儚い ① 楓
精神的グロテスクなシーンがあります。注意してください。主人公が変わります。
何も記憶に残っていない高校生までの日々。
ただひたすら空気を吸い、吐き出すだけの毎日を過ごしていた俺は、それから逃れるかのように、地元を捨てて、都会へ一人出た。
何か、変わるんじゃないか、という期待があった。
今までのつまらない俺が、消えてなくなるんじゃないか、と信じていた。
だが、予想通りというべきか、俺は俺のままだった。
何一つ、変わっちゃいない。新しい学校へ行っても、今まで通りの淡々とした日々。
バイトを始めても、ただ無駄な動きが積み重なっただけだった。
何故、俺が生きているのか、わからなかった。こんなことを考えるのなら、知能など要らないと思っていた。意識があるから、この色の無い世界を理解出来る。これが足元を蠢く虫だったら、何も感じないんだろう。足をもがれたとしても、必死に逃げるだけ。そこには、痛みや恐怖という感情は無く、ただ死ぬという動作の停止を拒むだけの、本能。そっちのほうが、楽だなぁ、と思っていた。
でも、それがある日、変わった。
俺を、愛してくれた、人間がいたんだ。
「でも、取られちゃったんですよね?」
え?
「たった一つだけ、彼女と同じ趣味があって、確か……映画? だっけ? それを一緒に楽しんでいたんですよねー。だけど……」
俺は彼女――楓を信じていたんだよ。俺だけを、好きでいるんだと思っていたし、それを信じていたんだ。だけど、俺と付き合って半年が経ってから、会う回数が減っていった。喋る内容も、喧嘩が多くなり、楓は俺をどこか、避けていたのかもしれない。
「だから、ストーカーしたんですよね。始めての犯罪。服をたくさん買って、メガネをかけて、マスクをして、楓ちゃんが 君の元から離れるのを、観察したんですよね」
俺の知らない駅で楓は降りると、俺が最近見た覚えないない笑顔で、俺の知らない男と手を組んで、歩いていた。そして、その男のアパートに一緒に入っていく。
烏帽子、という苗字だった。珍しい名前だ。
メールを送った。『今日、久しぶりに合わない? 飯でも食べにいかない?』返信が速攻で帰ってくる『ごめん、今日は友達と遊んでいるから、無理だ。来週行こう!』いつもの可愛い絵文字つきのメール。
だけど、それはどう見ても嘘だよなぁ。だって、だって、この扉の奥から、楓の声が聞こえるだよ。安いアパートの扉を通り抜ける風のように、俺の耳に、楓の高い声が伝わってくる。
好きだった。
喧嘩しても、でも、それでも、楓のことが大好きだった。たとえ、この世界が全てお前の敵になったとしても、俺だけは、楓を守ってやると、心に決めていたんだ。
「音で、全てわかる、すごいです」
俺は、アパートの扉の前に立ちながら、それ以上、楓の喘ぎ声を聴きたくはなかった。だけど、足が動かないんだ。ガクガクと震えて、その場から逃げられない。俺は、人差し指を、それぞれ両耳に突っ込んだ。もう、楓の声が聞こえないように、と。だけど、それをかき消すかのように、心の奥底から、響いてくる何かがあった。
信じていた。
ガシャンッ、と凄まじい音で、その想いが粉砕した。
でも、全てを知りたかった。もしかしたら、楓は、中で暴行を受けているのかもしれない。無理矢理犯されているのかもしれない。だから、だから……知りたかったんだ。
その途端に、耳の中でぐちゃっと音が鳴った。ぐちゃぐちゃと、その音は耳を通り抜けると、脳の中で一心不乱に響いていく。
その次の瞬間には、全てがわかった。この目の前の部屋の中で行われている光景が、ただ音を聞くだけで、全てを理解出来た。あの男が、楓の胸を楽しそうに揉みながら、腰を振っている姿と、それを嬉しそうに楽しそうに幸せそうに受け入れている、楓の姿。楓は、狂った猿のような奇声を発しながら、自らの腰を振っている。男がガクガクと虫のように腰を揺らすと、二人は一瞬の間を置いて抱き合った。
今まで、楓との幸せだった日々が、全て歪んで壊れていく。ベキベキに崩壊した途端に、俺は我に帰った。
俺は、逃げた。
やっと、足が動いた。
ふらふらになりながら、一人で街にある、小さな公園に入る。そこで、一人泣いた。ケータイの中には、とある画像がある。楓にプレゼントしようとしていた、白いコート、だ。楓の友達に欲しいモノを聞いてもらい、次のクリスマスのプレゼントとして、買ってやるつもりだった。
「シクシク泣いちゃったんですか……。でも、学校は一緒ですよね、それでどうなったんですか?」
俺は、楓に別れようと告げた。一瞬驚いた楓だったが、途端に怒り始めた。他に好きな女でも出来たの? と冷笑を浮かべながら、俺を見つめてきた。そうだよ、と返す。楓は、泣きそうな声で、俺へ罵倒を始めた。俺は、あのアパートで中の音を聞いた時から、音を今までよりも鮮明に聞き取れるようになっていた。声だけで、相手の心情を読み取れ、音を聞けば、物体の立体的な動きまで判断出来るくらいに。
だから、楓が、俺を好いてはいないと、理解出来た。涙混じりの声も、哀しみは無く、純粋な快楽が声を逆立てていた。
それ以降、楓とは話していない。
「はい、ありがとうございます」