運命 ④ 救出
その瞬間、
ガリガリガリと不穏な音が聞こえてくる。鼠があたしの体でも食べにきたの? 天使の代わりに鼠って、哀しいよぉ、と思っていると、その音は段々と大きくなる。
上の方向から、聞こえてきた。
見上げると、暗闇の中、エレベータは見えない。そういえば、エレベータはまた止まっている。でも、音はすぐ近くから聞こえてくる。
ふと、扉を見据えた。
途端に、ガコンッ! と何かが外れたような音がして、扉は開いた。
「ホントにいる……」
と、ぼそりと声が耳に届く。逆光でよく見えないけど、人が、あたしを見下ろしている。
「助けて、下さい」
弱々しく、叫ぶ。
「わかっているから、ちょっと待って」
声色からして男性だと思うその人は、振り返って、縄梯子を垂らす。
「あ、あの私、足を挫いていて、登れないんです」
「だから、ちょっと待ってて」
そう言って、男の人は縄梯子をどこかへ結びつけると、それを伝って降りてきた。あたしの隣に立つと、小さくしゃがむ。
「あの」
「早く捕まって。足挫いているんだから腕だけで登れないだろ。俺が引き上げるのもしんどいし、早く乗って」
「え、……あ、はい」
一気に言われて、あたしは仕方なく頷くと、腕を伸ばした。
見ず知らずの人がいきなり出現して背負ってくれたおかげで、あたしはやっとエレベータの隙間から脱出することが出来た。
決してあたしが重いからではなく、人一人背負っていたから、男の人は上りきると、荒い息を立てて座り込んだ。長身に、黒いジーパンに、大学生が着るようなジャケットを着ている。黒い髪を、ワックスで流行りの形に立たせている。外見的には、それなりに頑張っているような形が垣間見られた。
「ありがとうございます」と礼を言う。
「どういたし、まして……はぁ、疲れた」
降ろされた拍子で、あの感覚がまた忍び寄ってきた。腹部がじんじんと音を立てる。
「……あの」
「ごめん、待って、息を整えさせて」
「いや、あのちょっと、すいません、今早急にお願いしたいことが、あって」
「何?」
めんどくさそうに、男の人はあたしを見る。その表情に少し気押されたけど、臨界点を突破しかけている体が、そんなこと関係無いだろ、と急かす。だけど、だけど、男の人に、面と向かってトイレに行きたい、そこまで連れて行ってください! とお願いするのは、理性を持った人間のプライドと恥が、邪魔をする。
あぁ、どうしよう。このまま這ってトイレまで直行しようかと決意しかけた瞬間、「トイレに行きたいんだって」
という声が、真横から響いてきた。慌てて振り向くと、階段の上から一人の女性が降りてくる。あたしが見たことの無い人で、多分この店の人間ではない。
白いコートを纏った女性だ。丸くて大きな眼が特徴的で、顔のバランスも悪く無い。茶色いポニーテールが印象的だった。歳はあたしと同じか、少し上くらい。でも童顔なので、多分女子高生くらいにも、見える。
「トイレ?」と男の人が問う。
「あの中でずっと我慢していたんだって。ほら、念のために持ってきた車椅子に乗せてあげなよー」
男の人はその女性に急かされて、あたしをやや乱雑に持ち上げると、男の人の背後に隠れていた車椅子に乗せてくれた。
「じゃあ、私が連れて行くね」
「あぁ、頼む。……俺は、外の車の中にいるから」
そういい残して、男の人は振り返りもせず、玄関へ向かって行く。その扉は、シャッターが開けられていて、外が見える。真っ暗だ。その中に、男の人は消える。
「一階のトイレはー、あっちかな?」
「え? あ、えっと、そうです。この通路を真っ直ぐに歩いて、その突き当たり、です。……あの、でも、どうして私がトイレに行きたいって、知っているんですか?」
だけど、あたしの質問には答えてくれず、背中に廻ると、押してくれるだけだった。
「あの……」
「同じ女性が、モジモジしているんだもの、そのくらい読み取れますよ。でも、会話はもう辞めましょう。私、ちょっと疲れているんです。詳しい話は、色々落ち着いてから、しましょうね。渦原さんもー、疲れていると思いますし」
「……はい」
有無を言わさぬ声で、背後の女性は脅すように言うので、頷くしかなかった。