Reconciliation -和解ー
二人がお互いの自己紹介を済ませると、堀井は単刀直入に切り出した。
「ザッカリー・フェアストーンさんという方が、今こちらにいらしてまして……」
「ああ、その男か。全米指名手配中の凶悪犯だ。拘束しておいてくれ」
「えっ?」
堀井の戸惑った声にビルは大きく笑った。
「冗談だ。確かにその男は先月までうちの捜査官だった。あいつ何かしでかしたのか?」
堀井は苦笑いしながら答えた。
「驚かさないで下さいよ……実は犯人逮捕にご協力頂きまして……」
「何だ? 日本の警察は犯人逮捕に協力した人間を拘束するのか?」
ビルの皮肉を含んだ言葉に萎縮する事もなく、堀井は穏やかに返した。
「色々事情がありましてね……」
「そうか、私が保証する。そいつは少々荒っぽいが頼りになる男だ」
「そのようですね……安心しました」
にこやかに話す堀井を見ながらザックは落ち着かなげに脚を組んだ。ビルの声は聞こえないが、あの男の事だ。きっとろくな事は言わないだろう。早く終わってくれる事を祈った。
洋子もまた、面倒な事態になってしまったとザックの素性を明かした事を後悔していた。しかし、あのままだんまりを続けていれば、いつまで経ってもここを出られないだろう。それに、ザックが不良外国人だと誤解されっぱなしなのも腹が立つ。これは仕方が無かったのだと自分に言い聞かせ、早く終わる事を祈った。
ザックと洋子の思いとは裏腹に電話を引き延ばしたのはビルだった。元々機嫌が良かったのか、それとも遠く日本から自分が目を掛けた元部下の話題が出たのが嬉しかったのか、ビルは誇らしげな声で付け加えた。
「それから、いい事を教えてやろう。ゴトウアキラ事件を知ってるだろ?」
「ええ。もちろん」
「その男は事件の現場で捜査にあたっていた者だ。扱いは丁重にしてもらいたいな」
「そうですか……」
テーブルに頬杖をつき苛立ったように溜息をついているザックに目を遣りながら堀井が相槌を打った。
ビルが話を変えた。
「ところで、あいつは今誰かと一緒にいるのか?」
「ええ。宮田洋子さんという女性と」
ビルが明るい声を上げた。
「そうか! ヨーコと一緒か。悪いが、ちょっとあいつと換わってくれるかな」
堀井は電話のコードを伸ばし、ザックの前に置くと受話器を差し出した。ザックは気が進まないといった感じで受話器を受け取る。
「俺だ……」
「お前何やったんだ?」
「俺にクスリを売りつけようとしたバカがいて……そいつの仲間と三人全部、病院送りにしちまった」
ビルは笑った。
「よりによってお前に! それより今ヨーコと一緒なのか。良かったな」
「……ああ。結婚することになったから、近いうち連れて帰る」
「ちょっとヨーコと換わってくれ」
ザックは洋子に顔を向けた。立ったまま浮かない顔をしている。目が合うと、耳から離した受話器を差し出した。洋子が戸惑ったような顔で自分を指差すと、ザックは頷いた。
「どうしよう……」
洋子は小さく呟いた。ビルと話すのが躊躇われた。正直ビルにはあまりいい印象は無い。ザックが撃たれた後、いくら訊いてもビルはザックのことを教えてくれなかった。その事に腹が立ち、ビルに向かって暴言も吐いた。
俯いた洋子の目にザックの左腕に着けられたココペリのブレスレットが飛び込んできた。一年前、ザックに渡して欲しいとビルに頼んだのだ。ビルはちゃんとブレスレットを渡してくれていた。それにザックに住所を教えたのもビルだ。そのお礼だけでもしなくてはいけないだろうと思った。
洋子はザックの隣の空いている椅子に座り、受話器を受け取った。
「洋子です……」
「久し振りだな、ヨーコ」
一年前には聞いた事がなかった優しいビルの声がした。
「あの、あの時は本当に……すみませんでした」
「いや。謝るのはこっちの方だ。俺はもう、あいつは助からないと思ってたんだ。辛い思いをさせて悪かった……」
ビルが声を詰まらせると洋子も胸に痛みが走った。あの時のビル、そして自分は何だったのかと考える。少なくともあの頃の自分は、怒りと絶望に突き動かされ自分自身を見失っていたのだ。ビルが続ける。
「こうなって本当に良かった。皆で、君が来るのを待ってるよ」
「あ、ありがとうございます……」
様々な思いがこみ上げ、目に涙を浮かべて話す洋子を、堀井が頬杖をつきながら眺めていた。ザックは居心地悪そうにそっぽを向いている。
少しの沈黙の後、ビルの震える声が聞こえた。
「このまま切ってくれ。もう誰とも話せそうに無い……」
「はい……」
洋子は電話を切ると今までのしこりを吐き出すように深く息をついた。
堀井が机から身を乗り出してザックに言った。
「もう結構ですよ。フェアストーンさん」
ザックは不機嫌そうな顔のまま、黙って椅子から立ち上がった。そこへ再び堀井が声を掛ける。
「あなたには感謝状が贈られると思いますが……」
「いらない!」
ザックが苛ついた声で間髪入れずに答えると堀井がにっこり笑った。
「分かりました」
ザックと洋子が部屋を出て行くと、口元に薄い笑みを浮かべたままの堀井が呟いた。
「後藤朗か……」
警察署を出たザックと洋子は、空腹を抱えながら険悪な雰囲気で歩いていた。
「まったく……散々だったわ」
「仕方ないだろ。あいつが俺にクスリを売ってきたんだ。他にどうすればいい?」
機嫌悪そうに言い捨てたザックを洋子はキッと睨みつけた。警察に拘束された事はもちろんだが、何よりもザックの行動が怖いのだ。
「だからって、あんなことして……あなたが取り押さえることはないでしょ?また怪我でもしたらどうするのよ! 断って、後でこっそり通報すれば済む事じゃない!」
「その間に別の誰かが買ったらどうするんだ?」
心配している事も分かってくれない。大きく溜息をついた洋子にザックがしかめっ面を向けた。
「分かったよ! これからは見て見ぬ振りすればいいんだろ? 目の前で何が起きても!」
洋子は口をへの字にしてザックを睨みつけた。
二人は開いているラーメン屋を見つけると飛び込んだ。店内には入り口のすぐ横の席に、飲んだ帰りと見られるサラリーマン二人組がいるだけだ。
ラーメンを二つ注文し、ビールを飲みながら待っている間も会話はなくザックは不機嫌な顔をしていた。空腹の洋子にも、この雰囲気を和ませようという気は起きない。
「てめぇ! この野郎!」
突然大きな声が響き洋子は椅子から飛び上がるほど驚いた。客のサラリーマン二人が喧嘩を始めたのだ。二人とも相当酔っているのは明らかだ。大きな声で怒鳴り合う声が狭い店内に響く。ザックも振り返ってチラッと二人を見たがすぐに前を向き、首を傾げると腕を組んで目を閉じた。
「あの……他のお客さんの迷惑になりますから……」
気の弱そうな店主が喧嘩をしているサラリーマンをなだめる。他の客とは誰でもないザックと洋子の事だ。他に客はいない。
「何だと!」
一人が椅子を蹴って立ち上がった。ネクタイを緩め真っ赤な顔をした四十代の男は、注意した店主とハラハラしている洋子を交互に睨みつけてきた。男に背中を向けているザックは相変わらず腕を組んで目を閉じたままだ。
酔っ払いの男は怒りの矛先を店主に向けることに決めたらしい。カウンター越しに店主に向かって怒鳴り散らす。
「客に向かって何だ! その態度は!」
「すいません、すいません……」
洋子は理不尽に怒りをぶつけられて平謝りしている店主を気の毒に思った。もう一人のサラリーマンは座ったまま笑ってはやし立てている。ザックを見ると、腕を組んで知らん振りを決め込んでいた。おもむろにタバコに火を点けると、煙をゆっくり吐き出しながら洋子を見る。「余計なことに関わるなって、お前が言ったんだよな?」そう言いたげに。
「こんな店、潰してやってもいいんだぞ!」
いい気になったサラリーマンが怒鳴り続けている。放っておく事に決めたザックだったが段々苛立ってきた。話の内容は分からないが、耳障りな怒鳴り声が空きっ腹に響く。顔が自然と険しくなってくる。底が歪んだ銀色の灰皿にタバコを押し付け、我慢できずに立ち上がろうとした。
「いいかげんにして!」
立ち上がり声を上げたのは洋子だった。勢いを削がれたザックは座ったままキョトンとして洋子を見上げた。
「うるさいのよ! こっちは落ち着いて食事がしたいの!」
空腹なのも手伝い、洋子は激しく怒り出した。酔っ払いを睨みつける目は吊り上り、頬は紅潮している。その洋子の顔を見たザックは背筋がゾクゾクしてくるのを感じた。
「何だ?」
サラリーマンが肩をいからせてザックと洋子が座っている席にやって来た。洋子は真正面からそのサラリーマンを睨みつける。ザックは座ったままその洋子の顔を楽しんでいた。
「殴られてぇのか? この女!」
サラリーマンが怒鳴ると洋子も負けじと言い返す。
「喧嘩だったら外でやってよ! 迷惑なのよ!」
激しい口論を前にしながらザックは口元に微かな笑みすら浮かべている。
「いいぞ、ヨーコ。もっと怒れ!」
自分に向けられた怒りではないため、ザックは余裕で呟いた。
洋子に怒鳴っていたサラリーマンは、座ったまま黙っているザックに目を向けた。
「おい、兄ちゃん。びびってんのか? 何とか言えや!」
酒臭い息と共に酔っ払ったサラリーマンの顔が飛び込んできて、ザックの視界から洋子が遮られた。ザックはサラリーマンを鋭く睨みつけた。
「FUCK OFF! ASSHOLE」
ザックの吐き捨てるような言葉を聞き、洋子は溜息をついた。この男は一度死にかけても全然変わらないのだ。
ザックが立ち上がった。見下ろすように睨み付けられたサラリーマンの顔がひきつる。洋子はふと数時間前のザックの暴れっぷりを思い出した。素手で三人の男を病院送りにしてしまった事を。
「まずい……」
蒼ざめた洋子は慌ててサラリーマンに顔を向けた。
「逃げて!」
サラリーマンは脱兎の如く逃げ出し、そのまま店を出ていった。席に残ったままのもう一人は、訳が分からず呆然としている。しかし振り向いたザックと目が合うと、急いで財布から五千円札を出してテーブルに置いた。
「つ、釣りはいいから……」
そう店主に告げぎこちなく笑うと、自分と先に店を出た連れのコートと鞄を抱えて逃げるように店を出て行った。
席に座ったザックと洋子の前にラーメンが置かれた。
「すいませんでしたね……」
店主が申し訳無さそうに頭を下げ、厨房に戻ると餃子を一人前持って戻って来た。
「これ、お礼ね。代金はさっきの人達から多く貰ってるから……」
頼んでもいないのにテーブルに置かれた料理をザックは不思議そうな顔で見ている。
「お礼だって。お金はさっきの人達が払ったって。儲けちゃったね」
洋子が声をひそめて言うと、ザックは納得したように頷いてから笑みをこぼした。洋子が箸を渡すと、ザックはラーメンのどんぶりの中からなるとを持ち上げ楽しそうに眺めてから口に運ぶ。
ザックがやっと笑ってくれた事に洋子はほっとした。