Doubt -疑念ー
次の日の昼間もザックはどこかへ出掛けたようだった。洋子が仕事から帰ると家にいたが、肉まんはまだそのまま冷蔵庫の中にあったのだ。どこへ行ったとも、何をしていたともザックは言わなかったので洋子も訊くのをやめた。
洋子が帰りにスーパーで買って来た焼き鳥と、ザックが作ったポテトサラダで夕食を摂り、その時一緒に肉まんも平らげてしまった。
きっと父親のアンソニーのためにお土産でも探しているのだろう、洋子はそう思っていた。
その次の日の午後、ザックは下りの電車に乗り込んだ。時間帯的に電車の本数が少なく、車内は混雑していた。ドアの脇に立ち、ポケットから紙を出す。ドアの上にある路線図を確認すると、紙をポケットにしまうため下を向いた。すると、近くに立っていた女性の肩に掛けているトートバッグに、黒い袖の手が静かに伸びていくのが見えた。バッグの持ち主である大学生とみられる女性は片手で手摺を摑み、バッグを掛けた方の手で持っている携帯電話の画面を見つめている。そして耳にはヘッドホン。何とか気付かせようとザックは目を向けたが、女性は携帯電話の画面に集中していて全く顔を向ける気配が無い。やがて黒い袖の手がバッグの中からブランド物の財布を取り出したのが見えた。電車が次の駅に近付き減速して揺れると、盗んだ財布をジャンパーの内ポケットにしまう男の顔が見えた。
電車が停まりドアが開くと、財布を盗んだ男が降りるためザックの方へ近付いてきた。財布を盗まれた女性は全く気が付いていない。
「くそっ! 面倒くせぇな……」
ザックは小さく悪態をついて舌打ちすると、財布を盗んだ男の手首を捕まえた。男は一瞬慌てたがすぐにおとなしくなった。ザックは財布を盗まれた女性の顔の前で指を鳴らした。ようやく携帯電話から目を離した女性は呆けた顔でザックを見た。ザックは女性に手招きし、電車を降りるように促した。
駅の事務所に二人の刑事がやって来た。その中の一人は堀井だ。腕を組んで壁にもたれていたザックは溜息をついた。
「またあんたか……」
堀井はにこやかに頷いた。
「こっちの台詞ですよ、フェアストーンさん」
「今日はまだ誰もぶっとばしてないぞ」
「残念ながら、これは私の管轄なんです」
事務所を出ると、財布を盗まれそうになった女子大生は何度も頭を下げてザックに礼を言い、下りのホームに急ぎ足で戻って行った。隣に立った堀井がザックに尋ねる。
「どこかへ行く予定だったんですか?」
ザックは駅の天井から吊り下げられた時計に目を遣った。もう四時近くになっているのが分かると、うんざりした顔で答えた。
「もういい……帰る」
財布を盗もうとした六十代の男は、駅の外で待機していた警察車両に乗せられた。堀井と一緒に来た若い刑事が男の隣に乗り込むと車は走り出した。ザックが自分の隣にいる堀井をチラッと見た。
「一緒に行かなくていいのか?」
「大丈夫です。あの男は抵抗しませんから。常習なんですよ。刑務所を自分の家だと思ってるような奴ですから。運良く捕まらなければ、盗んだ金で何日間か食いつなげる。運悪く捕まっても、刑務所では食うに困らない。そんな事を何十年もやってるんですよ。一度しかない人生なのに……」
「どこの国にもいるんだな、そういう奴が……」
苦笑いしたザックに堀井が言った。
「私も隣の駅から署に帰ります。ご一緒していいですか?」
上りのホームで並んで電車を待っていると堀井が口を開いた。
「彼女とは、シルバーレイク・タウンで知り合ったんですか?」
「えっ?」
不意の質問に動揺したザックは堀井の顔を見た。堀井はにこやかに笑いながら説明する。
「この前電話で、ワトソンさんでしたっけ? あなたが後藤朗事件の捜査を現場でしてらしたと聞きまして」
「ビルの奴……余計な事を……」
ザックは舌打ちした。堀井のこの笑顔は本心を隠す仮面だと気が付いている。何を考えているのか、今は推し量る事が出来ない。ザックの頭の中で警鐘が鳴り響いた。
電車が来て二人は乗り込んだ。ドアの前の立つと堀井が続ける。
「彼女は、一年前にあなたと知り合ったと言ってましたから。一年前といえば、捜査も大詰めで大変な時だったんじゃないですか?」
「……息抜きも必要だろう?」
ザックはドアの脇にもたれて素っ気無く答えた。堀井は笑いながら頷く。
「潜入捜査だったんでしょう? 彼女に身分を隠すのも大変だったんじゃないですか? いつ彼女に打ち明けたんですか?」
「さぁ、いつだったかな……」
駅に着き、改札を出ると堀井が立ち止まった。
「実は私の長女が……あ、今高校生なんですがね、後藤朗と同じ高校に通ってるんですよ。もちろん後藤は十年も前に卒業してますから、面識なんてありませんが。まあ、そういうわけであの事件が起きた時から私の方も興味がありましてね」
「ふ~ん……」
気の無い返事をするザックを見上げると、堀井は続ける。
「しかし、あの頃は大変だったみたいですね。学校にも大勢マスコミが来たそうです。後藤朗はどんな生徒だったのか、とかね。ネット上にも誹謗中傷が酷かった。彼の家族についても、ある事無い事。匿名性を利用して、犯罪者やそういう人間を作り出した家族に正義の鉄槌を下しているつもりなんでしょう」
ザックは堀井の話を無表情で聞きながら、洋子の部屋のクローゼットにしまわれたノートパソコンを思い出した。それほど古い型でもなく、壊れている風でもなかった。洋子はそれを使っていないと言っていた。「プロバイダーも解約しちゃったから」と。堀井が言っている事、きっとそれが原因なのだろう。
「ま、彼の潔白が判明したところで、訂正や謝罪などするはずもない」
ザックの胸の内に積もっていた澱のようなものが、堀井の言葉を受けると毒気を孕み大きくなっていった。さらに駅前ロータリーの淀んだ空気が呼吸を苦しくさせる。
深く息をついたザックは軽く手を上げ、堀井に別れを告げたつもりで歩き出した。しかし背後から堀井の声が追いかけてくる。
「そういえば、彼女と後藤朗が高校の同級生だってご存知でしたか?」
ザックは立ち止まり、振り返ると思い出したように答えた。
「……ああ、そんな事言ってたかもな……」
堀井は探るような目でザックを見ながら頷いた。
「ええ、間違いありません。それじゃ私はこれで……」
堀井はザックとは反対の方向へ歩き出す。ザックはしばらく堀井の後姿を見送ると、洋子の部屋へ向かって歩き出した。
マンションに近付いてくると、見覚えのある年配の女性が前を歩いていた。隣に住んでいるおばさんだ。廊下やエレベーターで何回か顔を合わせたことがある。おばさんは重そうな買い物袋を両手に持ち、ゆっくりと歩いている。いつもの歩幅で歩くザックはすぐに追いつき声を掛けた。
「ハイ」
「あら、お隣の! こんにちは」
おばさんはザックの顔を見ると陽気な声で応えた。ザックが買い物袋を指差して手を出すと、嬉しそうに笑った。
「あら、持ってくれるの? どうもありがとう!」
言葉が分からず首を傾げながら袋を手に取ったザックの顔をおばさんは覗き込んだ。
「あら、外人さんなのね。知らなかったわ。それ重いでしょ? お米だから。ライスよライス!」
ザックはにこやかに頷いた。おばさんはその後も日本語に時折英単語を挟み、上機嫌で喋り続けた。
ザックは玄関の中まで荷物を運び入れた。おばさんの部屋は洋子の部屋を反転しただけの同じ間取りだ。すると奥からかなり栄養状態の良好な茶トラの猫が出てきた。喉を鳴らしながらおばさんの脚に纏わりつき、それからザックがいる玄関の手前まで来てごろんと仰向けになった。ザックは口元を綻ばせ、どこまでも丸く柔らかい腹を撫でると人懐こい茶トラは甘えた声で長く鳴いた。
帰ろうとしたザックをおばさんが呼び止めた。フリーザーから平たい箱を出してザックに差し出す。
「これ持ってって! 親戚が送ってきたの。明太子よ。美味しいのよ~これ。分かる? デリシャスよ」
ザックは笑って頷いた。おばさんは自分の家の冷蔵庫を指差す。
「帰ったら冷蔵庫に入れとくのよ」
「これどうしたの?」
仕事から帰ってきた洋子が冷蔵庫を見てザックに訊いた。ザックはテレビがある方の壁を指差して答えた。
「隣の人に貰った」
「隣って、おばちゃん? 言葉通じるの?」
「とりあえず、美味いっていうのと、冷蔵庫に入れとけって言うのは分かった。いったいそれ何なんだ?」
ザックは座っていたベッドから立ち上がり、キッチンで明太子のパッケージを開けている洋子の手元を覗き込んだ。
「魚の卵を唐辛子で漬け込んであるの」
ザックは顔をしかめて呟いた。
「ゾッとしねぇな……」
「あら、美味しいのよ! 決めた! 今夜はこれ食べよう。ザック、悪いけどスパゲティ茹でてくれる?」
「はいはい……」
ザックは気乗りしない様子で戸棚から鍋を出した。
今日も洋子はザックに何をしていたのかは訊かなかった。脱ぎっぱなしになっていたザックのコートをハンガーに掛けた時、小銭のせいで日増しに重くなっていくポケットも気にはなったが何も言わなかった。ただ、どうしても訊いておきたい事があり、夕食が出来上がってから何気なく尋ねた。
「今日はお昼何食べたの?」
「ハンバーガー」
「あ、そう。偶然ね、私も」
「三個。小さくてさ、最初冗談かと思った」
ザックは明太子で和えたスパゲティをおそるおそる口へ運んだ。じーっと見守る洋子に顔を向け、目を見開いた。
「美味いな、これ」
今日のザックはとても穏やかに見えた。洋子が職場での出来事を話していても、いつものように茶々を入れる事もせず憎まれ口を叩く事もなかった。上の空というのも違う。洋子の話に耳を傾け、静かに相槌を打っている。
愛し合った後、洋子はザックの腕に頬を寄せた。二人のまだ荒い息が部屋の空気を震わせている。やがてそれが治まってくると洋子は眠るつもりで目を閉じた。顔にかかった髪をザックがそっと指で梳く。優しく頬に触れる感触が心地良く、洋子は目を閉じたままでいた。このまま眠りにつく事が出来れば、今日という一日は言うことなしだと思えた。
洋子がウトウトと意識を失いかけた頃、どこか困ったようにザックが息をつく音が耳に届いた。どうしたのだろうと思っていると、さらに小さな呟き声が聞こえた。
「……俺を許せるのか?」
どういうことなのか訊きたかったが、ザックは寝ている自分に問いかけたのだと思うと、このまま黙って目を閉じていた方がいいだろうと判断した。きっとザックは答えなど求めてはいないのだろう、と。
朝、目が覚めると珍しくザックの方が早く起きて朝食を作っていた。昨夜の事もあり、どういう風の吹き回しかと尋ねたが「スクランブルエッグは俺が作ったほうが美味いだろ?」と憎らしげに笑っただけだった。
洋子は普段通りに家を出て会社へ向かったが、昨夜のザックの言葉がどうしても気になってしまう。許すとは何の事なのか。あの男がした事で自分が怒っているといえば、シルバーレイク・タウンにいた時に嘘ばかりついていたことか。確かに腹は立ったが、ザックの立場を考えれば仕方が無かったとも思える。捜査のために、あの町の誰にも自分の素性を明かすことは出来なかったのだ。ほんの数日前まで本当の名前すら知らなかった事は、怒ってはいるが許すとか許さないという問題ではない。
ホームへ続く駅の階段を上がりながら洋子は胸騒ぎに襲われた。ザックにはまだ何か隠している事があるのだろうか。
もやもやとした気持ちのまま洋子は仕事を終えた。会社の更衣室で着替えていると携帯電話が鳴った。ザックの疲れた声が聞こえる。
「今ウラヤスって所にいるんだけど……」
「浦安? 浦安って……何で?」
ブツブツと不満そうにザックが説明する。
「何回も電車乗り換えて……やっと着いたんだけど。ちょっと行きたい所があって……でも見当たらないんだよな」
「浦安の行きたい所って、もしかして……あ、浦安の駅からはちょっと離れてるかも……」
ザックの悪態をつく声が聞こえる。
「あ、あの……ザック?」
「遅くなるかも知れない……」
電話は切れてしまった。洋子は手に持った携帯電話を眺め、もはや首を傾げるしかない。隣で着替えていた由美が顔を向けた。
「何? 彼氏?」
「うん……でも、一人であんな所に行くの? しかもザックが?」
夢の国で一人楽しく遊んでいるザックなんて想像するだけで怖い。それとも誰かと一緒なのだろうか。いったい何をやっているのか、あの男は。
ザックは夜十時過ぎに疲れた顔で帰ってきた。ずっと心配して待っていた洋子は、玄関で座り込みブーツを脱いでいるザックに尋ねた。
「それで、辿り着けたの?」
ザックは洋子を見遣ると不機嫌そうに首を振った。
「もうやめた……」
部屋に入ると呻き声を上げながらベッドに倒れ込む。
「もしかして……迷子になっちゃったの?」
「何言ってんだ。違うよ。ただ自分がどこにいるのかよく分からなくて、行きたい場所に行けなかっただけだ……」
そう言い放ち、ふてくされたように背中を向けたザックに洋子は首を傾げた。
「……それを迷子って言うんじゃないの?」