運命 ⑤ 睡魔
車は、近くにあるコンビニの駐車場に止められていた。運転席で、先ほどの男の人が、本を読んであたし達が到着するのを待っている。車に近づくと、何も言わずに外に出てきた。女の人が先に車に乗り込むと、上手く歩けないあたしを引っ張り、残った車椅子は、男の人が畳んでトランクの中に入れた。
男の人は戻ってくると、無言のまま発進した。車内は薄暗くて、女の人の横顔が薄っすらとしか見えないけれど、あのエレベータの暗闇よりはマシだ。
「あの、今は何時ですか?」
「……三時かな。夜中の」
隣の女の人が、声を出す。「飲む?」とついでのようにペットボトルを差し出してきた。「夜中の二時ってことは、凄いねー、渦原さん八時間もあの中にいたんだ」
あの強盗達が来たのが、六時を過ぎたあたりだから、その時間で合っている。そう思うと途端に喉が渇いた。お腹もぎゅっと中の空気を圧縮されたように隙間が作られた。
「頂きます」
中身は多分スポーツ飲料で、一口喉を通り過ぎると、あとは吸い込まれるように一気に飲み干してしまった。
車は高速には入らず、窓から見える海岸を伝って、円を描くように進んでいく。
「助けていただいて、あ、ありがとうございます。あの、お名前は……」
「ケイ、よ」
「ケイ、さん?」
「うん、皆からはそう呼ばれているのよー。あっちは、見汐君。見汐は苗字でー、名前は……、まぁ別にいいよね」
真っ直ぐ前を向きながら、ケイさんは呟くように言う。
海岸を通り過ぎると、車は細い住宅街の中に入っていく。見覚えの無い場所で、その中を進むたびに、あたしは不安になっていく。
どこまで行くんだろう……と思った時、そういえば、行き先も何も教えて貰っていないことに気づいた。
「警察とかには、行かないよー」
あたしが口を開くよりも早く、ケイさんは楽しそうに言った。
「そ、そうですか」
「うん」
車は住宅街を抜けると、平地に出る。周りには田んぼしかなくて、地平線の先まで見渡せるほどだ。でもその何も無いという光景が、あたしを更に不安で縛っていく。このままどこかの山にでも連れて行かれて、そこにはもう使われていないトンネルとかがあって、そこで車は止まって、あたしに逃げ場はなくて、と想像すると、汗が噴出してきた。
「あ、あの」
「何?」
「助けて頂いたことは、感謝しています。それで、もう、あの迷惑になると思いますので、この近くにある駅に、降ろしてください」
「迷惑じゃないから、別にいいよー」
「あ、あのそういう問題じゃ、無くて。あの、帰らないと、家族が心配するし……」
「渦原さんは家族と同居なんかしていないでしょー。一人暮らしだよね。嘘はつかなくていいよー」
いちいち語尾を延ばすところが、可愛い子ぶっている女の子みたいで、癪に障る。けど、実際ケイさんはそれなりに可愛いので、そこまで嫌悪感は受けない。小顔で眼、鼻の凹凸がしっかり整っている。美人よりは可愛い系で、でもこういう人は老けると一気に微妙になるんだよねー。
問題は、そこじゃない。
なんで、ケイさんはあたしが一人暮らしだって知っているの? そんなこと話していないし、しかも、あたしの嘘を反射的に破った。
それに、警察には行かないって、どういうこと?
ぞわり、とした何かが、背中を通り過ぎていくのを合図に、あたしの口が勝手に動き出す。
「ど、どうして、あたしがあのエレベータの中にいるって知っているんですか? それに、あたしの名前も知っている……。一人暮らしってことも、あたしは話していませんよね? あ、あの強盗が入った事件の情報が、新聞かニュースでやっていて、それで、両親があたしは今行方不明だと知って、あ、もしかして、ケイさん達は、興信所の方、ですか?」
確かに、興信所の人というのは、我ながら納得できる。それなら、色々とわかることが「私も見汐君も、興信所なんかに勤めていないよ。探偵でも無いよ」
あたしの推測を簡単にぶち破ると、ケイさんは前かがみになり、ゴソゴソと足元に置いてあった袋を漁る。中から何かを掴み取ると、それを差し出してきた。思わず、身構える。
「食べる?」
猫のような、くりっとした眼で覗き込まれる。同性のあたしでも、思わずドキリとしてしまう視線で、自分の中身を覗かれているような恐怖を、覚えた。
手には……コンビニの、パンがある。普通の、安い、総裁パン。
「い、いりません」
「そう? お腹減っているじゃないの? 今食べないと、この先少しの間、何も食べれなくなるよ」
「それよりも、ケイさんは、一体――、何者なんですか?」
別の、人の皮を被った、生物。
それが、あたしが感じたケイさんの第一印象だった。外見の可愛らしい少女と大人の中間のような体型に白いコートを羽織り、可愛らしい顔をしているってのに、ケイさんは一回も笑わないんだ。笑い方を忘れてしまったかのように、一定の表情を保っていた。
それが、非道く恐い。壊れたお面を顔につけ、その眼の部分に開いた穴から、何かがずっと覗いているような錯覚を受ける。
だから、あたしはギリギリのところで、〝何者?〟と言ったんだ。もう少し思考が遅れていたら、あたしは〝あなたは人間ですか?〟と問うところだった。「人間だよー」
あたしは、何も言っていない。
そのはずなのに、ケイさんは答えた。
汗が出る。がくっと震える。
ケイさの、その瞳には、黒色の渦のようなモノが、悶えているように、見えた。
それが、わっとあたしに降りかかった。
全身の鳥肌が立つ。ごくりと喉が鳴る。恐怖、それがあたしを包み込んだ。
自分でも驚くほど、体が震えていた。先ほどの疑問など、どこか頭の彼方へ、消えて行ってしまったほどに。
そんなあたしの姿を見て、ケイさんは小さくため息をつくと、困ったように表情を崩す。
「大丈夫だよー。私は何もしないから。見汐君もね、何もしないよね、というよりできない」と、ケイさんは見汐さんを見ながら謝る。「私達は、ただケイさんに、協力してもらいたくて、助けてあげたのよー。だから、大丈夫」
不思議な威圧感に押されて、あたしは頷いてしまう。
「協力、ですか?」
「うん。まぁ、でもそれは後で話すねー。今はまだ、危険だから」
危険? あたしはその言葉が脳裏に残ったが、これ以上考えても無駄だと悟り、思考を切り替えた。
「でも、あの、あたしをどこに連れていくんですか? それだけを、教えてください」
「ホテル」
「……え?」さっと肝が冷えた。
「そんなに驚かないで。この近くにあるはずの普通のビジネスホテルだよー。変なホテルじゃないよー。それよりも、渦原さん、本当にこのパンを食べなくて大丈夫? お腹減っていないのー? この後は、何も食べることは出来ないと思うし、何より、もう渦原さん、眠たいでしょ?」
眠たい?
いや、あたしはさっきまで寝ていたし、別に大丈夫です、と口を開きかけて、視界がくらっと揺れた。それを客観的に感じた時には、それぞれの目蓋に錘をつけられたかのように開かなくなる。視界が塞がる。両手が、何かを掴もうと彷徨うけど、それをケイさんが優しく掴んで下ろした。「ごめんね、暴れたりしたら困るから、さっきの水に睡眠薬を混ぜといたのよー。悪気は無いの」
は? 悪気が無い、だと? 人に睡眠薬を盛っていて、その言葉は無いだろうと、心の中で叫ぶ。
「あと、起きたらベッドの上に居るからね。そこでシャワーを浴びて、体にこびりついた埃や汚れ落としてね。そのバイトの制服はもう汚いし、私服も無いみたいだからー、適当に服を買っておいたの、それを着てね」
もうケイさんが何を言っているのか、言葉として理解出来ない。
やっぱりお腹減ってる。無意識のうちに鳴るお腹のことを考えながら、あたしは眠りの渦に落ちていく。