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Spell -呪縛ー

 ハムが入ったフライパンがじゅうじゅうと音を立てる。洋子はその中へ卵を割り入れた。蓋をして火を細めると洋子は部屋を覗く。キッチンの照明は点けているが、雨が降り日差しの入らない部屋の中は朝だというのに薄暗いままだ。

 ザックはまだベッドの中だ。うつ伏せで頭の下の枕を抱き抱え、顔を横に向けて寝ている。彼は昨日東京に着いたばかりだ。相当疲れているのだろう。時差ボケもあるだろうし、昨夜もそんなに寝ていないはずだ。

 昨夜の事を思い出すと顔が熱くなってくる。それは自然な流れだった。生きているからこそ感じる事が出来る喜び。お互いの存在を確かめ合うように身体を重ねた。

 ベッドに近付き、ザックの寝顔を覗き込んだ。軽く閉じられた唇は一年前と変わりなく、今でも洋子には完璧に見える。本当にザックが生きていて良かった。もう二度と離れたくないと思った。顔を上げ、込み上げてくる涙を押し留めると静かに声を掛ける。

「ねぇ、ザック起きて。朝ご飯よ」

「うん……?」

ザックは細く目を開けて洋子を見ると、頭を少し上げてキョロキョロした。まだ少し寝ぼけているようだ。緊張感の無いその様子に平和な笑みが洋子の口元に浮かぶ。もっとも、今のこの状況は平穏そのものだ。

「まだ眠いだろうけど、ご飯食べたらまた寝ていいから……」

 ザックは自分がどこに居るのか思い出したように、また洋子に目を向ける。頬骨まで下がった前髪の間から覗くその無防備な眼差しに洋子の胸が高鳴る。顔が赤くなっていくのが自分でも分かった。ザックが気だるそうに唇を開く。

「……なあ、俺のパンツはどこ?」

洋子は大きな溜息をついた。顔の熱が瞬く間に引いていく。足元の床に無造作に落ちていたザックのパンツと、寝巻きにしていたジャージの七分丈パンツを無言で拾って手渡した。

 ザックは布団の中で仰向けになりモゾモゾと動いている。布団の中で横になったままパンツを穿いているのだ。

「私、初めて会った時あなたのこと格好いい人だと思った……」

呆れた声で言う洋子にザックは首を傾げる。両手は布団の中だ。

「初めて会った時って、ケンカしなかったっけ?」

「その前よ。あなたが口を開く前」

「ほんの一瞬だな」

苦笑いすると、布団を剥いでベッドから抜け出した。

「パンツを捜す俺も格好いいだろう?」

洋子は無言で肩をすくめるとキッチンへ戻った。

 戸棚から皿を出しながらチラッと振り返ると、ザックの引き締まった身体にまた鼓動が高鳴り急いで顔を背ける。聞けば、かなりハードなリハビリのメニューをこなしていたらしい。

「あ~あ……」

フライパンが乗ったコンロの火を消すと、ザックの間の抜けた声が聞こえてまた振り向いた。大きな欠伸をしている。寝癖の付いた髪に、半分しか開いていない目蓋。左の脇腹を右手でポリポリと掻きながらこちらへ歩いてくる。まるでくたびれたおっさんだ。洋子はまた顔を背けた。

「仕方ないわよ……寝起きなんだし、疲れてるんだから……」

自分に言い聞かせていると、背後に立ったザックが片手で洋子の腰を抱き、もう片方の手でサイドの髪をかき上げて首筋にキスをしてきた。もはや顔だけでなく、身体中が熱くなってくる。

「ちょ、ちょっと! くすぐったいってば……」

照れながら首を縮ませた洋子の髪から手を離し、ザックはフライパンの蓋を取った。柔らかく火の通った白身が黄身を薄く覆い、蒸されてつやつやとしたハムエッグが出来ている。

「美味そうだな~」

「朝ご飯の支度、手伝ってくれる?」

この上なく幸せな気分で訊いてみた。

「う~ん……その前にションベン」

「は?」

ザックはフライパンの蓋を洋子に返すと、さっさとトイレに入ってしまった。ドキドキしたかと思えばガッカリして、何とも忙しい朝だ。

「結婚するってことは……こういうことに慣れなくちゃいけないのよね?」

洋子は力無く首を振った。


「私、夜中に何か言ってた?」

朝食を食べながら洋子が訊いた。ザックは二枚目のトーストにイチゴジャムを塗りながら訊き返す。

「えっ? アノ時に?」

「ち、違うわよ! 眠ってる私を起こしたでしょ? 何か寝言言ってなかった?」

どこか不安そうな洋子の表情には気付かない振りをしてザックは首を振った。

「何も。隣で唸ってるから俺も目を覚まして、泣いてたから起こしただけ」

「……そう」

何も聞かれていなかったことに洋子は安堵した。

「そんなに怖い夢だったのか? どんな夢?」

イチゴジャムが付いた指を口に運びながら、ザックは何気なさを装って尋ねた。

 ザックの問いに洋子は顔を強張らせた。そんな事を言えるわけがない。ザックが撃ち殺される夢のことなど。しかも、これまでに何回も見てるなどと。トーストをかじりながら上目遣いに自分を見ているザックに、洋子は首を傾げて曖昧に笑ってみせた。

「ええっと、よく憶えてないけど……多分ゴジラに追いかけられてた……」

「……。さすが日本人だな……」

洋子が嘘をついている事などすぐに分かったが、ザックは感心したように頷くと唇の端を歪めて笑った。


 朝食の後片付けが終わった後、ザックは洋子に座るように促した。静まり返った部屋には振り続ける雨の音だけが聞こえる。雨は外界の全ての音を遮断し、この部屋だけが世界から隔離された空間のように思えた。洋子の目の前にいるザックは俯きがちに、ローテーブルの上で組まれた両手を見つめている。それはまさに一年前、ザックの実家で事件の真相を明かした時と同じ表情だ。静かな部屋に低い声が流れ始めた。

 ザックは人身売買の取引があった次の日、FBIがシルバーレイク・タウンに入った時の話をした。ティムと関わった人間が逮捕され、朗を撃ち殺したブラウン署長が自分の銃を口に咥え自殺したという話も。

 洋子はブラウンが死んだという話はニュースで知っていた。シルバーレイク・タウンで事件のことを訊きに警察署を訪れた時、ブラウンに散々嫌味を言われ叱責を受けたことを思い出した。あのふてぶてしく横柄だったブラウンが自ら命を絶ったことに少なからず衝撃を受けた。朗を殺したことの自責の念に駆られたのか、それとも逮捕という屈辱に耐えられなかったのかは分からない。きっとこれから先も、それが分かることはないだろう。

 自分がFBIに保護されビルと話していた時、ザックが生死の境をさまよっている時、ブラウンはもうこの世にいなかったのだ。自殺したのがFBIが踏み込んだ時ならば、きっとビルはその場にいたのだろう。あの時厳しい顔をしていたビルだったが、その実疲れているように見えた訳が少し分かったような気がした。

 あの事件が落とした影はどこまでも暗く洋子の心に落ちてくる。きっと関わった者全てにとっても同じなのだろう。洋子は顔を上げザックを見つめた。ザックは何故そんな話をするのだろう、そう思ったからだ。口を真一文字に結び、眉間に皺を寄せて真っ直ぐに自分を見つめるザック。その瞳にもまた、影が差しているのに気付いた。きっと、知っておくべきだと思ったから話したのだろう。洋子はそう考えた。

 ザックはブラウンの事を、ただ一言「あのバカ」と言った。初対面で差別的に罵られ、あれだけ嫌っていたブラウンが自らの死を以って事件が終わったことに、ザックは何の達成感も持ってはいないようだった。その言葉にはただ、虚しさだけが滲んでいた。

「それから、これはアンダーソンから聞いた話だけど……」

顔を上げた洋子の目を見てザックが言葉を繋いだ。

「アキラは君に会いたがっていたらしい」

「えっ?」

眉をひそめた洋子とは対照的に、ザックは無表情で淡々と話を続ける。

「満月が出て、シルバーレイクの写真を撮ったら次の日に帰るつもりだったそうだ。一週間以上旅を続けて、日本で待っている婚約者に会いたくなったからだと言ってたらしい」

洋子はしばらく黙ったままザックを見つめた。慰めようとしてそんな事を言っているのかと思った。しかし、ザックからは一度だって慰めや同情の言葉など掛けられたことは無い。きっとそれは、真実なのだろう。

 シルバーレイクタウンにいた時、本当の事を知るまでは朗が何を考えていたのか分からずにいた。朗は自分から逃げたかったのではないかとさえ思っていた。真実が捻じ曲げられていたとしても、そんな事を思った自分が愚かしい。そしてザックはただ側にいてくれただけではなく、自分が言ったことを憶えてくれている。

 孤独だと思っていた自分が、こんなにも守られていることを知った。自分のことを考えてくれる人がいる。この手に触れる事はできなくても、その思いはしっかりと胸に抱いて生きていかなければいけない。たとえその人が生きていても死んでしまっていても。

 洋子は溢れてくる涙を手の甲で拭った。

「ありがとう……」

洋子が震える声で呟くとザックは居心地悪そうに立ち上がり、タバコを吸いにベランダへ出てしまった。

 白く曇ったガラス越しにぼんやりと映る愛おしいザックの背中を見ながら、洋子は気が済むまで泣いた。


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