拙い ④ 死んだと思えば、とも言う。
拙いグラフ
「一度くらいは許してあげなよ」
ヒステリックに顔を震わせる母に向かって、姉が言う。
父が遅く帰るようになってから、もう二ヶ月が過ぎていた。
その理由が判明する。
浮気、だった。
母の友達が、市内で見知らぬ女性を車に乗せている姿を目撃したのだ。しかも、一回二回ではなく、ほぼ日常的に会っていたらしい。
それを母は聞いて、父を問い詰めると、ボソボソと喋りながら白状したらしい。同じ会社の同僚で、しかも相手は独身ではく、結婚して子供もいるという。
「だって、この前電話がかかってきたの」
母は泣きそうな顔で言う。「相手の夫に、私の妻がお宅の夫と関係を持っていませんか? って聞かれたのよ!」
「相手の人は、自分の妻が浮気していると、知ってたの?」
姉が驚きながら問う。
「そうみたい。でも、少し前にその夫が浮気をしたらしくて、小遣いは月に一万五千円にされて、何でも言うことを聞くという条件で許してもらったらしいの。だから、自分の妻が浮気らしい行動をしていても、何も出来なかったんだって」
「あ、だからかー。なんで相手の人は自分の妻を盗ったことに対して私達に啖呵切ってこないのかな? って不思議に思っていたの。そっか、それじゃあ迂闊に動けないもんね」
「でも、もう今は子供の世話もしなくなっちゃったみたいで、小学生に上がったばかりの息子がいるのに、毎日化粧に勤しみ毎日なんだって」
「最悪だね」
姉の最悪という言葉は、相手の女の人、それと自分の父親に向かって発しているようだった。
「それで、知り合いのそのことを話したら、相手の家庭をぶっ壊せ、と言われたから、電話をしてきたんだって」
「もう壊れています、って言えばよかったのに」
姉は、ニヤニヤと笑いながら、言った。姉は落ち着いている。怖いほど、冷静だった。はらはらしている私が安心してしまうほど、姉は強かった。
だけど、母は冷静になれない。
その熱を冷ますように、姉は口を開いた。
「でもね、お母さん。男の人は、毎日朝早くから仕事に行って、馬鹿な上司と使えない部下のめんどくさい軋轢に合っているんだよ。そこで、まぁ仕事仲間の女性に優しく言い寄られたら、仕方ないんじゃないの? ころっと騙されちゃうよ。お母さんは、少し頭に熱が上がりやすいよ。もうちょっと、冷静に物事を見てよ」
私も、「そうだよ、お母さん冷静になって」と呟く。
だけど、母は鬼のような形相で聞いていない。
「色々な人に、言われたのよ、お宅のお父さん、毎日知らない女性と車に乗っていますよ、って。笑いながら……。恥ずかしい。嫌だ、離婚する。私は、この家から出るッ」
それを聞いて、姉は小さくため息をつく。
「離婚するのは別にいいよ。悪いのはお父さんだし、お母さんは何も悪くない。今だって、不倫しているのがバレているのに、自宅に帰らないあの人は非道いと思う。だけどね、お母さん、家を出るのは、私は嫌だよ。もし、お母さんが家を出るのだとしても、……私はこの家に残る」
刃物を突きつけるように、姉はその言葉を母へ差し出す。
「あんたは、家に残るの?」
「私は嫌なの、アパートで貧乏に暮らすなんて」
アパートなどの場所に居つくのは、私でも簡単に想像できた。何故なら、私の母方の祖父と祖母――母の両親は、母が若い時に既に死んでしまっている。親戚もいなく、頼る人も居ない母に、逃げる場所はどこにもなかった。
「私は、お母さんについていくよ」
一瞬言葉が切れた母が可哀想に思えて、同意した。
「そう……。うん、じゃあ、私とこの子の二人で家を出るわ。……でも、それでも、時々は遊びにきてね。それで、一緒にご飯食べに行こうね」
母は当然のように言った。私もその通りだと思った。
だけど、姉は不適に微笑んだ。
「離婚したのなら、私はもうお母さんとは会いたくないの。世間一般の意見がどうとか知らないけど、私は嫌なんだ。やっぱり離婚するってことは、もう家族を辞めるってことだと思うの。家族を辞めて、名前を変えて、赤の他人になるって、ことなの。だから、それでも会うのは、嫌だよ」
言葉を突きつける。
ぐさりと、まるで音を立てるかのように、それは母に突き刺さった。
「もう、会わないの?」
母の目には、薄っすらと光の膜が覆っている。
「だから会わないって言ってるでしょ。そうしないと、お母さんも吹っ切れないと思う。あ、そうだ、私の娘は死んだって思えばいいよ。そうすれば、諦めもつくし、納得もできる」
姉はずっと笑いながら、だけどその言葉を絶対に曲げるつもりは微塵も見せずに、言った。
「……わかった、少し考えさせて」
母はそう言うと、寝室に消えてしまった。
いつもならこの時間帯には父が帰ってくるはずだったけど、もう居ない。
バチンッと音を立てて、扉は閉まった。鍵まで、閉まる。
――母は、姉のことをとても可愛がっていた。私のことももちろん愛していたけれど、姉に対しては、やっぱり一人目の子供は可愛いのか、少し愛情を深く与えてたと思う。お姉ちゃんはお姉ちゃんは、と口癖のように可愛がり、身長が伸びたことや、テストで良い点を取った時や、頭の良い私立高校に受かった時、髪を綺麗に染めた時など、いつも自分のようにうれしそうだった。
だから、その最愛の娘が、もう会わない、会いたくないと、言う。
死んだと思えば、とも言う。
それが、どれだけ母の心をかき乱し、傷つけたのかは私には想像出来なかったけど、その日、母が寝室から出てくることはなかった。
「なんで、あんな非道いことお母さんに言ったの」
母が居ない間、私は姉の部屋で聞いた。
「お母さんは、馬鹿なの」
姉は自嘲気味に言った。「あの時お母さんは冷静じゃなかった。もしあのまま一人で家を飛び出したりでもしたら、絶対に不幸になることくらいわかるでしょ。だから、クサビの意味を込めて、言ったの。それに、あの人……あぁお父さんのことなんだけど、もうお母さんへは心が戻らないと思う。それで、ここで迂闊に動くよりは、離婚する時のために、ゆっくり話し合いを重ねたほうがいいのよ」
だけど、姉の予想は外れた。