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Confession ー告白ー

 業者が洋子の部屋の家財道具を回収していった。洋子は残ったゴミをマンションのゴミ捨て場に持って行き、廊下を歩いていると隣のおばさんが腕に猫を抱いて出てきた。。

「引っ越すの?」

「ええ。結婚してアメリカに住むことになったんです」

おばさんははちきれんばかりの笑顔になった。

「あら、おめでとう! あの彼と? ほら、背の高い」

「そうです。あ! この前は美味しい明太子をありがとうございました」

「あら、そんなのいいのよ! 彼のこと最近見かけないから、喧嘩でもしちゃったのかと思ってて……良かったわ」

洋子は苦笑いして頷いた。確かにしょっちゅう喧嘩をしていたのだ。おそらくその声はおばさんにも聞こえていただろう。そう考えると恥ずかしくてたまらない。そんな事はまるで気にしていない感じでおばさんはにっこり笑った。

「重い荷物持ってもらったり、彼には色々親切にしてもらったから、よろしく言っておいてね」

「はあ……」

ザックがこのおばさんとそんな交流をしていたとは知らなかった。そういえばザックは年配の女性に優しいのだ。シルバーレイク・タウンのアニーにも、朗の母親からも気に入られている。彼の母親が生きていたら、力持ちのザックはきっと頼りになる息子だろう。もしかしたら、ザックも彼女達に自分の母親を重ねていたのかも知れない。

 洋子がそんな事を考えていると、おばさんに抱かれている猫が甘えた泣き声を上げた。洋子が猫の顎をくすぐると、太い首に埋もれるようにして見覚えのある首輪が目に入った。

「そうそう、チビちゃんもね、プレゼント貰ったのよね」

おばさんが正真正銘の猫なで声を出す。あきらかに太めで、猫の中でもかなり大きい部類に入る。しかし仔猫の頃からの愛称がそのまま名前になってしまったのだ。そのギャップに苦笑いしつつも、洋子はクロスのモチーフがついたシルバーの首輪を眺めて頷いた。それは、すりに遭った女子大生がお礼にとザックへ渡したブレスレットだ。

 あの夜、誤解だったと分かってザックを部屋に入れてやった後、二人で紙袋を開けて中を見た。中身は人気ブランドの男性用ブレスレットだったのだ。ザックはそれを摘み上げて苦笑いした。

「こんなもの着けて帰れるわけないだろう……」

ザックの祖先は、あの大陸にヨーロッパから多くの人が入植してきた時代から、度重なり迫られた改宗に抵抗し続けてきたのだ。

 その後、洋子はザックがブレスレットをどうしたかは訊かなかった。気にしていると思われるのが癪だったからだ。しかし、あの寒い中を外で待っていた送り主の気持ちを考えると、売ったり捨てたりするのは不誠実だと、一応洋子はザックに釘を刺した。まさか隣の猫の首輪にしたとは思いもよらなかった。しかも猫自身も気に入っているのか、高級ブランド品を着けてどこか誇らしげに見える。呆れている洋子をおばさんは笑顔で激励した。

「結婚に失敗した私が言うのもなんだけど、しっかり頑張って幸せになってね!」

「……はい」

洋子は再び苦笑いした。


「よいしょ」

荷物を詰めたスーツケースを玄関に運んだ。向こうに持って行く荷物は全てこの中に収まってしまった。何も無くなった部屋の中を見渡す。がらんどうの部屋はどこかよそよそしくて、七年間住んでいたとは思えないほどだ。それでも、この部屋で色々な事があったのは事実だ。洋子の胸に数々の記憶が去来する。

 この部屋で孤独に耐えながら過ごした日々。悪夢にうなされ泣きながら目を覚ました夜。それでも悪い事ばかりではなかった。この部屋では二人の男にプロポーズされた。一人は死に、一人は遥か遠く荒野の真ん中で自分が来るのを待っているはずだ。気が変わっていなければ。

 感慨深い物がこみ上げてきた洋子は目を閉じた。そこへ、玄関のチャイムが鳴り、途端に現実に引き戻される。

「もう! 何なのよ……人が思い出に浸ってるのに……」

ブツブツと文句を並べながらドアを開けると、堀井が立っていた。

「堀井……さん?」

「ああ、すいません。電話が通じなかったもので……」

堀井は玄関に置かれたスーツケースと空っぽの部屋の中を見て目を瞬いた。

「今日だったんですか……」


「何か、すいません……」

洋子は堀井の車の助手席で恐縮しながら頭を下げた。

「いいんですよ。フェアストーンさんも空港まで私がお送りしたんです。彼だけ特別って訳にはいきませんから」

「そうだったんですか? 何か、本当にすいません。二人して……」

堀井は笑いながらシートベルトを付けると、背広のポケットから封筒を取り出した。

「忘れないうちにこれをお渡ししておきます」

「何ですか? それ……」

「フェアストーンさんの怪我の治療費です。あの女の子の両親から預かりました」

「はあ……」

洋子は困惑顔で堀井を見た。堀井はさも困った事になっているという感じで眉根を下げて呟いた。

「フェアストーンさんには受け取ってもらえなくて……」

洋子は堀井に掌を向け、首を振った。

「彼が受け取らなかった物を、私が受け取る訳にはいきませんから」

「やっぱり……そう言われると思ってました」

堀井は溜息をついて封筒をポケットに戻した。封筒からはジャラジャラと音がする。

「ずい分重そうですね。それに、小銭?」

そういうものに普通小銭を入れるだろうか。洋子は訝しげに尋ねた。

「ああ、フェアストーンさんがね、両替していったんです。一万円分。ポケットの中の小銭を」

「呆れた! あの人そんなに小銭を?」

堀井は車を出して笑った。

「もうちょっとありましたね。後はガソリン代だと言って私に……彼は日本語とか日本のお金とか、全く覚える気はないようですね。あんなに聡明な方が……」

「ザックが聡明?」

素っ頓狂な声を上げた洋子に、大通りの手前で一時停止をした堀井は右側を確認しながら逆に質問をした。

「ご存じないですか? ニューヨークではかなり優秀な捜査官だったらしいですよ。あと、大学も飛び級したうえに優秀な成績で卒業したみたいです」

「……それって、ザックが自分で言ったんですか?」

疑わしげな洋子に堀井はニヤッと笑って答えた。

「いえいえ。今はね、調べようと思えば何でも調べられるんですよ」

この刑事はいったい何がしたいのか、洋子は苦笑いして頷いた。

 シルバーレイク・タウンにいた時のザックの話は、はっきり言ってあてにならない。どれが嘘でどれが本当なのか、今でもよく分からない事も多いのだ。結婚が決まってからの間も色々な事があり過ぎて、ザック自身の事をじっくり訊く暇などなかった。洋子はふうっと音を出して息をついた。

「そうですか……そういえば私はあの人の事どこまで知っていて、どこから知らないのかもよく分からないんですよね……」

「でも、いくら上っ面のデータを調べても、なかなかその人の内面ていうのは見えてこないんですよね。人間というのは裏腹なことをするものです。思い通りの人生を送っている人なんてほとんどいませんから、大体の人は自分の望みとは裏腹に生きている。彼も決して例外ではないと思いますがね」

 大事なのは一緒にいて相手を感じ取る事だ。堀井の言外の忠告に洋子は頷いた。きっとそうだろうと思った。今になって、あの男がかなりの寂しがりやなのだという事に気が付いた。ハイスクールを卒業して家を出てから長い間一人でいたのだ。アンソニーがそれを望んでいると思い込んで、心に深い傷を負ったまま。

「あれ? 長い間って、どの位?」

洋子はハッとした。

「やだ! 私ったら!」

突然大きな声を出した洋子に堀井が驚いて顔を向けた。

「どうしたんですか? 何か忘れ物でも?」

「い、いえ。そうじゃなくて、私……あの人の歳を知らないんです……」

「はあっ? それはちょっと……」

洋子は恥ずかしそうに笑った。

「そうですよね……ちょっと非常識ですよね。でも、訊いた事なくて……役所に提出する書類に記入してもらったけど、よく見なかったし……あの人幾つなんだろう? 私とそんなには離れてないと思うんですけど……」

慌てふためく洋子をチラッと見て堀井は短く笑った。

「来年で三十歳になるそうですよ」

「そうなんですか? あ、一つだけど年上なんだ……」

洋子は訳も無く感心しながら、独り言のように呟いた。

「……たまにすごく子供っぽいところがあるから、もしかしたら年下かもって……」

「よかったら、誕生日も教えましょうか?」

「あ、いえ。それは自分で訊きます。それぐらいは教えてくれると思うし、数時間後からはずっと一緒にいるわけですから」

堀井は前を見ながら頷いた。

「彼はあなたの事、色々調べたと思いますけどね。あなたは彼の事を知りたいとは思わないんですか?」

 シルバーレイク・タウンにいた時いつも側についていてくれたのには、そういう目的があったという事には確かに多少のわだかまりが残っている。しかし、それだけではない事も感じていたし、そう信じていたい。洋子は半ば自分に言い聞かせるように頷いた。

「ザックが私の事を調べたのは、それが仕事だったからです。ザックは自分の事はほとんど喋らなかったし、どうせ訊いても教えてくれないのは分かってたので。でも、私が知らなきゃいけない事は、ちゃんと話してくれますから……それがどんなに辛いことでも……」

「そうですか」

前を向きながら頷いた堀井に洋子はためらいながら尋ねた。

「あの……私達の事、色々調べたんですか?」

「ええ、まあ……直感でね、叩けば埃が出そうな人達だと思ったので。ああ、もういいんですよ。てっきり一年前あなたが事件に巻き込まれて、それをFBIが揉み消したんじゃないかと疑ってただけです。あなたに口止めをさせて。あなたが望んでないなら、それをどうこうしようなんて思ってません」

「はあ、そうですか……」

 洋子は暫く考えていたが、意を決したように堀井の方を向いた。

「私、この前堀井さんに嘘つきました」

「えっ?」

堀井は洋子をチラッと見遣り、やっと本当のことを話す気になったか、と頷いて先を促した

「私……ザックとの事、遊びだったって言ったの嘘ですから」

「何だそのことか」と拍子抜けした堀井はクスッと笑った。

「分かってますよ。何年刑事やってると思ってるんですか? あなたは、これからの彼との生活を守るためなら、周りの人間にどんな女だと思われてもいい。そういう事でしょ?」

洋子は苦笑して頷いた。

「ばれてましたか……。それから、ザックが言ったことも。私とシルバーレイク・タウンで遊んでたって……彼の名誉のために言っておきますけど、ザックはちゃんと仕事をしてました。私の監視を。それと、ホテルの管理人の仕事もちゃんと……」

「まあ、有能な方のようですからね。でも、やっぱり捜査官としては失格かな、監視対象である被害者の元婚約者と恋に落ちてしまうようではね」

洋子は僅かに顔を赤らめて俯いた。

「あの……多分皆誤解してると思うんですけど、シルバーレイク・タウンにいた間、ザックは私に指一本触れてません」

「ほう……」

堀井は前を見たまま眉を上げた。

 洋子は自分で言ったものの首を傾げた。指一本というのは大げさだっただろうか。そういうことが原因で大喧嘩したのを思い出した。その日の夜にザックは撃たれて、それっきり一年間消息不明だったのだ。あの日、ザックがあんな事にならなければ、二人別々に眠ることなど考えられなかっただろう。

「今さらそんなこと言っても仕方ないけど……」

口の中で呟いた洋子は溜息をついて天井を見上げた。洪水のように溢れ出してくる一年間の思いを誰かに打ち明けなければ溺れてしまいそうだ。洋子はためらいがちに口を開いた。

「あの……ビル、この前電話で話したFBIの……」

「ああ。ワトソンさんですね」

「ええ。ビルが揉み消そうとしたのはザックの事です。ビルは私からザックの存在を揉み消そうとしたんです。ザックが撃たれた後、私は何度も彼の事をビルに訊いたんですけど、何も教えてくれないまま、私は無理矢理帰されたんです」

一気に喋り、息をついた洋子に堀井は穏やかに頷いた。

「そうだったんですか」

「ザックが日本に来るまで、私は彼が生きているのか死んでしまったのか、本当の名前すら知らないままで……」

「それは辛かったでしょう……」

堀井が目を遣ると洋子は小さく頷いた。

「ずっと恨んでました、ビルの事。あの時私には自信があったんです。ザックがどんな状態でも、それを受け止めることが出来るって……でも、そんなこと無かったんです。夢を見るんです。日本に帰ってきてから繰り返し、ザックが撃たれた時の夢を。夢の中ではザックは死んでしまうんです。身体を蜂の巣のようにされて……一緒にいた小さな女の子まで……」

海のように広がったザックの血の温かさまで感じる、その生々しい悪夢を思い出すと声が震えた。

「最近では……ザックを撃った犯人に私は懇願してるんです。『私を早く撃ってくれ』って……『私も一緒に殺してくれ』って……」

洋子は黙って耳を傾けている堀井に顔を向けた。

「堀井さん、人間って弱いものですね。繰り返し見る悪夢の中で、私は確かに死にたいと思ったんです……もう生きていたくないと。ビルはそのことを見抜いていたんです……ザックは、助からないと言われていたらしいです。だからビルは何も言わずに私を日本に帰したんです。彼が生きてるのか死んでるのかも分からずに、心を遠い場所に置いてきたまま、ただぼんやりと生きていく方が、私が自ら命を絶つよりかはマシだと思ったんでしょう。病院であの女の子が『死なせてくれ』って叫ぶのを聞いた時、夢の中の私の声かと思いました……」

洋子は頭を深くうなだれた。

「……こんなこと、ザックが聞いたらガッカリするでしょうね……」

「そんなこと、ありませんよ……」

堀井は前を見たまま言った。

「あの人だって同じですよ」

「ザックが?」

洋子は顔を上げて堀井を見た。

 堀井はザックを空港まで送っていった日、あの負けず嫌いな男が呟いた言葉を思い返していた。

「自分を撃った犯人と刺し違えてもいいと思った」

怒りと絶望、それらがない交ぜになったザックの目が忘れられない。

「あの人だって、ふとした事で生きるのを諦めたくなる時もあるでしょう……」

 堀井の言葉を受け、洋子は病院で怒り出したザックを思い出した。

「二度と死にたいなんて思うな!」

それは自殺を図った少女に言ったものなのか、洋子に伝えたかったものなのか、それともザックが自分自身を戒めたのか。洋子は、その全部なのかも知れないと思った。考え込む洋子に堀井が微笑んだ。

「それでもあなたは、こうして今ちゃんと生きてるじゃないですか。そのことを褒めてあげてください。これからは大事にしてあげてください」

生きているからこそ、こうして新しい生活へと旅立つ事が出来る。子供っぽくて傲慢で、許せないほどに素直でなく、それでいて愛おしいあの男と共に暮らすために。これが自分に出来る、幸せになるための努力。それを放棄してはいけない。洋子はゆっくり深呼吸すると頷いた。

「堀井さんって意外といい人なんですね」

堀井は前を向いたまま照れたように苦笑いをし、洋子はクスッと笑った。

「今の言葉、あの女の子にも言ってあげてください。それと、あの子の両親にも」

堀井は頷いた。

「分かりました」

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