Beginning -起点ー
洋子は思い出したように堀井に声を掛けた。
「あ、堀井さん。さっきの封筒、いいですか?」
「やれやれ……この人もか?」と、苦笑いした堀井は背広のポケットから封筒を出して洋子に渡した。
封筒を受け取った洋子はバッグから自分の財布を出し、一万円札を抜き出すと封筒に入れた。それから財布の小銭入れを開け、封筒を逆さまにするとジャラジャラと大量の小銭が滑り降りてきて瞬く間に洋子の財布はパンパンになった。二つ折りのものだが、とても折れそうにない。洋子は呆れて顔をしかめた。
「いいんですか?」
堀井が尋ねると洋子は苦笑いしたまま頷いた。
「ええ、あの人がやった事ですから。これで向こうに持って行くお土産でも買います。残りは……寄付でもしようかな?」
この女もまた、日本の金を取っておこうという気は無いようだ。堀井は短く笑った後、真顔に戻って尋ねた。
「あなたは、東京で生まれ育ったんですよね?」
「そうです」
「あなたにとって東京は、何も無い所でしたか?」
自分の故郷に何の未練も見せない洋子を疑問に思ったのだ。
洋子は窓の外に目を遣った。高速道路の防音壁の向こうには既に都会のビル群は無い。収穫が終わり冬枯れした田畑、その合間に民家や雑木林があるだけの田園風景が広がっている。いわば日本の典型的な田舎の景色だ。洋子はこのような場所で育ったわけではない。しかし日本人の遺伝子に植え付けられているのか、ある種の郷愁というものは感じられる。憧れとでもいうのか、童謡を聞いた時に思い浮べる風景だ。しかし、それ以上のものは湧いてこない。それに、ここはもう東京ではない。
洋子は自分が育った住宅街を頭の中に思い描いた。学校からの帰り道、近所の蕎麦屋からは出汁に使う鰹節の強い香りが漂ってくる。賑わう商店街、日が暮れるまで遊んだ葦が生い茂る土手。そんなものはいつでも鮮明に思い出すことが出来る。電柱が立つブロック塀の角を曲がれば、家族と暮らした家が見えてくる。黒いスレートの屋根、クリーム色の外壁。通りに面した二階の窓に掛けられた緑色のカーテン。それまでのピンクがいかにも女の子っぽくて嫌だと、小学五年生の時にわがままを言って替えてもらったのだ。それが自分の部屋。今はもうその家は無い。既に取り壊され、新しい家が建っている事は知っている。洋子の故郷は記憶の中だけのものとなり、今は別の家族があの場所で思い出を刻んでいくのだ。
自分にとって何も無い所。一年前は洋子も確かにそう思っていた。何もかもが虚ろに見えて無意味に感じて、人が多い分だけ孤独を感じていた。しかしこの瞬間、それもどこか違うように感じる。洋子は堀井に顔を向けると笑顔で首を振った。
「いいえ。私がどこに行っても、もう二度と戻ってこないとしても、ここは私の故郷ですから。それは変わりません。色んな事がありましたから、いい事も悪い事も。でも……私、思っちゃったんですよね……」
「何をですか?」
「一年前、馬に乗ってるザックを見たんです。それが、すごく楽しそうで……いつもしかめっ面ばっかりしてたザックが子供みたいに笑ってたんです。それを見た時に、あの人のあんな姿を毎日見ることが出来るなら、自分の人生の何を差し出しても構わないって……」
堀井が眉をひそめた。
「馬、ですか……」
洋子は頷くと弾んだ声を上げた。
「これから住む家には馬がいるんです」
「ええ。聞いてますよ」
堀井は含み笑いをした。
「面白いなぁ……」
これからの生活に思いを馳せて口元に笑みを浮べている洋子から目を離した堀井は、運転席側の窓を見遣り口の中で呟いた。男はこの女から逃げるために馬が必要だと言っていた。女はその姿を毎日見たいと言っている。それぞれの思惑が絡み合い、自分の方が相手を少しだけ出し抜いていると思い込み、そこに優越にも似た幸福を感じる。親子でもなければ無償の愛など滅多に存在するものではない。夫婦などその典型だろう。本心をさらけ出し合っても上手くいくはずなどないのだ。
「まあ、馬には気を付けてください」
堀井の忠告に洋子は明るく答えた。
「ああ、大丈夫ですよ。私は馬には乗りません。何があっても」
「分かってないなあ、この人……」
心の中で苦笑しながらも堀井はさらに忠告を重ねた。
「あと、彼のお父さんにも。かなり強烈な人物らしいですから」
洋子は首を傾げた。
「えっ? アンソニーが? そんなイメージ無かったけどなあ……」
堀井は独り言のように呟いている洋子を見遣った。向こうへ行ったらさぞかし戸惑うのだろうと予想しながら。その姿を見る事が出来ないのが心残りだった。
空港に着くと洋子は堀井に礼を言って車を降りた。スーツケースを引いて歩き出そうとした洋子を堀井が呼び止めた。
「あの……彼のこと、守ってあげてくださいね。何て言うか……彼よりも、あなたの方がよっぽど強そうな感じがするので……」
洋子はにっこり笑った。
「ええ。私もそうじゃないかと思ってたとこです。あの人、鼻っ柱が強い割に繊細なんですよね。本当に面倒くさい男……」
洋子と堀井は互いに笑みを交わした。
「お元気で」
「さよなら」
洋子を乗せた飛行機が離陸する頃には太陽はすっかり沈み、辺りは夕闇に包まれていた。上昇を続ける窓からは東京の光の渦が見える。真っ黒な海とのコントラストによって、まるで溢れそうな宝石箱のようだ。再び洋子の胸に様々な思い出が甦ってきた。
一年前、こうしてこの街を出た時は何かを考える余裕など無かった。そして帰ってきた時には全てが変わってしまっていた。東京に戻るのが怖くてたまらなかったのだ。
何もかもが揃う街。しかし自分に必要なものは無くなってしまった。大切な人達も、思い出も全部心の中にある。
洋子の目から涙がこぼれた。
「さようなら……」
ザックがポンチョを羽織りながら家から出てきた。戸締りをすると欠伸をしながらポーチの階段をゆっくり下りてくる。
「おーい! 早くしろ!」
既にチェロキージープの助手席に乗り込んでいるアンソニーが大きな声でザックを急かす。
「急いだって飛行機が早く着くわけじゃないだろ……」
ザックがブツブツと文句を言いながら運転席に乗り込んだ。
車が走り出し敷地を出ると、前方から荷台に羊を乗せたトラックがやってきた。
「ネッドとシンディだ。ザック停めろ」
同じ居留区に住むナバホ族の老夫婦だ。シンディは織物の名人であり、ザックが着ているポンチョは彼女の作品だ。二台の車はちょうど運転席が重なるところで停まった。
「やあ!」
アンソニーが助手席からザックの方へ身を乗り出して挨拶をする。ネッドとシンディも笑顔で応えた。
「ザック、怪我はもうすっかりいいの?」
シンディに尋ねられ、ザックは開けた窓に肘を掛けながら頷いた。
「おかげさまで……」
「朝早く、お揃いでどこへ行くんだ?」
ネッドの質問にアンソニーがニコニコと笑いながら答えた。
「これからコイツの花嫁を迎えに行くんだ!」
ザックが溜息をつき天井を見上げると、シンディが驚いた顔で大きな声を上げた。
「あら! ザックももうそんな歳なの?」
「こいつも来年三十になるんだ!」
アンソニーは目尻の皺を深くして嬉しそうに笑った。
洋子が来る日をアンソニーは指折り数えて待っていたのだ。興奮して余計な事までペラペラと喋る父親に辟易し、ザックは頬杖をついて居心地悪そうに黙っているだけだ。シンディは感慨深げに首を振る。
「ついこの間までただの悪ガキだったのに……ザックがFBIになったって聞いた時は、この国も終わりだと思ったわねえ」
ザックは苦笑いして首を傾げた。さらにネッドが追い討ちを掛ける。
「いつだったっけ? お前がバイクで俺の家に突っ込んできたのは……」
「もう十五年も前の話だ! 勘弁してくれよ!」
ザックが溜まりかねて声を上げると三人は大笑いした。生まれた時から自分の事を知っている地元の年寄りに太刀打ち出来るはずもない。シンディは狭いトラックの中で腕をいっぱいに広げた。
「それじゃ、盛大にお祝いしなくちゃね!」
「控えめにお願いするよ……もう行くぞ! 親父!」
早々に二人に別れを告げるとザックは車を出した。
「そんなに急ぐこともないだろう……」
走り出した車の中でアンソニーが不満げに呟くと、ザックはこの気紛れな父親に疲れきった顔を向けた。
「到着した時に迎えがいないと、あいつハリウッドに行っちまうぞ」
「何? それはいかん! あんな所に行ったら悪い男に騙されるぞ。ザック、飛ばせ」
チェロキージープは砂煙を巻き上げながら走り去って行った。
エピローグ
洋子は空港の上りのエスカレーターに足を乗せた。建物の中は冷房が効き過ぎているが、窓から差し込む強烈な陽射しは外気温の高さを窺わせる。ふと、すぐ傍らにある下りのエスカレーターが目に入った。一年前、そのエスカレーターに乗って後ろを振り返り、寂しそうに丸まった遠ざかるビルの背中を見ていたことを思い出す。絶望と喪失感、怒りと悲しみ、どうしようもない孤独に苦しんでいた自分を。しかし、今ならば分かる。そう感じていたのは自分だけではない。あの時、ビルも同じ思いを抱いていたのだという事を。
洋子は前に立っている大きな身体をした中年女性の横から首を伸ばしてロビーを見渡した。悪戯っ子のような笑顔のアンソニーと話をしているビルが見えた。仕事は休みなのだろうか、青地に赤いハイビスカス柄のアロハシャツを着てアンソニーと親しげに肩を叩き合っている。あの二人が友達だとは知らなかったが、ビルのあんな楽しそうな笑顔を見るのは初めてだ。洋子の口元も綻ぶ。
どんな悲しみを抱えていても、まだ笑顔になれる自分がいる。笑顔を向けてくれる人達がいる。大切な人に会った時、自然と溢れる笑顔は言葉にしなくても伝えてくれる。「私は、ここにいるよ」と。たとえ、昔の無邪気な笑顔は取り戻すことが出来ないとしても。
エスカレーターを降りると、腕を組んで立っているザックが見えた。楽しそうに話しているアンソニーとビルとは対照的に、一見して不機嫌だと分かる様子で口をへの字に結んでいる。洋子はスーツケースを引いてザックに近付きながら考えた。
「いったいザックはどうしたんだろう?」
The end
三部に渡った「Kokopelli」ですが、これで完結となりました。長く拙い話を読んで頂いた方には心から感謝いたします。本当にありがとうございました。
感想等頂けると嬉しいです。是非、よろしくお願い致します。
いつになるかは分かりませんが、近いうちに違うお話でお会いしたいと思っております。その時には、またよろしくお願いします。
本当にありがとうございました。