拙い ⑤ その方法を知りたかった。
「無いよぉぉぉおおおおぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!!」
リビングに、その絶叫が轟く。
まるで動物のような咆哮で、自室にいたはずの私だったけど、そのあまりの声量に、思わず飛び跳ねてしまったほどだ。
「なんでよ、今月の生活費払ってよ。そうしなきゃ、私達生活できないでしょ」
「だから無いって言ってんだろぉぉぉおおおおおおおおッッ!! 顔合わせればカネカネカネカネカネカネカネカネカネカネカネカネカネカネカネカネェ……ほんっっっっと気持ちの悪い女だなぁああああああッッッッッッッ!! そんくらいさぁ、少しは自分で稼げねぇえのかよぉぉおおおおおッッ 働けよぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ」
父が怒鳴るたびに、私は震えていた。
だって、父があんなにも声を張り上げることは、一度も聞いたことが無かったからだ。普段から温厚な父は、私達を叱る時だって声を張り上げることは無かった。その父が、母を威嚇するかのように声を吐き出していた。
「そ、そんな、今更私が就職出来る訳ないでしょ。それに、生活費もあるけど、あの子達の学費はどうするのよ、払えないわ」
「お前馬鹿だろ、馬鹿、馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿……。だからさっきから言ってんだろぉぉおおおおお、自分で働けよぉぉおおおおッ! こっちは毎日汗水垂らして働いてんだよぉッ! てめぇも少しは働けっつてんの、わかんねぇえのかよぉおおおお!!!」
「私だって、一応は働いているでしょッ!」
週に三回、母は近くのクリーニング屋でパートをしている。「だから、そんなのだったらぁ、もっと働けるんだろぉぉぉぉおおおおおおおおおおおッ! あぁ~あ、なんで俺はこんな何もしない豚みたいな女と結婚したんだろ……。やってらんねーよぉぉぉぉぉおおおおおおお!!」
「あんた、父親でしょ? お金入れな」
ガンッ
という音が静かに響いて、私の全身から汗が吹き出た。
「……辞めさせろよぉッほんっとありえねぇなぁ」
そういい残し、父はどこかへ行ってしまったようだ。
私は震えながら扉を開くと、母はソファにもたれかかってぐったりとしていた。近づくと、右頬が真っ赤に腫れているのがわかる。
「氷水……もって来るね」
母は小さく頷いた。私は適当にビニール袋の中に氷を詰め込むと、水を入れて母に手渡した。それを頬に当てて、母はため息をついた。
どうしよう……。
恐怖で震えて、怖くて、恐くて、頭がよく廻らなかった。私はケータイを取り出すと、姉へメールを送った。私に頼れる人は、姉しかいなかったから。
『お父さんがお金をくれなくて、それで、お母さんを殴ってどっかに行っちゃった……』
送信してから三十分後、息を切らしながら姉が帰ってきた。店長に体調が悪いと言い、早く帰ってきたらしい。
「あの人は?」――もう、姉は父のことを、〝お父さん〟とは呼ばなくなっていた。
「わかんない、どっかに行っちゃった……」
ふと、熱い何かが頬を伝うのを感じて、私は涙を流していることに気がついた。ポロポロと大粒の涙が、頬を伝い、床に落ちていく。姉がそれに気づいて、ハンカチを渡してくれた。
――父が恐いから、泣いているんじゃなかった。
父が、あの優しかった、つい半年ほど前までは普通に話していたはずの父が、まったくの別人のように代わってしまったことが、私には理解出来なくて、悲しくて、泣いたんだと思う。
姉は、そんな私達の姿を見つめながら、どこか遠くを見ているような瞳をしていた。
あの時、父が休日に出かけた後、それをじっと見ていた時の姉の姿になっていた。姉まで変わってしまったようで、私は一人号泣していた。
次の日、学校へ行くと、少しクラスの中が騒がしかった。私の姿を見ると、友達が顔を青くしながら近づいてくる。
「目上君、引越しちゃんだって!」
泣きそうな声だった。その後すぐにHRが始まって、先生は事務的に目上君が引っ越すと告げた。
昨日も、普通に学校にいつものテンションで通っていた気がする。
凄いな、と思った。だって私はその日、午後から体調が崩れて、早退したからだ。目を瞑ればあの罵声が頭の中でガンガンと蘇えって、辛い。
帰り道、ふと目上君ともっと話しておけばよかったと思う。似たような境遇に陥っている中、彼からどうすれば普通に過ごせるのか、その方法を知りたかった。