。
私が自室で本を読んでいると、玄関がゆっくりと開く音が聞こえた。それを合図として本を閉じると、欠伸をして、明日も学校があるからもう眠ろうとした。
だけど、喉が渇いているので何か一杯口にしてから眠ることにする。自室の扉を開ける。と父の姿が無い。
……あれ? 誰も居ない。おかしいな、父が帰ってきたはずなのに、と思いつつ台所へ向かう。冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出すと、ガラスのコップに入れた。半分くらいを飲む。
「まだ起きていたのか?」
振り向くと父が立っていた。くたびれたスーツを着ていて、いつもの苦笑いをしながら私を見てきた。
「うん、本読んでて。お父さんは残業?」
「……いや、会社の人と、飲んできた」
〝飲んできた〟という言葉に後押しされて、私も残りを飲んだ。「珍しいね、お父さんそういうのあまり行かないのに」
「あ、あぁ、そうだな。今日は上司に誘われてさ、断りきれなくて」
父は片言で話す外人のように口をごにょごにょと動かしていた。でも、この時は特にそれがおかしいとは思わず、『大人って大変なんだなー』くらいしか思えず、「大変だね」と言って、自室へ戻った。
私と入れ替わるように、姉が二階から(姉の部屋は二階にある)降りてきた。
「あれ、今帰ってきたの?」台所でケータイを見つめる父を、不思議そうに見ながら姉は言った。
「飲みに行ったんだって」
「ふーん」
そう言い残すと、姉はトイレに向かった。
私は明日の学校の授業なんだっけ、と悩みつつ、部屋に戻った。
この日、リビングのライトが消えたのは、一時を過ぎていた。