拙い ③ 何度もケータイが震える音がしていた
平日の夕飯は、いつも私と姉と母の三人で食べていた。
あまり料理が好きではない母だったけど、私や姉の好きな料理をよく作ってくれて特に不満に思うことは無かった。
休日はこれに父が加わり、今では珍しい家族で四角いテーブルを囲って夕飯を食べていた。
時折、姉が遊びに言って帰りが遅れることがあったけど、それ以外は慎ましいながらも比較的賑やかで、何より平和に楽しく美味しい食事を取っていた。
でも、それが音を立てて崩れていく。
と言っても、平日はいつも通りの食卓だった。母がご飯を作ってくれて(たまに私や姉が手伝う)私と姉と母の三人で食べる。姉は部活には入っていなかったけど、高校生になってからアルバイトを始めるようになって、近くのスーパーで働いていた。だから、一緒に夕飯を食べる時間がずれて、私と母の二人で食べることが多くなった。
おかしくなったのは、休日の夕飯だ。
四人から一人抜けて、三人で食べることが多くなったんだ。姉は休日にはバイトを入れていないので、その抜けた人は、……父だ。
父は、平日は淡々と仕事に勤しみ、休日は家でゴロゴロしながらパソコンを弄っているか、一人で釣りに行くか(私達姉妹は釣りが好きじゃないから一緒に行くことはない)、付き合いのゴルフに行くかのどれかだ。
それが、先日遅く帰宅した日を境に、休日は家から消えることが多くなる。釣りかゴルフかと思ったけど、自慢の竿や部屋の隅に佇むゴルフバッグを見るに、そのどちらでもないようだった。
「今会社が大変で、仕事が休日にも残っているんだよ」
とある休日の早朝、呼び止めた母に、父は何食わぬ顔でそう言った。
「私に一言くらい言ってよ。いきなり出てくから何事かと思うじゃない」
「ごめんな、今少し忙しくて、言う余裕が持てないんだよ」
逃げるように家から出て行こうとする父を、母はもう一度呼び止めた。「夕飯は?」
「今日は、……いい」めんどくさそうに父は言った。
「いいって、この前も外で食べてきたんでしょ? もったいない。それに、今日は私買い物に行きたかったんだけど」
「あぁ、ごめん」
そっけなく言い残し、父は足早に出て行ってしまった。母は不満そうにため息をつくと、私の存在に気づき、「また仕事だって」とぷりぷり怒りながら言った。
「今不況だから忙しいんじゃないの?」
「ほんと、少しはこっちの身にもなってもらいたいわ」
それはこの国の不況に対してか、父の行動に対して言ったのかはわからない。それよりも、母は休日に朝早く起されたことを不満に思っているらしく、不機嫌にリビングを歩いていく。
「朝ご飯はあるのー?」と私が問うと、「テーブルの上に、パンがあるから適当に食べて」
母はそう言って寝室に戻ると、すぐに二度寝をしてしまった。
私はパンを暖めると、バターを縫って噛り付く。テーブルの上に置きっぱなしだった牛乳は少しぬるくて気持ち悪かったけど、我慢して飲み干した。
その時、どさっと、音を立てて姉が私の前に座った。
「おはよう」
と私言ったけど、姉は反応しない。
ずっと、玄関を睨みつけている。
肌身離さず持っているケータイは持っていない。
乱れてもすぐに元通りになる髪を弄りながら、姉はぼぉーっとしている。けど、まだ半分寝ているとかそういう感じじゃない。
意識が、無い。
まるで姉の体から魂を抜き取ってしまったかのように、呆然としていた。「お、おねえ?」と、恐る恐る声をかけてみたけど、反応はしない。姉の皮を被った別の生き物が私の目の前に座っているようだった。
私は手に持つパンをお皿に置くと、覚悟を決めて姉の肩を叩いた。「大丈夫?」
「何が?」
返事はしてくれた。けど、顔は動かさず表情は崩さずで、やっぱりどこかおかしい。
「お、お父さん、仕事だから、休みの日も忙しいんだって……」
思わず、私は父のことを姉に言っていた。何でもいいから、姉を普段通りに姿に戻したくて、必死に口を動かしていた。
「ふーん、そう」
興味あるのか無いのかわからなったけど、ともあれ姉は小さく息を吸い込むと、体を動かし手元にあるパンを無造作に掴んだ。その瞬間からはいつもの姉に戻ったけど、……さっきのあれは、一体なんだったんだろう。
「お姉、今日はどこか行くの?」
元に戻ったのか確認の意味を込めて、質問をした。そういえば、姉は極度の低血圧で、毎朝起きるのに苦労していて、休みの日はまず朝は起きない。早くて十一時を過ぎるくらいだ。それなのに今日は早い。
「ん、休みなのに店長にシフトいれられてさ、お昼から仕事。あんたは?」
「今日は、友達と映画を見に行くの」「彼氏と?」「女の子、とです」「んじゃ彼女?」「意味わかんない……」
その映画は、数日前にパート一がテレビで放送されてから、異様に盛り上がっていた。テレビでもネットでもその話題を伴う情報に占領されていて、私から見るとそれは少しおかしかった。で、そのチケットを友達の親が貰ってきて、一緒に観に行くのだ。
「あぁ、あの凄い宣伝してる奴でしょ? 面白いの?」
「まだ私観に行ってないからわからないよ。でも、この前やってた一作目は結構面白かったよ」
「そうなの? 面白かったらネタバレしない程度に感想言ってよ」
「別に面白くなくても感想くらいは言うよ」
「あんたの説明はいまいち容量掴めないから、つまんない場合はわけわかんなくなるの」
その言い方は非道くない? と落ち込んだけど、姉は何も言わずにいつの間にかパンを食べ終え、自室へ戻っていった。
パンを口の中でもふもふしながら時計を見ると、このままだと遅刻してしまうことに気づき、慌ててパンを飲み込んだ。一緒に観に行く友達は集合時間にとてつもなくうるさくて、いい人なんだけど、五分遅れるだけで別れるまで小言を言われることになる。
必死に家から飛び出て走った。そのこともあって、どうにか約束の時間には間に合った。
「この映画って今凄い宣伝してるし人気あるでしょ。だから、今日は早めに行こうと思ったの。でも、こんなに早いと始まるまでかなり待つかもね」
それじゃあもう少し遅くてもよかったじゃん、と心の中で毒つく。まぁ、例え時間がもう少し遅くても、私は遅刻しそうになるんだろうけど。
だらだらと喋りながら映画館に着くと、私と友達は顔を見合わせて驚いた。
何故なら、もの凄い長さの行列が、映画館からはみ出ているからだ。遊園地の人気アトラクションのように、異様なまで人が並んでいた。
「ねぇ、もしかして時間間違えた?」
「ううん、だって、ほら、あと一時間もあるよ、始まるまで」
必死に友達が指差す掲示板には、言葉通りの時間が記されている。
「一応チケットは買おう」
前売り券をチケットと交換し、二人で不思議がりながら、仕方なくこの巨大な列に並ぶことにした。二人で他愛の無い話や、この列が長い理由を適当に推測していると、やっと前の時間の放映が終わった。
「あれ?」
とマヌケな声を出したのは、隣でそわそわしていた友達だった。大きな劇場とは聞いていたけどこの人数が入りきれるかはわからず、もしかしたら私達はこの次の次に回されてしまうかと心配していたから――ではなくて、劇場の出口を見て、声を出したんだ。
何故なら、二人しか、劇場から出てこなかったから。
男性と女性で、男の人はメガネをかけているのはわかるけど、顔はよく見えなかった。女の人は長い髪に隠れて表情はわからない。二人きりで出てきたのだから、仲良く歩くのかと思いきや、女の人は足早に逃げるように歩いていってしまう。男の人は、それを必死に追いかけているように、見えた。
やがて、列がゆっくりと進みだした。だけど、どう見ても私達が座れる余裕は無さそうだった。
「どうする? 立って観る?」
上映時間は二時間を越えているので、それは嫌だ。
「この次にしてもらおう」
近くにいたカップルらしき二人が次にしよう、と話しているのを聞いて、私達も時間を変えることにした。なんとかチケットを次の時間帯へと変更すると、それまで時間を潰すことにした。この映画館の近くにデパートがあるので、そこをぶらぶらと歩くことにした。本屋や服屋を適当に見て周り、友達は途中で寄った靴屋で可愛いスニーカーをしきりに欲しがっていたけど、中学生の少ないお小遣いでは、そう易々と買うことは出来ない。
「そういえば、知ってる?」
嫌がる友達を強引に靴屋から引き剥がすと、友達は思い出したかのように口を開いた。
「知ってるって、何を?」
「目上君のこと……」
友達は声を潜めて言う。目上君とは、同じクラスの男子のことだろう。サッカー部に所属していて、明るい性格の子で、女子にもそれなりに人気があった気がする。
「両親のね、仲が悪いんだって。家にいても、ほとんど話さないらしくて、話しても、ずっと怒鳴り合っているんだって」
まさか、あのいつも楽しそうに学校で過ごしている彼の親が? という思いと、一見心配そうに声を低めながら、目がランランに輝いている友達への嫌悪が私の中に浮かび上がった。でも、後半の思いは正直私も感じていた。他人の不幸は蜜の味、確かにその通りだ。
「目上君が、それを自分から話したの?」
「ううん、これは他の子から聞いた話なんだけど、最近は部活にも来ていないんだって。それに、もしかしたら、苗字変わって転校しちゃうかも。この前、放課後にそんなことを先生に言っていたらしくて、それを誰かがたまたま聞いたんだって」
「ふーん」
たまたま聞いた人が誰なのかは置いといて、私は、目上君とは同じクラスの人、くらいの認識しかなかったけど、目の前で話す友達は、少し違った気持ちがあるらしい。この後も、しきりに目上君を絡めた話題を上げてきて、少し気がめいった。
目上君は一人っ子と聞いていた。何度か席が隣になって話したことはあった。私の印象にはあまり残っていなくて、現在の姿を思い浮かべるに、それは嘘のような気もしてきた。離婚して、苗字が変わるということは、母親についていくのだろうか。
仲の良かった両親が、毎日大声を上げて喧嘩しているのを見て、どんな気持ちで、毎日を過ごしているのかな。
と、私は意味の無い疑問を抱きながら、ふらふらと二人で歩いていると、お腹が空いてきた。
デパートの中にあるファミレスに入ることにしたけど、休日のお昼は皆どこも並んでいて、その列に混ざるのは億劫だった。仕方なくデパートから出ると、駅の近くにあるお店に向かうことにする。
「確かファミレスがあった気がする」という友達の言葉を頼りに向かってみたけど、どうやら潰れていたらしく、小さい花屋があるだけだった。私は二言ほど悪態をつくと、ぐーぐー鳴るお腹を押えながら、近くにあった牛丼屋のチェーン店に入ることにした。
中学生の女の子が二人牛丼屋に入るのは少し戸惑ったけど、お腹の音には勝てない。券を買い、奥の席に座ったところで、友達が私の肩を叩いた。「ねぇ、見て」と小声で私の視線を誘導する。
その先には、あの映画館から出てきた男女がいた。私達とは正反対の場所に座っているから声は聞こえないけど、男の人の顔ははっきりと見えた。頬が焦けていて、メガネをかけていて、しきりに笑っているように見えた。赤いパーカーが印象的だった。
「やっぱりカップルだったのかな?」私が声を潜めて言う。
「そうは見えないけど」と友達は返してきた。
確かに、どこかぎこちない雰囲気が垣間見れた。後姿しか見えない女の人は、楽しそうには見えなかった。
「でも、なんであの二人だけしか映画館から出てこなかったんだろうね?」
「……調査とかしてたのかな? 整備とか?」
そう返すと、「でもあの二人は私服だよ。ありえなくない?」
「そっか。じゃあ、あの男の人が、女の人の気を引くために、あの時間の映画館の席を全て買って、二人だけで観た、とかは?」
ふざけて言う。いくらなんでもありえないだろと、自分に突っ込みながら。
「それは怖いよ。普通の人ならドン引きする」
だよね、と思ったところで牛丼が運ばれてきた。私は並盛りだったけど、友達は半熟タマゴをつけている。
そっちのほうが美味しそうだな。ふと顔を上げて、さっきの二人を眺めたけど、いつのまにかいなくなっていた。
映画は少し難しかったけど面白くて、誘ってくれた友達には全力で感謝して帰宅した。リビングの上で、姉が眠っている。疲れているらしく、「自分の部屋で寝なよ」と肩を揺さ振っても起きる気配は無かった。
仕方なくそのままにしておく。
今日も、父は遅くまで家には帰らなかった。夜中、ふと目を覚ますと、リビングで、何度もケータイが震える音がしていた。