Neighbor -隣人ー
次の日、金曜日の夜。洋子が夕食の支度をしながら大きな声を出した。
「あー! 塩がなーい! ザックー!」
ベランダでタバコを吸っていたザックが振り向いた。
「はいはい……タバコも無いから、ついでに行ってくるよ」
「一番小さいのでいいからね」
洋子が空っぽの小瓶を振って見せた。
ザックは大通りのコンビニエンス・ストアに入ると、洋子が持っていたのと同じ塩を見つけ出しレジに向かった。レジには前に来た時と同じ、やる気の無い店員がいる。お互いに言葉が通じないのは分かっているので、ザックは黙ってカウンターの後ろの壁面に並んだタバコを指差した。店員も黙ったままひとつのタバコを指差しザックの顔を窺う。ザックは首を振り、指を左に動かした。店員が左隣のタバコを指差すとザックは頷いた。
「五百三十八円で~す」
店員はやる気の無い声で言った後、ためらいがちにザックのコートのポケットを指差した。札のお金を出しかけていたザックは不思議そうな顔でポケットに手を入れ、一摑み分の小銭を出してカウンターに広げた。店員はそこからぴったりの金額を取った。
「ありがとうございました~」
ザックの顔も見ずに俯きながらマニュアル通りの言葉を言う。ザックは塩とタバコが入ったビニール袋を提げて出口に向かいながら苦笑いを浮べた。
マンションのエントランスに入ると、エレベーターの前に洋子の部屋の隣に住んでいる男がいた。この前洋子がドアをぶつけそうになった男だ。
「ハイ」
「あ、こんばんわ」
男は礼儀正しくにこやかに応えながら、やって来たエレベーターに一緒に乗り込んだ。短めの整えられた清潔感のある髪型。丸みを帯びた輪郭で童顔だが、その落ち着いた雰囲気からおそらく三十代だろう。仕事帰りらしくスーツ姿で、手にはブリーフケースと買い物袋を提げている。信頼のおけるやり手の営業マンといったところか。
ザックは奥の壁に寄り掛かると小さく溜息をついて首を振った。職業病と呼ぶべきなのか、他人を観察する癖がついている。しかし何となくこの男が気になって仕方がないのだ。ザックの視線は自然と前に立っている男が提げている『ホームセンター』と書かれた買い物袋に注がれた。洋子の部屋がある階に着き、男はエレベーターの開ボタンを押しながらザックに先に下りるように促した。男の横を通り過ぎる時、ザックは礼を言って頷きながら何気なく袋の中を覗いた。ザックの後からエレベーターを降りた男が共用廊下を不自然なほどにゆっくりと歩いているのが分かる。ザックは眉根を寄せると首を傾げた。
「自分の周りにどんな奴が住んでるのか知ってるか?」
しょうが焼きにした豚肉を箸でつまみながらザックが尋ねると、豆腐の味噌汁が入った碗を置き洋子が首を傾げる。
「うーん……詳しくは知らないけど……何で? 皆そんなものじゃないの?ニューヨークだってそうでしょ?」
「ああ、まぁそうだけど……」
洋子がテレビのある方を指差した。
「こっちのおばちゃんは、まだ娘さんが小さい時に離婚したんだって。その娘さんはもう結婚して、それから一人で住んでるみたい。猫飼ってるのよね。あの猫可愛いのよ。たまに娘さんが子供連れて遊びに来てるみたい。小さい子の声が聞こえてくるの。それで、こっちの人は……」
洋子はベッドの方を指差した。
「二年くらい前かな、引っ越してきて挨拶に来たわ。三十ちょっとぐらいかしらね。やっぱり一人暮らしのはずよ。でも相当いい会社に勤めてるんじゃない?」
「そうなんだ?」
箸を止めたザックに洋子は身を乗り出して説明する。
「よく分かんないけど、隣はこことは間取りが違うの。角部屋で私の部屋みたいに狭くないのよ。部屋も二つぐらいあるんじゃない? ま、連邦捜査局に勤めてた誰かさんには適わないかもね~」
洋子が茶化したがザックは全く意に介さず肩をすくめた。
「ふ~ん……ずい分若い女と付き合ってんだな」
洋子は前にドアをぶつけそうになった時、隣人が連れていた女性を思い出した。確かにギャル風だったが、あまりにも濃いメイクで歳などよく分からない。
「あ、そうか。昼間に彼女と顔合わせるの?」
「いいや、あれ以来見掛けてないけど?」
洋子は悪戯っぽく笑った。
「真面目そうな顔してるけど、なかなかやるわよね……ザック、もしかして羨ましいの?」
ザックは笑わなかった。
「別に。いくら何でも、あれじゃ若過ぎるだろ」
洋子はニヤニヤしながらザックの顔を覗き込んだ。
「何それ? やっぱりあなたも若い女の子に目が行っちゃう訳?」
明日は仕事が無いからか、既に洋子は日本酒をかなり飲んでいる。ザックは溜息をついた。
「はいはい、もういいよ」
この話はこれで終わりとばかりにザックが箸を振ると、洋子は笑いながら肩をすくめた。
夜中、ザックはベッドに横になり天井を見ていた。洋子に視線を移すと、彼女はもう目を閉じている。寝言を聞いてしまってからは、洋子が眠ったのを確認してからでないと寝られなくなっていた。洋子の頭を撫でたが動かない。ぐっすり眠っているようだ。その時、隣の部屋のドアが開閉する音がした。洋子の部屋の前を通り過ぎる足音が聞こえ、遠ざかっていく。
自分も眠ろうと思って目を閉じた時、壁の向こうからくぐもった泣き叫ぶ声のようなものが微かに聞こえた。ザックは目を開けて耳を澄ます。「うっ! うっ!」という短い叫び声が泣き声に混じって聞こえてくる。ザックはベッドの上で起き上がった。
「おい! 起きろ」
洋子に呼び掛けたが、全く無反応だ。
「おい! ヨーコ! 起きろ」
強く肩を揺すると洋子は唸ってザックの手を払った。
「……またぁ? もういいよ、ザック……寝ようよ……」
「何言ってんだバカ! 違うよ」
洋子は不機嫌そうに細く目を開けた。
「バカとは何よ……」
ザックはベッドから出ると、素肌の上にフード付きのトレーナーを被った。
「ヨーコ、救急車を呼んでおけ」
それを聞いた洋子は驚いて起き上がった。
「どうしたの? 具合悪いの?」
「俺じゃない」
ザックはサッシを開けてベランダに出た。
「あと、入り口のドアを開けておけ」
訳が分からず混乱している洋子の前で、ザックは裸足のままベランダの手摺の上によじ登った。
「ちょ、ちょっとザック!」
ここは三階だ。落ちたら、怪我では済まないかもしれない。洋子が止めようとする間もなく、ザックは手摺を伝って隣の部屋のベランダへ消えていった。
「な、何なの……?」
洋子が呟くとすぐ、隣でガラスが割れる音に続いて勢い良くサッシが開く音が聞こえた。
どうしていいのか分からず右往左往しながらザックの言ったことを思い出そうとした。「救急車を呼べ」そう言っていた。隣の男の人に何かあったのだろうか。洋子はタンクトップの上にジップアップのパーカーを羽織ると電話を手に取った。しかし番号を押そうとしてためらった。きっと状況を訊かれるだろうが答えようがない。何が起こったのか分からないのだから。緊急事態なのだろうが、気ばかり焦って何も出来ない自分がもどかしい。その時、ザックが「入り口を開けておけ」と言っていたのを思い出し、電話を持ったまま玄関へ急いだ。
玄関を開けて廊下に顔を出すと、隣の部屋のドアが開きザックが出て来るところだった。腕に人を抱えている。隣の住人の男ではなかった。髪を金色に染めた女性だ。キャミソールにピンクのスウェットパンツ姿で、胸の上に置かれた手が真っ赤に染まっている。ザックは洋子の部屋にその女性を運び入れた。
「ねぇ、彼氏は?」
洋子が訊くと、キッチンの前の床に女性を横たえながらザックが答えた。
「外出中だ」
女性は呻き声を上げているが、目は閉じていて意識朦朧としている。ザックは玄関から出て行った。
キッチンの灯りを点けてよく見てみると、その女性はずいぶん若いことが分かった。高校生か、もしかしたら中学生かも知れない。血にまみれた左の手首がぐちゃぐちゃに傷付いている。やはり血の付いた右手には何かを握っているのが分かった。眉毛を整えるための先の尖った小さなはさみだった。これで自分の手首を滅茶苦茶に刺したのだろう。洋子の身体から力が抜けた。さらに顔、肩や腕に打撲のような跡が幾つもある。洋子は電話をしっかりと握り、一一九番を押した。
「隣の家にいた女の子なんですけど……自分の手首を切ったみたいで……」
隣の部屋に向かうザックは、廊下の突き当たりにある雨水を逃がす排水溝の上に小さな紙が落ちているのに気が付いた。ドアの横の表札にはアルファベットで「YAMAZAKI」と書かれている。ザックは紙を摘み上げ、すぐ横にある窓を見た。防犯用に格子が付けられた腰高窓には、上部に換気用と思われる幅の狭い小窓があり、そこが細く開いていた。その下の窓にはガラスとガラスが合わさる部分にL字型の金具が取り付けられている。これでは中から開けることが出来ない。ザックは玄関から再び部屋に入った。