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Loss -喪失ー

 月曜日の朝は慌しかった。朝寝坊のザックを起こすのに手間取っていたら、時間がなくなっていたのだ。朝食を流し込み、何とか支度が間に合った洋子はザックから渡されたコーヒーで一息ついた。その時、隣の部屋からドアの開閉音がして、共用廊下に面した窓の外を男が通り過ぎた。昨日洋子がドアをぶつけそうになった隣人だ。洋子はTVの時刻表示を確認すると、声をひそめて言った。

「隣の人ね、毎朝時間ピッタリに出て行くの。八時十二分」

ザックが苦笑した。

「几帳面だな……」

「だからいつもあの人が行ったのを確認してから、コート着て戸締りして家を出るの。そうすると、ちょうどいい時間の電車に乗れるのよね」

洋子は立ち上がった。

「え~と……私の携帯の番号は教えたし、鍵も渡したし……あ、出掛ける時は気を付けてね。東京の道って入り組んでるから、迷子にならないように」

ザックは唇の端を歪めて笑った。

「大丈夫だよ。子供じゃないんだから」


 洋子はマンションを出て角を曲がった。しばらく歩いてから振り向いて上を見ると、ベランダでタバコを吸っているザックと目が合った。洋子が歩きながら手を振ると、手摺に肘をついているザックが左手で投げキスをしてきた。洋子は目を丸くして立ち止まる。

「あの人……あんなことするキャラだったっけ?」

思わず呟いた洋子の側を、同じように駅へ向かうサラリーマンや登校中の小学生が通り過ぎていく。洋子はにやけそうになるのを堪えながら、再び手を振ると駅へ向かって急いだ。

「まずい……遅刻しちゃう……」

 洋子が見えなくなると、ザックは手摺に寄り掛かったまま呟いた。

「何を浮かれてんだ……バーカ」

その時、どこからか女のすすり泣くような声が聞こえてきた。一続きになったベランダは、各部屋が薄い板で仕切られている。手摺から身を乗り出して耳を澄ました途端、近くにある小学校のチャイムが鳴り響いた。ザックは首を傾げながら部屋に入った。洋子が大慌てしたせいで部屋の中は散らかったままだ。掃除でもしようと考えた。狭い部屋だし、あっという間に終わるだろう。

 まずローテーブルの上の食器を片付け、床に散乱している衣類をベッドの上に放り投げる。そしてクローゼットからクリーナーを出し、部屋の掃除を始めた。ふとベッドの後ろにある本棚に目が行った。その中に一冊だけ異質な本を見つけたのだ。雑誌や小説が並ぶ棚の一番端にある、ボール紙のカバーが付いた本を取った。硬い表紙をめくると、建物の写真、制服を着た少年少女がたくさんいる。高校の卒業アルバムだ。

 ザックはベッドに腰掛けてページをめくった。高校生の時の洋子は今とは別人のようだった。どの写真でも何の翳りも泣く弾けるように笑っている。色々なものに守られているのが当たり前といった感じの、怖いもの知らずな笑顔。その年頃の少女特有のふてぶてしささえ感じられる。それはまさに無敵の笑顔だ。今の洋子はこんな顔で笑わない。横浜の写真とも違う笑顔だった。

 洋子よりも朗の方が先に目が行った。そこに映っているのは、ザックが知っている朗の笑顔そのままだった。ザックが朗の笑顔を見たのはつい最近だ。それまでは死に顔と、身分証明書の真面目くさった顔しか知らなかった。アンダーソンのパソコンに一枚だけあった朗の写真。三脚を使ってシルバーレイクタウンの食料品店の前で、その店の主サムとサムの妻アニーと写した写真だ。朗の笑顔はとても印象的だった。


 ビルに頼んでプリントしてもらった写真を持ち、一年ぶりにシルバーレイク・タウンを訪れた。日本に来る直前のことだ。突然店に現れたザックを見てサムとアニーは驚き、そして笑顔になった。一年前、ティムが洋子の誘拐を企てたのを知り慌てて町を出たのだ。何も知らない住民にとっては、二人は突然消えたも同然だった。

 パネルに入れた朗の写真を渡すと二人はとても喜んでくれた。自分が怪我をしたことを説明すると、アニーは目に涙を溜め「サンドイッチを作ってくるから」と言って奥へ入って行った。

 二人がジミーの馬マックスに乗って町を出た次の日の朝、シルバーレイク・タウンの警察にFBIが入った。アンダーソンが逮捕され、ブラウン署長の遺体が運び出されるのを住民は遠巻きに見ていた。その後FBIはレイクサイド・インに入り荷物を運び出した。その時にルークが実はFBIだったということが分かったのだ。しかしそこにはルークも洋子の姿も無かった。マックスは戻ってきたが、二人がこの町に戻ることはそれきりなかった。

 朗の事件の真相が伝えられると、再び町にたくさんのマスコミがやって来た。しかし、ルークと洋子の話をする者はいなかった。住民の間で暗黙のルールのようなものが出来ていたのだ。「あの二人のことは、そっとしておこう」と。

 ザックが持って来た写真を見ながらサムが言った。

「事件の真相が分かって皆は『やっぱり』という感じだったよ……『何かおかしいと思ってた』って。でも……今さらそんな事を言っても手遅れなんだ。アキラが戻って来る訳じゃない。あの事件で傷付いた人達の心が癒せる訳でもない。自分達に出来るのは、アキラがどんな人間だったかを知ることだけだ」

サムは寂しそうに微笑むと、写真の中の人懐っこくて屈託の無い朗の笑顔を撫でた。

「この笑顔が彼の人柄を表してる……これが本当のアキラだ。写真をありがとう、ルーク……」

ザックは俯いたまま黙って首を振った。しばらく写真を眺めていたサムが顔を上げた。

「ヨーコはどうしたんだ?」

その名前を聞くたびに心臓が奇妙な打ち方をする。あまり唐突に口にするのは避けてもらいたい。しかしザックは平静を装い説明をした。

「……実は俺がヨーコと一緒にいたのは、あの日が最後だったんだ。連絡も取ってない。FBIに保護された後、無事に日本へ帰ったって聞いたから……今は日本にいるんじゃないかな……」

「そうか……」

サムは伏目がちに俯いた。

「お前達がこの町を出て行った日の朝、アニーがバイロンの散歩中に湖畔でヨーコと会って話したんだそうだ。ヨーコは不安そうな顔で、お前の事を話してたって……それが最後だった」

大喧嘩したあの日の朝の事を思い出し、ザックは苦笑いをした。ひとつ溜息をつきサムは続ける。

「アニーとたまに話すんだ。お前達がもうこの町に戻る事はないとしても、どこかで二人一緒に居てくれたらそれでいいって……そうだったのか……」

 ザックは黙っていようと思っていた。しかしサムの寂しそうな顔を見ているのが辛くなった。

「……実はこれから日本へ行くんだ。出来たらだけど、ヨーコにも会ってこようと思ってる……」

途端にサムが顔を輝かせた。

「そうか! 頑張れよ!」

「えっ?」

何を頑張れというのか、戸惑っているザックの肩を叩きサムはさらに激励を続ける。

「ダメだったとしてもちゃんと報告するんだぞ。心配するな、その時は俺が日本へ行ってヨーコを説得してきてやる」

「サム……」

ザックが真剣な顔でサムを見つめる。サムはにっこり微笑むと力強く頷いた。

「サム、それだけはやめてくれ……」

 アニーからサンドイッチを受け取り、店を出て湖畔のメインロードを車で走りながら、ザックは自分を追い込んでしまったことに気が付いた。

「これでヨーコと上手くいかなかったら、ここにはもう二度と来れないってことか……」

 レイクサイド・インに近付くと、車のスピードを落とした。ザックが捜査中、休暇を取っていたレイクサイド・インのオーナーであるスミス夫妻はカジノで大儲けしたと聞いた。建て替え中のホテルは完成間近だ。以前は、落ち着いた居心地の良い内装に比べ外装は極めて無機質だった。今は湖畔のリゾートホテルらしく、白い漆喰の壁に深い木目の柱がアクセントになった趣のある外装だ。二階建てだった建物は三階建てになり、湖畔に面したバルコニーが付いている。

 その裏の馬場で馬に跨っていたジミーは、見覚えのあるチェロキージープが見えるとそのまま道路に出て追いかけた。ミラーでジミーの姿を確認したザックは、湖畔を囲む木立の際まで車を寄せて停めた。追いついたジミーは馬に跨ったまま運転席の窓から中を覗き込み、挨拶もせずに尋ねてくる。

「ヨーコは?」

ザックは胸に手をあて深呼吸した。

「そのことはサムに説明してある。サムに訊いてくれ」

ジミーは神妙な顔で口を開いた。

「ルーク、お前FBIなんだってな……何か悪かったな、『仕事しろ』とか偉そうなこと言って。お前はここでずっと仕事してたんだよな……」

「別に、気にしてないから」

「もう、ここには戻ってこないのか?」

「FBIは辞めたんだ。今は実家に戻ってる。そんなに遠くじゃないから、また来れると思う」

ジミーが途端に笑顔になった。

「その時は、ヨーコも連れて来てくれよな」

「簡単に言うなよ……」

心の中で呟いたザックの顔は引きつっていた。


 洋子との結婚が決まり、ザックは嬉しいというよりもホッとした気持ちだった。

 ザックは再びアルバムのページをめくった。校内のスナップ写真が並んでいる。明らかに素行の悪そうな連中と親しげに映っている朗の写真を見付けた。皆しかめ面をしてカメラを睨んでいるが、その中で朗一人が笑顔を浮かべている。どんな種類の人間にも好かれ一目置かれる天然の素質。それでいて周りに流される事はなく、自分のスタイルを崩さない。ザックは笑いながら呟いた。

「いるんだよな、こういう奴……」

 朗と洋子は卒業後、同窓会で再会してから始まったと聞いている。確かにアルバムを見た限り、この時期の二人に接点はないように思えた。その中に一枚だけ一緒に納まっている写真があった。教室の中、洋子が女友達三人とカメラに向かって笑っている。例によって無敵の笑顔だ。その写真の隅に横顔の朗が写っていた。穏やかな笑みを浮かべ、その視線の先には洋子がいる。洋子の話は本当だった。朗はずっと洋子が好きだったのだ。

「まったくアイツ……これ見て気付かなかったのか?」

ザックは呆れて呟くと、暫くその写真を眺めた。

 この無敵の笑顔の少女は僅か数年後に事故で両親を失い、その笑顔はもはや無敵ではなくなる。そして屈託の無い子供のような笑顔の少年は、十年足らずでこの世界から姿を消してしまう。

 ザックはアルバムを閉じて元の場所に戻した。掃除の途中だったがクリーナーもクローゼットに片付けると、コートを着込み洋子の部屋を後にした。


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