Nature -性分ー
洋子が結婚の報告と退社の意思を伝えると、支店長から驚きと祝福の言葉を掛けられた。一番驚いていたのは同僚の由美だった。それもそのはずだろう。三日前の金曜日に一緒に合コンに行ったばかりだ。その後にザックと再会してプロポーズされたのだ。
「知らなかった~。そういう人いたんだ?」
「うん。一年前アメリカへ行った時にね、知り合ったの……」
「遠距離恋愛してたんだ? それで彼が日本に来てプロポーズ……情熱的だね!」
簡単な流れはそういうことなのだが、情熱的という言葉を聞いて洋子は首を捻った。ザックが情熱的。洋子は苦笑いした。まったく程遠い感じがする。興奮している由美が質問を重ねてくる。
「ねえ、アメリカに住むんでしょ? どんな所なの?」
実はザックの家がどんな所にあるのか洋子はよく知らない。そこに行く車の中ではほとんど寝ていたし、ティムに誘拐された後は外が暗くて何も見えなかった。
「えっと……多分、荒野……」
洋子はお茶を濁した。
昼食は銀行の近くにあるインターネットカフェで摂った。洋子の周りに国際結婚した人などいない。どういう手続きが必要なのかを調べるためだ。
洋子は帰りの電車の中で頭を悩ませていた。
「一度休みを取って役所に行かないと……ザックには協力は望めそうも無いだろうな……大体、日本語が分からないし……」
口の中でぶつぶつとぼやきながら電車を降り、駅の改札を出ると携帯電話が鳴った。ザックからだ。
「何ボンヤリして歩いてんだ?」
「えっ? どこにいるの?」
洋子はロータリーの前で辺りをキョロキョロと見渡した。
「右側に『JUNX』って店があるだろ? そこにいる」
歩道に看板が出ていたので店はすぐに見つかった。駅前の雑居ビルの二階だ。洋子は初めて入る店だった。普段ほとんど寄り道することもないし、こんな店があることすら知らなかった。
店に入るとビールを飲んでいるザックがいた。カウンターがあり、壁際と窓際にテーブル席が並んでいる。今日は月曜日だからか、店は空いていた。奥の窓際のテーブル席に若いカップルがいるだけだ。洋子はザックの向かいに座った。
「飯でも作ろうかと思ったんだけど、あそこのキッチン低くて使いづらいんだよね」
身長が百八十七センチもあるザックなら確かにそうだろうと思い洋子は頷いた。久し振りにザックの手料理が食べられないのは残念だが、こうして一緒に店で飲むのもいいものだ。
オレンジを基調とした薄暗い照明の店内にはレゲエが掛かり、メニューを見ると美味しそうな無国籍料理が並んでいる。
「よくこんな店見付けたわね」
「っていうか、名前読める店がここだけだった……」
確かにここの駅前にある飲食店はほとんどが居酒屋か定食屋で、名前は漢字かひらがなだ。洋子は納得して苦笑いした。
ザックがトイレに立つと、洋子はビールを飲みながら食べ物のメニューを手に取った。昼は交代の時間が早かったので空腹なのだ。
ザックがトイレから出ようとすると男が入ってきた。ビールを運んできたこの店のウエイターだ。日本人ではない。その男がにこやかに笑いながらザックに話し掛けてきた。
「お兄さん、いい物あるけど買わない?」
ザックは眉を上げて訊き返した。
「何だ? いい物って」
男は笑いながら顔を寄せると声をひそめた。
「見当は付くだろ? シャブだよ。一回分で一万五千円、どうかな?」
ザックは笑って首を傾げた。
「高いな」
「じゃあ……彼女の分も、二つで二万円」
「ふ~ん……上モノなんだろうな? 見せてみろよ」
男は着ているミリタリーシャツの胸ポケットからタバコの箱を出し、その中から白い粉が入ったジッパー付きの小さなビニール袋を出した。
「これがあれば疲れ知らずだ。きっと彼女、喜ぶよ」
ザックはニヤッと笑うと、ジーンズのポケットから一万円札を二枚出し、左手の指に挟んで男の目の前に掲げた。男が金を取ろうとするとザックは手を引き、右手で男のクスリを持った手首を摑んだ。
「えっと……ナシゴレンと豆腐サラダ。それから……」
洋子は食べ物を注文していた。すると突然トイレの方から大きな音が響き、驚いて目を向けた。
トイレのドアが勢いよく開き、さっきビールを運んできたウエイターとザックが一緒に飛び出してきた。ザックは摑んでいる手を男の背中に回し、ドアの向かいの壁に強く押し付けた。
「通報しろ! 薬物所持だ!」
ザックが大きな声で言った。店にいる全員が唖然としてその光景を見ている。我に返った洋子は言葉が通じていないのだと思い、注文を取っている若い店員に伝えた。
「麻薬を持ってるから、通報しろって……」
摑まれた手をほどこうと必死にもがいている男にザックが嘲笑を浴びせる。
「残念だったな。そんな物無くてもアイツは充分喜んでるんだよ」
洋子は眉をひそめた。
「いったい何の話?」
しかし、洋子の傍らに立っている店員は動こうとはせず、カウンターの中にいる髭を生やしたマスターらしき男と顔を見合わせている。洋子はその二人の態度が何かおかしいと思った。
それまでニコニコと愛想が良かったマスターの顔が急に強張り、カウンターを出るとザックに歩み寄った。
「兄ちゃん、やめときなよ!」
どすの利いた声で言い放つとザックの肩を強く押した。
「何だ、グルかよ……」
ザックは薬物所持の男を壁に押し付けたまま、マスターの腹を蹴った。マスターは後ろ向きに倒れたが、悪態をつきながらすぐに起き上がりカウンターの中に逃げる。驚いた洋子は急いで通報しようと携帯電話を持って立ち上がった。それに気付いた若い店員が洋子の携帯電話を取り上げようと手を伸ばしてくる。
「やめて!」
洋子が叫ぶと、ザックは押さえ込んでいる男の額を壁に叩き付けた。男は気を失い床に伸びた。
洋子は携帯電話を胸の前で握り締め、身をよじって店員をかわしている。後ろからその店員の襟首を摑んだザックはそのまま引き倒した。小柄で細身の店員はテーブルに腰を打ちつけ、さっきまでザックが座っていた椅子と共に大きな音を立てて床に倒れた。奥の席にいるカップルは箸とグラスを手に、固まったままその光景を見ている。
「ふざけんな! このガキ!」
吐き捨てるように言ったザックの顔目掛けて、カウンターに逃げたマスターがグラスを投げつけてきた。グラスはザックの顔の前、五センチほどのところを通り過ぎ壁に当たって砕けた。破片がバラバラと椅子と一緒に倒れた店員の上に降りかかる。
ザックは怒りのこもった目でマスターを睨みつけた。
「危ねえだろ、バカ! 当たったらどうすんだ! 顔はまだ無傷なんだぞ!」
アイスピックを手に取り握り締めたマスターをザックがうんざりした顔で指差した。
「おい、そんな物持ち出したらどうなるか分かってんのか?」
マスターは無反応だ。いまだ携帯電話を握り締めたままの洋子がおずおずとザックに話し掛ける。
「ねぇ、ザック……通じてないみたいよ……」
「訳せ」
「何で私が……」
ザックに命じられた洋子は気が進まないまま、敵意に顔を歪めているマスターに引きつった笑みを向けた。
「あ、あの……危ないですから、それはしまったほうが……」
「ふざけたこと言ってんじゃねえぞ」
マスターに凄まれ、洋子は俯いて溜息をついた。
「あのバカ、何て言ってる?」
ザックに訊かれ、洋子はこの険悪な雰囲気を的確に表す言葉を必死で捜した。
「え、えっと……キ、KISS MY ASS……」
途端にザックは腹を抱えて笑い出した。そして不敵な笑みをマスターに向ける。
「面白え……」
何かまずい事を言ってしまったのかと洋子は頭を抱えた。
「ヨーコ、お前は早く通報しろ。それから、もしあの二人が起き上がったら教えろ」
口元に笑みを浮かべたまま、ザックは椅子を踏み台にしてカウンターに飛び乗った。